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「「無窮花の哀しみ」伊藤孝司(風媒...」、@togatogaunion さんからのスレッド

「無窮花の哀しみ」伊藤孝司(風媒社)。金英実(キムヨンシル)さん。1941年日本人に工場で働けると騙されてレイプセンターに。1日20〜40人の兵隊にレイプされた。仲間が朝鮮語を使った理由で目の前で将校に日本刀で首を切られた。拷問。水を飲まされて、お腹に板を乗せられ2人に乗られた。日本人は極悪

「無窮花の哀しみ」伊藤孝司(風媒社)。金英実(キムヨンシル)さん。1941年日本人に工場で働けると騙されて...

関東大震災で朝鮮人を虐殺した心性と全く変わらない。騙して、監禁して、レイプして、日本刀で首を切り、拷問した。
1945年8月13日に、日本に連れて行くと言われたのて必死に逃げた。
日本に連れて行って虐待するつもりだったのでは。敗戦がわかっても! 日帝はとんでもないクソ野郎 💢

李相玉(リサンオク)さん

17才で処女供出の名目で連行される

毎日レイプされるだけではなく面白半分に暴行された。折り曲げた足の間に棒を入れられ膝の上にのしかかられた

一緒に連行された子は殺された。血みどろで苦しくて呻いていた

解放後も傷が残り体が不自由。レイプの為子供が産めなかった

沈美子(シムミジャ)さん

16歳。学校の先生に頼まれてアサガオの花を並べた日本の地図を刺繍した。

校長に呼び出されたら日本人の警察官がいて、日本の花であるサクラで刺繍を作らなかったのは思想が疑わしいと怒鳴られ警察署に連れて行かれた。

電気拷問をされた。両手両足を縛られ電気を流された。竹の針を手の爪の下に差し込まれた。熱したコテを肩と首に押し付けられた。

拷問で失神した間に日本の福岡の「慰安所」に連れてこられた。

9割が「工場に就職させてあげる」と騙さ1割が学校で捕まった朝鮮の女性が27人ほどいた。

終戦後、食べるために工場で朝鮮の女と働いた。ただ働き。食べるだけ。みな性病にかかっていて血と膿を出していた。

16才の娘の青春、夢、憧れなどが引き裂かれた。今も梅毒で皮膚が痒い。朝鮮に帰るまえに手術で子宮を取り出してしまった。家族は北にいるのでどうなったかわからない。

日本は私たちに悪いことをしたと良心を持って謝罪して欲しい。

日本の若い人たちに、日本軍に監禁暴行されたわたし達について教科書で教えて欲しい。

16歳の女の子を学校から❗️連れ出し、因縁をつけて(お父さんが放浪していると話したら思想的に怪しいと拷問した。意味がわからない)凄惨な拷問をして、日本に拉致して、性奴隷にした

うなされそう。悪行を日本人はシステマティック(ここがさらに恐ろしいところだ)に朝鮮の女性に行った。

こういうことをやっていた爺いがついこの前まで社会で権力にぎったり、そこらをうろうろ散歩していた訳だ。

いままで読んだ証言ではみな10代の少女が犠牲になっている。

日本人の男のロリコン趣味は、日帝性奴隷制度を総括して裁いて謝罪していないからじゃないのと思ってしまう。

伊藤孝司さんの「ムグンファの哀しみ」は2014年2月28日発行。風媒社。

多くの日帝性奴隷被害者にインタビューされた方。

この本ではすでに亡くなった韓国人8名、朝鮮人10名の証言を紹介。

名乗り出て韓国政府に登録された被害者は237名、2014年1月現在、健在な方は55名。

朝鮮で名乗り出た方は219名。
名前と顔を明らかにして証言したのは46名。公開証言者で健在な方は、2009年現在、10名未満。

名乗り出た方は、被害女性のごくわずかと推定される。

最近ニュースでみた韓国の生存者は確か22名だった。

時間がない。

公害裁判などで使う、日本人が得意とする被害者が亡くなるのを待つ邪悪な戦術を使っているのだろうが、大変な禍根を残すと思う。

また、1人、証言を読んだが1日にお一人の証言を読むのもきつい。
吉見義明さんの岩波新書を読むのとは訳が違う。被害者の方の写真があるのでさらにダイレクトに胸に迫って来て、こちらもダメージを受ける。図書館からは挺対協の証言集を借りてあるが果たして読み切れるか...

