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「#かすみ笛SS 鶴丸は仕事場を出る...」、@kasumibue さんからのスレッド

#かすみ笛SS
鶴丸は仕事場を出ると、白い息を一つ吐く。時間は午後三時。まだ早い時間と言えるが、本来なら朝から休みに入る所がここまで伸びたのである。職業柄、こういったことには慣れてはいる。だが、今日は少し癒しが欲しかった。
鶴丸は休息を優先せずに、行先を馴染みの店にすることに決めた。

鶴丸がそのBarを気に入っている理由はいくつかある。
ひとつは、こんな微妙な時間でも空いている事。果たして昼前など客が来るのかとも思うが、その希少性から消防士や不規則な勤務の客を掴んでいるらしい。
そしてもうひとつ。雑居ビルの4階の看板の無いBarを訪れるのは、ゲイだけだからだ。

「いらっしゃいませ」
まだ明るい外から、光を落とした店内へ。まさに別世界。
「マティーニを」
カウンターに座り鶴丸はそう口にする。バーテンダーは洗練された手付きでステアをし、グラスへ注ぐ。同じ材料、分量を守ったとて、腕一つで味は丸っきり変わってしまう。凪を揺らしてオリーブが沈んだ。

鶴丸は一瞬だけ視線を逸らした。バーテンダーは意図を正しく汲み取り、黒いコースターにカクテルを乗せて鶴丸の方へと滑らせた。
この店には白と黒のコースターが存在する。白を敷くのは所謂出会いを求めてのアピール。裏は赤、表は金のロゴが入り、自分がタチネコどちらかを示めすシステム。

マティーニの下に敷かれた黒は、今探し人はしていないという意思表示だ。今日は上質な酒が飲みたいという目的で来ているし、鶴丸はもうずっと前から黒だけを選んでいる。
歳を重ねたからか、昔ほどの飢えは感じない。それどころか一時の快楽の前後で支払うあれこれが酷く面倒だった。

いつも通り、カクテルは徹夜明けの体に幸せの具現を与えてくれる。音にならない息をゆっくりと吐く。周りを見渡してみると、今日はテーブル席が一つ埋まっていて、後は鶴丸と同じようにカウンターに男が一人いるだけだった。グラスに口を付けながら、無意識に奥にいる男に目をやった。

テーブル席で聞こえてくるにぎやかな声と違い、黒のコースターを手元に置いた男はただ静かに酒を飲んでいた。照明を落とした中ではよく分からないが、男はあまり若くなく、己と年が離れていないように見える。珍しい。そう思った瞬間に、鶴丸の視点は一点で止まった。

グラスを持つ男の手は、黒皮の手袋で覆われていた。外なら必須な季節だとはいえ、空調は効いている室内ではその限りでは無い。その証拠に男のコートは掛けられているようだった。何故、わざわざ。疑問が産まれるが、それは奇っ怪故ではない。むしろその黒いタイトな手袋は彼にしっくりと合っていた。

「間違えているぞ」
小さな呟きが鼓膜に届く。それで不躾な視線に気付かれたと知る。
間違いとはコースターの事か、それとも自らに目を付ける事が、だろうか。
「間違えていないさ」
鶴丸はそう答えた。
「徹夜明けでそんな相手を探す程若く無いんでね。ただ、話し相手がいれば良いなとは思う」

俯いていた男の目が、初めて鶴丸の方へと向く。
「そうか」
「邪魔しても?」
「構わない」
鶴丸はバーテンに同じものを頼むと、席を立った。程なくしてグラスが並ぶ。
「よろしく頼む」
「ああ」
打算の無い所には特に乾杯は必要なかった。

「随分、」
「ん?」
「いや、徹夜明けでこの時間とは忙しい事だな」
「まあ求められるうちが花ってもんだ。君は休みかい?」
「俺も仕事終わりだ。お前と違って徹夜では無いが」
「それがいい。この年になって徹夜はキツイぜ。まず腰に来る」
「医者はやはり大変だな」
「ああ、……ん?」