金大日(キムデイル)さん。

家が貧しく、12歳で金持ちの家に売られ、その後日本人経営の紡績工場に売られる。

1932年、日本人「福田」に食べ物に困らない所に連れて行ってあげると言われ大阪の病院で雑役。18歳の正月に院長にナイフを突きつけられレイプされる。

院長が見知らぬ日本人に引き渡し従軍慰安婦として軍隊に送り込まれる。満州。動けなくなった朝鮮人女性を兵隊は刺殺した。

上海の民家のレイプセンターに閉じ込められ、朝6時から夜中の2〜3時までレイプ。1日40人から50人にレイプ、1、2時間しか眠れない。

漢口、南京を師団に連れ回される。50人にレイプされ疲れ果て倒れると火のついたタバコを鼻や子宮に入れられた。
将校がシェパード犬に襲うようけしかけられた。

耐えられずに2回も自殺をはかるが使い道があると死なせてくれない。死ぬ自由もなかった。

隣の妊娠した女性にレイプを強要、胎児を無理やりだして、ごぼう剣で刺殺し、女性も殺してしまった。
中国人の首を切るのもみせられる。見せしめ。

敗戦が決定的になると朝鮮人、中国人の女性150人を2列に並ばせ、首切りを始める。意識を失ったので助かる。血の海の中で助かったのは3人だけ。

中国人に匿ってもらい朝鮮人の家に滞在、父と母に会いたくて帰国すると両親は亡くなっていた。

思い出すと今でも頭に血がのぼり身震いするほど腹が立つ。中国人の大地には虐殺された朝鮮の女性の血が染み込んでいる。

子宮は滅茶苦茶にされ、心臓は痛く、大腸をレイプされたのでいつも下痢をしている。12年間。

1992年6月、テレビで、日本の雑誌で朝鮮人慰安婦はお金のために日本軍についていったとしている、と放送されたのを観て、なにをこの野郎と思わず叫び、名乗り出た。わたしにとって、お金が問題じゃない。

姜順愛(カンスネ)さん。

1927年生まれ。14歳の時に「処女供出」が激しくなり火葬場に二週間隠れていた。

馬山の桟橋でふすまを集めていると、軍人と警官に付き添われた村長の息子がきて、配給をもらうように言われ、警官に配給所に連れていかれた。

「君が代」を歌うと二合も多い米をもらった。

しかしそれは、おとりだった。

話が村中に広まり、村人は隠していた娘を配給所に送り込んだ。

3日後、赤い腕章をした3人の軍人がやって来て、釜山の旅館に連れ去られた。大阪の会社に行くと言われた。父は包丁をだして、抵抗したが刑務所に留置された。

35人の娘が広島に連れていかれた。「マイ子」と名前が付けられた。北のほうから来た30名の有名なキーセンもいた。

船に乗せられ南洋諸島にむかった。船は攻撃をうけ海へ沈んだ。33名が無事救助されたが2人の友達が行方不明になった。

1カ月と3日でパラオに着いた。陸軍慰安所の看板が掛かっていた。

医者が身体検査をして10人の若い女が慰安所にいれられた。沖縄の女性も10人いた。

慰安所は玄関に続いてそれぞれ3部屋あり、奥に将校用の7部屋があった。部屋は布団1枚を広げられる程度でとても狭かった。

最初の日は13人の相手をさせられた。朝9時から夜9時まで兵士、その後は将校。

兵士は受付でチケットを渡す。名前と部隊の判が押してある。

週一で軍医の検診。性病感染予防の六〇六号。痛みがきついときはモルヒネ注射やアスピリン。

軍人は自分の好き放題をやった。コンドームを使うよう頼んだら、お腹を蹴られた。ある軍人は、女性の乳房と性器を銃剣でえぐり取った。

ガスパンに送られた。米軍の空襲は激しく1人の娘と2人の兵士が死んだ

そのように追い詰められても防空壕の外に20のテントを張って「慰安所」とし兵士が列を作った。1日20人〜30人の相手をさせられた

さらに戦争が激しくなるとテントを山の中に移した。毎日40人〜50人の相手をさせられよく失神した。

ある女性が将校を刺した。見せしめで、全員を集めて斬首刑に立ち会わせた。

食べる物も底をついたのに、「慰安婦」として働かされた。1945年9月中旬、米軍が島に上陸して、私達をあつめて調べた。朝鮮・日本・沖縄と出身別に分けてひとりひとり写真を撮った。

米軍の船で、1946年2月に馬山に着いた。

弟が日本人警察官の「岩本」に刀の鞘で殴られて亡くなっていた。

33才で結婚。助け合いながら暮らした。しかし1992年に夫が亡くなり、生活が厳しい。

私は、女として人並の生活を送ることができないほど、心身共に傷つけられた。

言いようのない屈辱と迫害を受けて来た人間として、私の過去を明らかにすることでこの問題の解決に尽くそうと心に決めた。

パラオとか激戦地まで女の子を運んでいるんだよね、日帝軍は。

空襲になっても防空壕の外にテントはって「慰安所」にしてるって明らかに異常だよね。

なんか義務でレイプしているみたい。やられるほうはたまったもんじゃない。

それと激戦地にまで「慰安所」つくっているんだから日帝軍あるところにはどこにでもあったってことだね。

つまり、日帝軍人は殆ど日常的にレイプしていたってことになる。

だから、元軍人が名乗り出た被害者を助けなきゃいけなかった。

デマだの売春婦だの罵られているんだから贖罪の意味でも彼女らを助けなきゃいけなかった。💢

まあ、見せしめで斬首刑なんて無茶苦茶残忍なことをやっているから出てこないんだろうけどさ。

黄錦周(ファンクムジュ)さん。

父が病気で家のお金がなくなったため、12歳の時に、父の薬を買うために100円のお金をもらって、ソウルの金持ちの家の養子になった。

面長から工場の「募集」の話が来た。断ると日本人から殴られたりいろんなことをされたから誰か一人は行かなくてはならなかった。

娘は3人いたが、養子だったので「私がいく」と言った。

集められた誰もが、工場へ働きに行くものと思っていた。シンガポールが陥落した年(1942年)だった。駅まで朝鮮人が引率し、若い女20〜30人と軍の列車の車両に乗せられた。黒いカーテンで窓から外が見えないようになっていた。

犬のように扱われ、兵隊の顔を見ただけで「なにを見ているのだ!」と言われた。2日汽車に乗っていた。騙されたのがわかったのは、途中の駅のスピーカーで「シンキョウ」と聞いたから。

吉林駅に着き、国防色のトラックに20〜30人乗った。銃を持った兵隊がいたので逃げられなかった。

陸軍の小屋に入れられた。憲兵が見張っていて逃げられなかった。外の便所に行って「お母さんもこの空を見ているのかなあ」と空を見ていた。

なにが起こるか知らなかった。次の日から兵隊の相手をさせられた。「結婚前に男の人と関係するようなことになったら死ななければならない」と思っていたので

許してとお願いしたが、兵隊はパンツをナイフで切ったため、気を失った。

兵隊は朝夜お構いなしに来た。1日に20人くらい。言われた通りにしないと殴られたり蹴られたりした。生理帯をくれないので、布を盗んでつかったが殴られた。病気になったらご飯ももらえなくなる。

兵隊に性病を移された。性交すると病気がうつるからと、「性器をなめろ」「精液を飲め」と要求する兵隊もいた。男の性器などみたこともない娘だった。今でも精液を思い出して牛乳が飲めない。

自殺した女の人もいた。自殺しようとしている仲間を見つけたら、兵隊に知らせないとひどい目にあった。

それでめアヘンを飲んで血を吐いて死んだり、便所でゲートルを使って首を吊った人もいた。

将校と激しい喧嘩をした女の人は、性器を拳銃で撃たれて殺された。こんなひどいことを日本人がしたのを知っていますか?