「……どこかで会った事が?」
「いや初対面だ」
「何故、」
「半分は勘だが当たったようだな」
「残りを聞いても?」
「夜勤では無く、徹夜が急に降ってくる職種はそう多くはないだろう。後は、香水に隠れて消毒用アルコールの匂いが染み込んでいる」
「はは、凄いな。君は探偵かい?」
「いいや」

男はそう言って僅かに口角を上げた。鶴丸の中で、人に対しての面白いという感情が久しぶりに芽を出した。
「確かに俺は医者さ。産科専門でね」
「そうか。昨夜もか?」
「ああ、緊急帝王切開でな。臍の緒が首に巻いていて少し手間取ったが、もう落ち着いている。可愛い女の子さ」

男はまるで親類のように目を細めてそれは何よりだと安堵を洩らした。
「君は笑わないんだな」
「何故?」
「ゲイなのに産科医って、大体おかしいと言われてきたからさ」
「セクシャリティで仕事をする訳では無いだろうに馬鹿な事だ。それに俺には、とても尊い仕事だと思える。」

真っ直ぐな賞賛が照れくさくて、鶴丸は言葉隠しでカクテルに口を付けた。
「お前も、笑わないんだなと思っていた」
「え? 何がだい?」
「これを」
男は黒革の指先で、自らのロンググラスの端をつつと撫で上げる。水滴が表面を滑って、カウンターへと落ちた。

「似合っていると思う。君に」
男はきょとんと目を丸くして、それからけらけらと笑いだした。
「ふふ、はは、そう言われたのは初めてだ」
「そんな笑う程のことか?」
長い息を吐いて笑いを収めると、一口カクテルを飲みこんだ。

「これは職業柄でな。仕事中と、後は風呂に入る時以外は外さない」
「夏でもかい?」
「流石に素材は変わるがな」
「へぇ、そいつは大変そうだ」
鶴丸は頭の中で彼の職業を模索してみた。
「もしかして手タレってやつかい?」
「まさか。こんな中年に務まらないだろう」

中年、という単語は彼にはひどく似合わないように感じた。髪に混じる白を見ると確かに己と同じ位、四十は越えていそうだが、中年特有の身体のたるみなどは見えない。むしろ鍛えている方の意味合いで体格が良い。上品な年の重ね方をしている彼には、ロマンスグレーという響きの方が合ってた。

この彼が心血を注ぐ仕事とは一体なんだろうか。面白い、が興味へと変わる。
「じゃあ美容師とか?」
「違う」
「んー……トリマーとか」
「違うな。かすってもいない」
「むずいな。広い意味で芸能関係?」
「違うな」
「資格がいる?」
「俺は持っているが、必ずしも必要では無いな」
「なんだそれ」

勤務は基本的には平日のみ。制服がある。夜勤は無い。
「……これで名前も知らないような特殊な仕事って事はないよな?」
「ああ、お前も関わった事が必ずある筈だ。働こうと思えば日本のどこにでも、まあ過疎地域以外には職がある」
「余計に難しくなってきたな……」

「問題にしているのはそっちだろう?」
「当てられたのにやり返せないなんて癪じゃないか」
彼は構わないと笑ったが、しばらくして何かに気が付いたようにスマホを起動させる。
「すまんが、そろそろ時間のようだ」
そう言って氷の溶けきったカクテルを一気に煽る。

「待ってくれ、」
鶴丸は思わず声をあげた。
「連絡先を教えてくれないか。ルール違反なのは分かっているが、店に来るのもかなり不定期だからまた会えるとは限らないだろう。あれこれは置いておいて、俺とまた話をしてくれないか」
「では、友としてか?」
「ああ、君さえ良ければ」

「……こんなやり取りは四半世紀ぶりだな」
男は店の名刺を一枚取って十一桁の番号を書き込んだ。
「SMSしか使えないが」
「ああ、ありがとう。俺の事は鶴と呼んでくれ」
「鶴か、では俺は鶯で良い」
「鳥の名繋がりだな。鶯、今日は楽しかった」
「俺も悪くは無かった」
そう言って鶯は店を出た。