6ヶ月たって大佐に「工場に行くと聞いていた。兵隊の相手をするためにきたのではない

こんなことをさせるお前らは人間か」と言って顔に唾を吐きかけた。軍人は「国と天皇の命令である。言いたいことがあるなら天皇にいえ!」と言って殴った。大怪我をして、3日気を失っていた。怪我の傷の痕は今でも痛む。

サハリンに連れていかれ、また吉林省に戻り、解放を迎えた。

「報告隊」「徴用」や軍人に行ったたくさんの人の、朝鮮に帰る行列と出会い、2ヶ月間歩き続けて命からがら帰って来た

養子でいたところには恥ずかしくて戻れなかった。病気をしながら食堂で働き、お金を貯めて小さな食堂をはじめた。子供を産むことができなくなっていたので養子で4人の子供を育てた。

日本人が私たちにしたことは、あまりにもひどい。自分の娘からならば「慰安婦」にできなかったでしょう。

昭和天皇には言いたいことがたくさんあった。部隊では「天皇の命令だ」と毎日聞かされたからだ。

恨(ハン)を死ぬ前に晴らそうと思っている。私たちが生きているうちに、日本政府は事実を調査して早く補償をするべきです。

韓国と日本の若者同士な仲良くするためにも、過去のことを早く解決して下さい。

黄錦周さんのケースは工場で働くと言われて騙されたパターン。
それにしてもレイプだけ(それもひどいんだけど)じゃなくて、虐待が酷いね。殴るのは当たり前、それに性器を拳銃て撃つとか、完成に消耗品のモノ扱い...

郭金女(カククムニョ)さん

8歳の時に父がなくなり学校へ行けなかった。16歳の時光州の日本人経営の製糸工場へ。1年後、事務所に呼ばれ日本人の刑事らしき男に「パンや飴をつくるソウルの食品工場で働くとお金が貯まるしお腹が一杯になる」と言われた。娘たちの名簿が会社から刑事に渡されていた。

ソウルに着くと牡丹江へ行こうと言われた。「なぜ中国へ?私は行かない」と抗議すると「朝鮮は植民地だからどのみち、お前たちは死ぬ」と言われ列車に無理矢理のせられた。満州とソ連の国境のもくりょうに軍のトラックで連れていかれた。憲兵隊が駐屯地している3階建ての建物に閉じ込められた。

1〜20番の部屋があり、中は2畳ほどの狭さ。大事な髪を切られ母が作ってくれたチョゴリを浴衣に。「レイコ」と名前をつけられた。悔しかった。憲兵の将校がのしかかってきたので手を噛んだら、麻酔の注射をされてレイプされた。気を取り戻すと他の日本兵が襲ってきた。他の部屋でも悲鳴があがっていた。

1日に20〜30人を相手にさせられた。抵抗すると「子宮をとってしまうぞ!」とナイフで切られた。刺された太腿の傷痕が残っている。向う脛は刀で抉りとられた。私の身体は刀傷だらけです。一緒に連行された李春心は激しく抵抗したら将校は乳首を歯で食いちぎった。

血が激しく吹き出し、彼女は破傷風で死んでしまった。子宮を蹴られて、2日後に死んだ女性もいた。「言う事を聞かないと地下室へ入れるぞ!」と日本兵は言った。地下室は殺された娘の死体が捨てられていた。腐った臭いがが充満してひどい所だった。

逃げて捕まった女性は私たちがみている前で皮のベルトで彼女を叩いた。1週間亡くなり地下室に捨てられた。殺された女性は10人ほどになる。このままでは殺されると思い、朝の4時に逃げ出し、朝鮮人が個人経営する病院に匿ってもらった。日本が犯した罪は大罪だ。

これから人生が開花するという時に連行され実を結ぶ前の私を駄目にした。1日に20〜30人の兵隊が犯し、奴隷のように扱った。人間としてできるはずのないことをし、逃げられなかった娘を殺した。世界にこのような仕業をした国がどこにあるでしょうか。私の本音を言うと、日本人は非常にあくどい悪魔です

傷だらけの身体を見てください。強く殴られたため、今も後遺症で頭痛が起きます。目眩や吐き気もあります。脚にはしびれがあり、洗濯する時などに力を入れると痛みます。「自分の父や祖父は、政府の指示で朝鮮に行って沢山の女性を性奴隷にした」ということをその家族は知るべきです。

そして、その息子や孫たちは日本政府に、過去の問題の解決を要求しなければならないと思います。日本が謝罪と補償をしなければ、朝鮮では次の世代にも日本への恨みは残るでしょう。

郭金女さんも10代で騙されて満州とソ連国境まで連れていかれ性奴隷にされた。前線まで誘拐した女性を連れて行くことに狂気を感じる。虐待がひどい。平気で殺して地下室に放り込む。見せしめでそれを見せる。無茶苦茶。ヘドがでる。

李桂月(イゲウォル)さん。
地主の小作をしていたが父が死んだため、母・兄・妹で追い出されて2年間乞食をした。兄は鉱山で怪我をして働けなくなった。8歳で面書記の子守に。13歳で旅館の下女となった。1937年3月区長に「いい仕事口を紹介してやる」と言われ家族と離れてたくないのて断った。

翌朝、手先の洞長が来て無理やり駅へ連れていかれ貨車に押し込まれた。兵士と「高田」という将校がいた。中は真っ暗で2人の少女がいた。イブ二と李永子。泣きながら扉をたたいたがどうにもならなかった。哈爾濱から木欄県に行き民家が一軒もない日本軍駐屯所に連行された。

3人別の部屋に入れられそうになったので抵抗したら殴られた。兵隊に「天皇の命令でお前たちはここへ来たのだ。死ぬか生きるか選べ!」と脅され恐ろしくて震えた。建物は板張り床はムシロ。「いらっしゃいどうぞ」という日本語を教えられた。10日後「高田」がきて殴りながらレイプされた。

日曜は魔の日。一日中兵士が列をなし暴力的に私たちをレイプし続けた。朝8時から夜中の12時過ぎまで30〜40人の相手をさせられた。言われたようにしないと肋骨が折れるほど殴られ蹴られた。私は「松子」、イブ二は「愛子」、永子(ヨンジャ)は「エイコ」と呼ばれた。

朝礼が毎日あり「皇国臣民の誓い」を暗唱できないと貴様!と怒鳴られあごを殴られ気を失った。あごの骨が歪んでしまっている。軍刀で刺された傷が今も残っている。食事はムギ、タイ米、アワなどだったが軍犬には牛肉や野菜を入れた汁が与えられていた。病気になっても治療してくれなかった。

ヨンジャがお腹が膨らむ病気になったら「高田」は「朝鮮女が100人死のうと関係ない。妊娠して役立たずだから殺す」と言ってヨンジャのお腹を軍刀で切った。ヨンジャは野原に放置され犬が貪り食った。それを見て私たちは気絶した。イブ二は13歳で子供なのに日曜日は100人にレイプされた。

イプ二の叫び声を聞いて駆けつけると刺し殺されていた。3人で一緒に帰ろう死ぬなら一緒に死のうと誓いあっていた。次はわたしだと思った。際限ないレイプで気を失っていると「高田」は反応がないのでタバコを腹に押し付けた。熱い!と暴れると「これは面白い」と、

全身にタバコで火傷を負わせわたしは気を失った。傷跡は今でも残っています。5人の女性が逃亡しようとして捕まった。全員集められて手足をロープで縛られてた女性を奴等はマンホールに投げ込み水面から顔を出すと棒でなぐりつけて水死させた。「逃亡すればお前達もこうなるんだ!」と怒鳴りつけた。

2年も地獄のような生活を強いられた。「高田」の誕生日に松花江にピクニックに連れ出されたとき中国の強い酒を飲ませ酔い潰し逃げた。釣りをしてあた朝鮮人の青年に匿ってもらい哈爾濱に連れて行ってもらった。朝鮮人の家を頼って1年半かけて故郷に辿りついた。乞食をしていたら兄に会えた。

母は亡くなっていた。1年程すると「処女供出」のうわさを耳にした。死ぬ思いをして戻ってきたので再び繰り返したくないので顔も知らない17歳年上の男性と結婚した。「供出」からは逃れたが子供も生めないし一人前に働けなかった。朝鮮戦争で孤児になった女の子3人と男の子2人を育てた。

自分の体験は隠していた。「慰安婦」という言葉すら知らなかった。浴場でも体の傷を見られないように隠していた。純潔のまま生涯を送ったと思われたいと子供にも25年連れ添ったおっとにも話しませんでした。ですが、テレビで国が「慰安婦」にされた女性を探しているとの話を聞き、

私個人の問題ではなく朝鮮女性全体の問題だと思い直して名乗り出た。亡くなった息子の嫁が感激して、「再婚せずにお母さんの面倒をみるし孫の代になっても恨(ハン)を晴らします」と言ってくれた。連行され辛酸をなめた過酷な日々を振り返って日本の皆様に申し上げたいことがあります。