鶯とのやり取りはとても短いものだった。思い付いた時に質問を送ってみれば、彼の気が向いた時に返ってくるような関係。当日であったり、数日後であったり。それ位の頻度が負担にならずに続いていた。
忙しい毎日の中で、時折届く通知は鶴丸の些細な楽しみになっていた。

何度か彼の職種を当てようとしてみるが、空振りに終わっている。
デスクワークでは無い、むしろ肉体労働。転勤無し。個人事業主では無し。朝が早く夕方も早い。
情報が増えても検討はつかず。だがそれでも構わなかった。気安く話を続けられるひとつの話題であれば。

あのBARから出会って十日後に、鶴丸は飲みに行かないかと誘いを出した。
「土曜は駄目だ。今週は仕事がある」
その返事に思ったより鶴丸は落ち込みつつも、土曜出勤が有るのかと脳内に書き加えた。
仕方ないと返事を返そうとした瞬間、鶴丸のスマホが振動した。

「日曜か、来週の夜なら空いている。美味い飯が食いたい」
下げて上げるなんてこの野郎。そう思いつつも鶴丸の機嫌は分かりやすく上がっていた。何が良いだろうか、どこに行こうか、思考が一気に地図を広げる。年相応の、きちんとした店も勿論知っているが、彼との行先にはきっと似つかわしくない。

友との、彼との飲みなら、もっと気安い場所が良い。
「少しばかり狭いが美味い焼き鳥屋が有るんだがどうだい?」
「共食いだな。楽しみにしている」
共食い。駄目だ。彼の返しがツボに入る。この感覚はひどく懐かしい青春に似ていた。
鶴丸は革の手帳に、「共食いの日」と書き込んでまた笑った。

先に楽しみがあるのは久しぶりだった。この日の当直は代われないからなと同僚にも念押ししておく。それでも少しずれ込んだので、駅まで走った。今は電車の方が確実だ。
駅に着いて、大きなモニュメントの前で人影を探す。
約束の二分前。
「やあ」
「ああ、お疲れ」
マフラーに埋もれた彼がいた。

「待たせたか?」
「いや、さっき来た所だ。それより寒い。早く行こう」
「あ、ああ」
隣を歩く足音。歩く速度も同じ位だった。
「もしかして、寒いの苦手なのか?」
「好きでは無い。職場はぬくいからな」
「なるほど」
新しい情報を脳内に書き込む。店まではもう少し。

狭い店の、一番奥のカウンターに腰掛けた。
「とりあえず何にする?」
「麦のお湯割りを」
「なら俺も焼酎にするか」
とりあえず酒を頼み、焼き鳥のページを隣に広げる。
「なんでも美味いがおすすめは鶏皮かな。普通の皮とは全く別物なんだ。下焼きを何度もして余分な脂を落としてしつこくない」

「ほぅ。珍しいな」
「後はささみも美味いが、これは生で食えるやつを外側だけ炙っているから好みがあるかな」
「そうだな。では鶏皮のタレと、後は王道を何本か貰おうか」
「じゃあ串盛りと、だし巻きも頼んでいいか?」
「ああ、美味そうだ」
丁度良いタイミングで焼酎が来て、注文を書いた紙を渡す

「じゃあ、まあお疲れ様」
「ああ」
飾り気の無いグラスを当てて、それから口を付ける。温かい酒が身体に滑り落ちる感覚に、二人とも息を吐いた。
「ん、美味い」
「そいつは良かった」
お通しのカブの餡掛けときんぴらをつまみ、奥の焼き台を眺める。
「炭の香りは腹が減る」
「はは、違いない」

出来たての鶏皮串にかぶりつく。さくりと噛み切れる程に脂は抜かれているが旨みはそのまま残っている。噛み締めて堪能した後の焼酎がまたたまらなく美味い。鶴丸が横を見ると、鶯はもう一本を食べきり、串を竹筒に入れていた。
「口にあったかい?」
「これは初めて食べたな。確かに美味い」

鶯は鶴丸の予想よりも良く食べ、良く飲む男だった。次は何にするか。砂肝も美味そうだ。漬物の盛り合わせと、手羽先も食べたい。二人で何本食べたのか、もう数えるのが面倒な位だった。酒も回ってほろ酔い加減が心地よく、話も弾んだ。
「なら同じ産まれ年か?」
「俺は早生まれだから学年は違うな」

鶴丸は四十二で、鶯は四十三と言う。なるほど、だからこう話が合うのか。鶴丸は昔の旧友にあったように接している心地になった。昔の友で今も続く縁は居ないはずなのに。
鶯は少し赤みが差した顔で、鶴丸に投げかけた。
「鶴は、何故産科医になろうと思ったんだ?」

「あー……それはな、こう、若気の至りというかなんというか」
「…………」
「いや、君の思ってる不純な動機とかじゃないぞ!? そりゃ純粋でもないが、こっちは物頃付いた時からゲイだったんだぜ?」
「ふむ、余計に気になる」
「特に面白さは無いからな」
「それでも良い。お前の事を教えてくれ」

真っ直ぐ好奇心を向けられて、鶴丸は観念したようにため息を付いた。
「じゃあ話すが……引かないでくれよ」
「ああ、分かった」
「……高校の時な、女生徒に異常にモテてた時期があってな」
「……」
「……今、引いただろ」
「気のせいだ。続けてくれ」

「ああ。今考えると恋に恋する時期だったんだろうな。手頃な標的として選ばれたのかなんなのか。いつの間にかファンクラブなんても出来てたらしい。まあノーマルなら良い思い出かもしれんが、もうゲイを自覚している俺には追っかけられるのは恐怖でしかなかった」
「まあ、それは災難だったな」

「すっかり女性がトラウマになってな。それで進路が被らないように必死こいて勉強して医学部に入ったんだ」
「それで受かるのが凄いな」
「まああの頃はがむしゃらだったから」
「それで、研修か何かで産科に決めたのか?」
「あー……実はな、思ったより医学部にも女生徒がいてな」
「ほぅ」

「高校程じゃないが、まあ色々と……」
「ふふ、色男は辛いな」
こぼし笑いをしながら鶯は焼酎を飲み、鶴丸は青い時代を振り返って自虐のため息をついた。
「それで本当に参ってな。女性を避けるなんて確率的に無理だと悟った。いや、女性自体というより言い寄られる行為が駄目だったんだ」

「本当に自意識過剰だが、そういった可能性の少ない所に行きたかった。その時に先輩達の話を聞いてな、婦人科はともかく産科に来るのは殆どがパートナーがいる女性だから出会いが無いって、これだと思ったんだ」
「はは、なるほど、その理屈は間違い無いが……ふふ」
「若気の至りってやつさ」

「きっかけが不純なものだったから、実習をして研修に行って、本当に大変な仕事だと思い知ったよ。でも出産に立ち会いさせてもらった時に、予想以上に衝撃だった。自分がゲイである事はこの先も変えられないだろうけど、生命の誕生にほんの少しだけ手伝いは出来る。この仕事がしたいと心から思った」

「……やはりお前の仕事はとても尊いな。尊敬する」
「なんだかちょっと恥ずかしいな。ちゃんと答えたんだから君の話もなにか聞かせてくれ」
「もう当てっこは終わったのか?」
「それは続行だ。絶対に当ててみせる」
「俺は別に構わないんだかな。まあ、好きにするといい。さて、何の話にするか……」

小鉢を摘んで、焼酎を飲んで、それから鶯は話始めた。
「……そうだな、俺には弟がいるんだ。今はすっかり育ってでかいんだが、小さな頃はそれはもう可愛くてな。目に入れても痛く無いとはこの事かと思った」
「へぇそうなのか。俺も妹がいるが、可愛いというよりやかましかったな」

「俺の所は十三離れているからな」
「……そいつはまた」
「ああ、母親が違う」
「いや、そこまでは言ってないぞ!?」
「別に気にしていない。家族仲も悪く無いしな。ただ、中学一年の所に赤ん坊が来たんだぞ。ふくふくしてまだ何も出来ない体で、ふにゃふにゃと泣くんだ。衝撃だった。可愛過ぎて」