日本から受けた野獣のような仕打を考えると、今も憤りで全身の震えが止まりません。なんの罪もない幼い多数の朝鮮人女性を「慰安婦」にして虐殺した大罪について謝罪するどころか、国家として何の関与もしていないという日本の態度に私は怒りを禁じえません。私自身一銭も貰ったことはないし、

一部の奴等が言うような商行為ではありませんでした。ありもしないデマを流すことは決して許されません。日本を丸ごと売って補償してくれたとしても罪はまだ残ります。
(取材:1999.7.15/2001.3.19)

大体似た暴虐を日本人はしている。貧しく幼い朝鮮人女性を騙して遠い戦地に連れて行ってレイプする。抵抗すると殴る蹴る。1日に30〜40人の相手をさせレイプ虐待もする。逃げて捕まった女性を拷問しながら虐殺し見せしめでみせつける。これが標準パターン。運良く逃げれた一部の女性が証言している。

証言を読んでサマリーした後はショックで胸が痺れたように無気力になる...
日本政府はいまもって法的責任を取っていない。責任者の処罰もしない。それどころか平和の少女像の建立を妨害し、教科書から性奴隷被害者の記述をなくそうとしている。怒りしかない。

文玉珠(ムンオクチュ)さん。

両親には決まった仕事はなかった。8歳の時に父を亡くした。いつもお腹が減っていて米は食べられなかった。夜間中学に3年通ったがお金がなくて中退した。つらくて泣いた。10歳くらいからお手伝いさんを5年ほどして靴下工場で2〜3年働いた。

顔見知りの朝鮮人から「ちょっと遠い所の食堂で働けばお金が儲かる」といわれた。どこへ行くのかは教えてくれなかったが「故郷へ金を送ったら家族が楽に暮らせる」と言われたので行くことにした。反対されるので誰にも言わずに家を出た。
1942年7月9日、釜山に汽車で行った。

15〜18歳の女の子を20〜30人集めていた。船には150〜200人の女性がいた。皆騙されるた人だった。船の1番下にいれられた。食事の時上にあがると米軍機が撃ってきた。ビルマのラングーンで朝鮮人の兵隊が慰安婦にされると教えてくれた。食堂で働くはずなので皆びっくりしてそれから昼も夜も泣いていた。

すぐに自殺した人もいた。配属されたのは前線のマンダレー。「慰安所」の建物は兵隊が作った。ムシロで仕切っただけの部屋で外から覗けた。朝9時から兵隊がきた。毎日、一人で30〜70人の相手をさせられた。時間は1人1時間とされていたが外から早くしろと兵隊が叫ぶので次々と交替していった。

朝鮮人の軍人軍属も来て同じ民族の私たちが可哀想だと一緒に泣いたこともある。淋病にかかった人は入院もできないので慰安所で寝ているだけ。

月1回は休みで外出できた。兵隊は切符を持ってくる。連れてきた男が半額、女性には半額現金で渡される。しかし生活費で消えてしまう。

チップを貯めて1万5千円預金した。下関に本社がある「野戦郵便局」。

兵隊からはいつも「朝鮮ピー」「朝鮮人のくせに」と言われていた。酔っ払って日本刀を振り回す兵隊もいた。5ヶ月後、インドに近い最前線のアキャブに移された。英軍機の空襲がひどく足に爆弾の破片の傷が残っている。

ラングーン、バンコク、アユタヤに移動し、そこで無条件降伏を聞いた。3ヶ月後帰国することになった。地元から一緒に行った17人は投身自殺、薬物自殺、肺病での病死、船の沈没でなくなった人がいて13人だった。「野戦郵便局」の預金通帳があったので下関に行きたかったが仁川についた。

大邱の実家につくと家族は泣いて喜んだ。タイから手紙と一緒に送った5千円がついていた。食堂で働いていると思っていた。

結婚はしなかった。「慰安婦」だったしお金もなかったから。行商で苦労して生活した。1979年頃、子宮が痛くなり内膜炎でラッパ管を切ってしまった。

いまでも子宮が痛いし腰が痛いのも「慰安婦」をさせられたからだと思う。同じ船で帰国した人とは連絡を取ってる。彼女たちは「自分の体験は話したくない」と言っている。私が話す気になったのは弟がいるが家庭がないから。