「好きあらば世話を買って出ていたな。あまりに構いすぎてな、思春期には大分嫌われてしまった」
「お、おう……それで」
「あいつが大人になってからは良い距離感で付き合えているさ。だが、その一件が有って今の俺がいるようにも思う」
「……君って保育士か何かなのか?」

「まさか」
大分飲んで赤らんだ顔を緩めて、鶯はへらりと笑って見せた。
「俺はな、好きなものを可愛がり過ぎて駄目にする性質なんだ。黒子が合っているのさ」
「君、」
「それに俺はひどい音痴だからな。飛んでる鳥も落ちると言われた」
「ふふ、ははっ!それ、どれだけなんだ君!」

それから学生時代の話をしつつ、最後の一杯はゆっくりと飲み干した。出身地は違うのに、あの時の空気を共有出来ている感覚がひどく懐かしかった。あっという間に時間は流れる。もうこんな時間かと言ったのはどちらだったか。
「おやっさん、勘定を頼む」
先手を取って財布を開いたのは鶴丸だった。

「待て、」
「俺が誘ったんだからさ。貸しが気になるなら次は君が連れてってくれよ」
我ながら小狡いなと思いつつ、鶴丸は選択を彼に投げた。
鶯は少し考え、にぃと笑ってみせた。
「ではとっておきの店を案内してやろう」
「そいつは楽しみだ」

マフラーを巻いた彼と駅まで歩く。路線は別だった。
「今日は楽しかった」
「ああ、俺もだ。また連絡する」
「またな」
そう言って別れる。またな、なんて使うのはいつぶりだろうか。日程の決まっていない予定を楽しみにするのも。
北風は相変わらず冷たいが、酒のおかげか温まる心地が残っていた。

更衣室で白衣を脱ぐ時に、どっと襲ってくる疲れにため息を吐く。一度お産が始まれば疲労を感じる暇も余裕も無いが、神経も肉体も酷使しているのだろう。そういえば食事は何時間前に取っただろうか。ブロックタイプの栄養食はもう胃の中には残っていない。
帰るか、と一人呟き荷物をまとめる。

スマホの右上のランプが青く点灯しているのを見て、鶴丸は急いで画面をタップした。
『この間の話だが、お前の休みに合わせる方が楽だろう。良い日を送ってくれ』
鶯のSMSはいつも短かく、返信までに数日かかる時もある。それは気にしないが、話せば旧友のように会話が続く事を知る身は少し焦れた。

やはり彼とは直に会いたいと思う。美味しい酒とつまみも添えてまた話したい。冷えた指先で、近いうちに送ると打とうとして、それは通知に邪魔された。
『食べれないものがあればそれも送っておいてくれ』
今、彼が送ったメッセージ。
鶴丸は、特に無い。何でも食べる、と急いで返事を出した。

鶯からは『好き嫌いが無いのは良い事だ』と、珍しくすぐに返事が返ってきた。
次の食事会は二週間後、夕方の早い時間に決まった。その日は朝までの勤務なので、上がってから少し仮眠を取ってから向かう予定だったのだ。
何もイレギュラーが無ければ。

予定していた帝王切開を無事終えると、そのまま分娩室に入る。初産な事も有って少し長引いたが、母子ともに無事に出産を乗り越えられた。後処理をし、それから午後の巡回に出る。明日で退院となる母親と新生児の体調を確認して、それからお産が三件続いた。何回手袋を変えたかはもう覚えていなかった。

出産後の出血量を元に輸血の指示を助産師に出して、また二時間後に状態確認。未成熟児で入院が長引いている乳児の検査。もう少しで家に帰れるからなと小さな手にそっと触れる。やっと座れたが、パソコンに向かって経過をまとめる作業が待っている。それも片付けてやっと珈琲を飲んで居ると内線が鳴った