こんな体験をしたので未だに夜はよく眠れない。あの頃の光景が鮮やかによみがえり、泣き明かすことが多い。思い出すのはラングーンで自殺した女性の死体を焼いたときよく焼けるようにと棒でつついたら死体から油が流れでたこと。帰国して2年ほどは焼肉が食べられず今も思い出す。

サイレンが鳴ると外に飛び出してしまう。
日本から補償金をもらって私立の養老院に入りたいです。補償金も貰いたいですが、私の人生がこんなことになってしまったことへの道徳的な謝罪を日本にしてもらいたいです。

(取材:1991.12.18/1996.2.26)

文玉珠さんの場合、典型的な騙しなんだろう。200人ぐらい集めて東南アジアへとかなり大規模にやっている。貧しく若い未成年の子を狙っている。おおっぴらだ。理由が性病にかかってない女性というからかなり悪辣。しかし最前線に連れて行くって理解できない。植民地朝鮮は人間扱いされてない。消耗品。

李福汝(リボクニョ)さん。

4人兄弟の長女で弟が3人いた。しかし両親が死んでしまい、住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら乞食や農家の手伝いで弟を養った。
17歳の夏、小屋に帰ると、巡査か兵隊の2人の日本人が来て、髪をつかまれ、トラックに放り投げられた。

弟達が「お姉ちゃん行くな!」と泣き叫んだが男に蹴られて中に押し込められた。トラックには幼い少女から20歳前後の娘たちが100人くらいいた。泣き叫ぶ私たちを男達は殴り蹴り黙らせた。

水原で汽車に載せられ大連に連れていかれた。弟達が心配だしこれからなにが起こるか不安で泣いたら殴られた。

兵隊たちは哈爾濱、牡丹江で娘たちの一部を汽車から下ろした。私は東寧県で20人くらいの女性と降ろされトラックでプチャゴルに連れて行かれた。到着すると将校が「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す!」と言った。着いたその日からレイプされた。あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえた。

それからは少ない日でも30人くらいにレイプされた。ある日、2人の女性が兵隊の相手を拒否したら両手を縛られ庭に引きずり出された。兵隊は私たちを呼び集め2人を高い木に吊るした。娘たちは「犬のようなお前たちの言うことなんて聞かない」と言った。そしたら奴らは刀で彼女達の乳首をえぐりとった。

血が吹き出した。あまりに残酷なので気絶してしまった。彼女達が死ぬと、兵隊達は首を切り落として沸いたお湯の中に入れた。そして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。拒否したら殺されるので生きる為に仕方なく飲んだ。

ある日、逃げ出そうとして捕まった。板にくくりつけられて何十人の兵隊にレイプされ逃げられないように足の神経を切られた。砂地に天幕を張っただけのところに入れられた。私は鉄条網の下をくぐって逃げようとしたがまた捕まってしまった。

すると兵隊たちは、赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押し付けた。やけどはケロイドになってしまい今でも歩くのは困難で痛くて横になることもできないほどです。
ある時奴らは私達の食事に毒薬をいれました。(戦況の悪化で部隊を撤収する際に女性たちを処分しようとしたと思われる)

私はやけどのため早く歩けないため遅れて行ったところ、先に食べた女性がすでに死んでいたんです。這って逃げ出して、村の中国人に匿ってもらった。私は「慰安所」に8年間いました。体のやけどの跡を見てください、正視できないほどです。

1947年に帰国しましたが故郷には帰れず、子供を産むこともありませんでした。
(取材:1992.8.12)

性奴隷被害者の首を刀で切り落として、首を煮て、その汁を他の女性にのませたんだってさ、日本人兵士は。

猟奇的だけど、中国で日帝がやっていた三光作戦(「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」)を考えれば日本人にとっては普通のことかもしれない。

それにしても残忍過ぎる。

<Twenty Two>。相互フォローさんに教えて頂いた中国の「日本軍性奴隷被害者」さんのドキュメンタリー。

中国に取り残された朝鮮人被害者さんのインタビューも。
必見です‼️

海外のNetflix にはUPされて話題を呼んだが@NetflixJP だけはUPしていない😡
事実上の検閲です。

m.v.qq.com/play/play.html…

サボっていた続きをボチボチ書きます。

鄭玉順(チョンオクスン)さん。

1920年生まれ。
1933年6月3日、井戸で水を飲んでいたら、いきなり後ろから髪の毛を強く引っ張られて、制服の3人の男に捕まり駐在所に連れていかれた。
(13歳‼️)

汚い布を口に押し込まれてレイプされた。抵抗したら目を強く殴られて左目が次第に見えなくなった

7〜8人の兵隊にトラックに乗せられて恵山(ヘサン)の日本軍守備隊に連行された
大勢の女性が集められていた

鄭さんは1日に約40人もの兵隊の相手をさせられるときもあり、子宮からは血が流れだした。

8日27日、「1日で兵隊100人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。
その時に手を上げなかった15人の女性は、見せしめに殺された。

やり方は、裸にした女性達の頭と足を兵隊たちが掴み、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がす

噴水のように血が吹き出し、釘には肉片がこびりついた。

鄭さんは気持ちを「天と地が逆さまになった」と表現した。

次に兵隊は「言うことを聞かない者はまだいるか」と言って、釘の上を転がされて死んだ1人の女性の首を切り落とした

鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。

兵隊たちは殺した女性の頭を釜で煮て、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理矢理その汁を飲ませた。

殺された女性はケオリ、タノリ、ミョンスギ、ケチュニ、プンスギー...

守備隊の大隊長は「ニシハラ」、中隊長は「ヤマモト」で小隊長は「カネヤマ」。「慰安所」の監督は朝鮮人の「朴」。

1933年12月1日(鄭さんは記憶が鮮明で日付や人名をよく覚えている)、オ・チョンへという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された。

翌年、2月4日にはオ・ズンイという女性が、梅毒を将校にうつしたという理由で殺された。

口に布を詰められ焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。

恵山の部隊は女性達をつれて中国へと移動。
(恵山は中国東北部と朝鮮の国境にある)
1935年9月に広州に着く。
市街地から12キロほどの立派な建物に入れられた。

翌年、鄭さん含む12名の女性が逃亡するが捕まってしまう。

首謀者を聞き出すために拷問。

鄭さんは鉄の棒で頭を滅多打ちにされた。傷はまだ残っている。

次は水拷問。
口にゴムホースを押し込まれ水を注がれ、膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた。

鼻と口から水が吹き出し何回か繰り返されて気を失った。

鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さ吊りにされた。

兵隊は針がたくさんついた拳大の黒い塊を持ってきてそれに墨をつけた。

そして鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだ。

鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った。

口だけでなく、全身に入れ墨を入れられた。

兵隊たちは女性たちを殺す前に、その肉体に落書きをした。

鄭さんが指でめくった唇の裏には、鮮明な濃紺の斑点がある。舌にも青っぽい箇所がある。

たくさんの針を舌に入れられたので、それからは話すことも困難になり、完全には治っていない。

背中の下部には、背骨に沿って丸い点が数珠つなぎに描かれている。

胸と腹部には、何を描いたものなのか判別出来ないが、子供の落書きのような模様がくっきり残っている。

鄭さんは馬車で運ばれ、野原に捨てられた。

中国人の男性が捨てられる様子を見ていて、息のある女性を運び出し2ヶ月ほど介抱してくれた。

鄭さんは奇跡的に生き残った。

すげえ胸糞悪い。
私たち日本人の祖父や曽祖父がやったことです。
ほんで未だまともに謝罪もせず、教育もろくにしていない、と。
ま、このままだと、罰があたると思いますね、我々は。

2021.8.13 追記

桃さん @kusoyaroh333
永添さん @packraty
ddslumberさん @ddslumber

下記のチョン・オクスンさんの証言が国連🇺🇳のクマラスワミ報告に記載されていることを教えて頂きました。
追記しておきます。

クマラスワミ報告
チョン・オクスンさん証言。
awf.or.jp/pdf/0030.pdf

KBS が2021.8.15の光復節にカラー復元した「慰安婦」被害者さんの映像。
ボロボロです🙏😖

中国軍に解放される「慰安婦」さん達の衝撃映像はYouTubeでみれます。
桃さんのツイートをつなげます。

労働者。전라북도 임실군 강진면 필봉굿。派遣法廃止。資本制揚棄。天皇制廃止。Kurt Vonnegut、J・R・R・Tolkien、Arthur Ransome、Easy Rider、Mississippi Burning。共産主義者。日本共産党員じゃないすよ。新左翼でもない。マルクス主義者です。

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  3. 2019/03/07 01:56:35 公開
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