初産の妊婦が破水したらしい。妊婦が産科へ到着すると、すぐに羊水の検査。感染が見られるので陣痛剤の投与を決めるが、陣痛が来ず。バルーンの準備を進めているとやっと子宮口が開いて来たらしい。3cm5cmそれからがなかなか広がらない。呻き声をあげる妊婦に鶴丸が出来る事は無く、いつも歯痒く思う。

ようやく全開になったと知らせを受けて分娩室に入る。もう少しだからな。声に鳴らない叫び声が響く。それから一時間と少しで産声が上がった。手にするのはあまりにも頼りない命の形。それを助産師に託して後産を行う。全て終わってから分娩室を出ると、もう引き継ぎはとっくに終わっていた。

白衣を脱いで、スタッフ用のシャワーを浴び、そして時計を見て、まじかと口に出た。針が指すのは約束した五分前。さっと血の気が引く。
常に時計は見ているはずなのに、仕事中はそれ以外を考える事が一切出来ないでいるのだ。
急いで鞄の中からスマホを取り出す。通知のランプは既に付いていた。

「東口で待っている」
そのメッセージさえ十分前に送られてきたものだ。すまない、今終わったと慌てて返す。次に続けられる言葉が、疲弊した脳みそでは上手く見つからなかった。これがまだ電話ならば良いのにと思うが、そもそもの状況は変わりようが無い。すまないが、と打ち始めた所でスマホが震える

「お疲れ様。大変だったな。求められた仕事に応えたのだからなにも謝ることは無い。疲れているようなら次回にしよう」
短い文書の中の気遣いに、少しだけ安堵した。次回が有るとも言う。だが、今日はどうしても彼と話がしたかった。
「ありがとう。もし君さえ良ければ今から行っていいだろうか」

次に届いたのは住所と店名だった。
「適当に食べているから無理に来なくてもいいからな」
鶴丸はそれに最速で「行く」とだけ返して鞄を掴んだ。職員用の階段を駆け降りて、何台か待っているタクシーの先頭に乗り込む。
「この店まで行って欲しい」
車が走り出してから、もう一度彼の返事を見つめた。

この辺りなんですがね。と運転手が零す。住所が示した場所は住宅地だった。ぐるぐると回ってみるがそれらしき看板も見当たらない。とりあえず降りて探そうかと思ったその時。道の向こうに、マフラーに埋まった彼の癖毛が見えた。慌てて車を止めて貰い、少し多めのお札を置いて車から急いで降りた。

鶴丸は思わず駆けていた。外の空気は凍てつく程に冷たく、それが肺に入ればつきつきと傷んだが、そんな事は今は構いやしなかった。角を曲がる彼の、コートの端を必死に追う。
「……すま、……も、きみ、かえる……のか……」
ぜえぜえと上がる声は半分を意図を運ばない。だが、鶯は振り返った。

「ああ、良かった。丁度会えたな」
「え……はっ……はぁ……」
「送って気付いたが初めてだと見つけにくい店なんだ。大通りに出ていた方が分かりやすいかと思ってな」
「そう、か……」
そう言うと鶯はまだ息が整わない鶴丸の背中をさすった。
「さあ、行こうか。お前も大分冷えてしまっただろう」

灰色のコートを追うように、住宅地の細道を入って行く。息は落ちついて来たが、まだ少し器官は傷んだ。
しばらく歩いた所に、小さな、しかし綺麗に整えられた門構えがあった。大きな木製の引戸には、椿が一輪色を添える。
「こうやって花が飾ってあれば営業している」
「隠れ家的な店なんだな」

予想よりも洒落た店で、鶴丸は少しだけ気が引けた。間違っても遅刻をしていい店では無いように思えたのだ。
「……とっておきの、とは言ったが、最近行く店は固定されていてな。選択肢が少ないのは多めにみてくれ」
「いや、むしろ君のおすすめを紹介して貰えるのは嬉しいさ」
それは本心だった。

鶴丸の意を汲み取って、さりげなく言葉を添えることが、どうやら彼は上手いようだ。居心地の良さに懐かしさまで覚える。
引戸を開ければ、見事な生け花が鶴丸を迎え入れた。これまた凄いなと言えば、店主の趣味なんだと答えが返る。
「いらっしゃいませ。良かった、ちゃんと会えたようだね」

カウンターの中にいた店主が、手の中の器を一度置いて、鶴丸を歓迎する。
「少し待ってておくれ、後で持っていくよ」
「ああ、分かった」
鶯はそう言葉を交わして、鶴丸を廊下の先にある個室の障子戸を開ける。既にお通しと、彼が食べかけたの料理と、お湯割りのセットが置かれていた。

「すまんが、先に少し摘んでいたぞ」
「ああ、いや、むしろ有難い」
「冷えるからお湯割りが良いとは思ったが、銘柄は何が良いかまでは決めかねてな。地方の焼酎や地酒も揃っているぞ」
「へぇ、君は何を飲んでいたんだい?」
「俺は茶だな」
「え」
「せっかくだから乾杯はとっておこうと思ってな」

彼が持つ湯呑みに注がれている液体は確かにお茶のようだった。湯気は立っていない。
「鶴は何にする?」
「……俺も、」
「ん?」
「俺にもお茶を淹れてくれないか」
一瞬の間。不安気に鶴丸がそろりと鶯の顔を見る。
「ふふ、分かった。まずはお茶にしようか」
そう言って慣れた手付きで準備を始めた

同じ湯呑みに熱いお茶が交互に注がれる。
「どうぞ」
「ありがとう」
冷えた指先で湯呑みに触れ、まずそこから熱を味わう。そして口を付けると、渋めのお茶が喉に落ちて中へと染みる心地良さ。思わずほっと息が漏れる。ペットボトルでは無いお茶を飲むのはいつぶりなのか。

二人でお茶をゆっくりと飲んでから、焼酎へと切り替える。鶯のキープしているものがあると聞けば、鶴丸はそれが良いと即答した。勝手知ったる様子で鶯は瓶を持ってきて、お湯割りを作る。
「お疲れ様」
「お疲れさん」
乾杯をして一口。初めて飲む銘柄だが、少しあるクセが気に入った。

お通しは蕪のきんぴらと胡麻豆腐と大根の煮物。
「……美味いな、これ」
「だろう? 気に入りなんだ」
焼酎に合うと思っていると、部屋の障子越しに声がかかる。
「入ってくれ」
「本日は御来店頂き誠にありがとうございます」
カウンターにいた店主がにこやかに歓迎の口上を述べた。

歌仙、と名乗った店主を鶯が改めて紹介した。
「彼とは昔馴染みなんだ。歌仙、普通に喋ってくれないか。むず痒くて敵わん。彼も気にしないから」
歌仙は一度鶴丸を見ると、鶴丸も頷いて返す。ため息がひとつ
「はぁ……それではこれで失礼するよ。食事は今から持って来るからね」
「楽しみにしている」

運ばれて来た料理は、一手間加えた創作料理だった。ホタテのお造り、里芋のコロッケ、洋風茶碗蒸し、蕪の餡掛け、ぶり大根。見た目は華やかで、素材を引き立てる繊細な味付け。どれも抜群に美味かった。
空っぽの胃が満たされていく幸せに、つい酒も進んで行く。鶯も機嫌良く話返す。

気が付けば、酒が進み過ぎていた。ふわふわと気持ちよく。そして一気に眠くなってきた。まずい。彼の声がまた心地よい。
「飲ませ過ぎたか」
大丈夫かと、頬に触れられる。火照った頬に、彼の手袋のひんやりとした温度がひどく気持ちよかった。
口を開いて、何を言っただろうか。意識はそのまま薄れた

心地好い温度と、馴染みの無い感触で、ハッと気が付いた。
「ああ、お目覚めだね」
掛けられた声に一瞬反応が遅れる。見上げた顔は、一緒に飲んでいた鶯では無く店の主人だった。
「…………へ?」
「一時間弱かな。疲れているのだから寝かせておいてくれと彼が」

目線の先を追うと、寝かされている自分の隣で、ゆっくりと酒を飲んでいる鶯が居た。
「すまん。いつの間にか落ちて、」
「……鶴、起きたか」
へらりと笑う頬は大分赤みを帯びている。よく見れば瞳も少し潤んでいた。
「君、」
「貴方ももうそれまでにするんだよ」
「ああ、そうする」

「後は任せるよ。大分付き合わさせれて片付けが終わっていなくてね」
「すまない。無作法な事をしてしまって言うのもあれだが、本当に美味かった。ありがとう」
歌仙は鶴丸の方を見ると、口元を柔く緩めた。
「構わないよ。彼が連れて来たのだからね。今度は体を休めた後に来て頂けると光栄だよ」

「ああ、必ずそうさせて貰いたい」
「その人の事、よろしく頼むよ」
そう言い残して、歌仙は個室を出て行った。
「鶯、君も大分飲んだよな。もう水にしないか」
「……ん」
ふらつく革の手袋が湯のみを掴み損ねたので、鶴丸は手を添えてやって鶯に水を飲ませた。
「……冷たい」

「飲んでおかないと後で辛くなる」
「鶴は、」
「俺はそこまで飲んでないから。……すまない。せっかく良い店に連れて来てくれたのに、途中で落ちるなんて申し訳ない」
頭を下げた所に急に重さが掛けられて鶴丸は思わずぐえ、と声を上げた。
「気にするな、俺が連れて来たかったからな」

「俺は楽しかった」
 けらけらと笑う声はいつもよりも、少しだけ幼い。
「……君大分酔っ払ってるぞ」
「ふふ、鶴の髪は楽しいな」
 そう言って掻き回される髪の毛。革の手袋の感覚がひどく際立つが嫌悪では無い。止めさせるか否かを少し考えて、おしぼりを持ってきた歌仙が少し固まっていた。

まだ酔いが覚めないのか、足元がふらつく彼を支えながら歌仙の呼んだタクシーに乗り込む。彼が口にした住所は、予想よりも近かった。
車内では無言が続く。というのも彼は今にも眠たそうにうつらうつらとしていたからだ。
車が止まる。振動を感じて彼の頭がぱっと上がった。

「……君、大丈夫か?」
「大丈夫だ。少しは抜けたから」
そう言って鞄を開けようとしたので、鶴丸は慌ててその革の手袋を止めた。
「いいから。それより気をつけて部屋まで行ってくれよ?」
「分かった。ありがとう」
タクシーのドアが開いて、冷気が流れ込む。
「また連絡する」
「ああ、またな」

彼がマンションの玄関ホールまで辿り着いた事を確認してから車を出してもらう。
家に付き、カードで支払いを終えて、エレベーターに乗り込む。鍵を開けて、寝室へと直行し、鞄を、コートとジャケットを放り投げた。そしてそのままベッドに倒れ込み、あー、と間抜けな声を枕に押し付ける。

自分が寝落ちしたせいで彼が懇意にしている店主相手と深酒をした事が気にかかるとか。
もう少し髪に触れて欲しかったとか。
いっそ彼が一人で部屋に入れない程酔い潰れれば良かったと惜しんだとか。

「駄目だ……惚れちまってたのか……」

足を取られてからはあっという間だった。

こんな気持ちを持て余すのはいつぶりだろうか。
ひとり暮らしをするようになった頃、ゲイの出会いの場所を知って今までの反動が来た。条件さえ合えば名も知らぬ男と寝る。それを重ねれば自然と情が移り、恋人へ。そして鶴丸の忙しさを理由に別れを告げられる。若い頃はその繰り返しだったように思う。

そのうちに仕事が本格的に忙しくなり、時折単発で欲だけを発散させる位だった。
誰かに焦がれるという事はひどく久しぶりに感じる。

単純な肉欲とは違う。そもそも鶯がどちらの役割なのもかも知らない。
だが、あの声が聞きたい。顔がみたい。話がしたい。もし許されるなら少しだけ触れてみたい。

やっと帰りついた自宅で、濃いめに入れた珈琲をすする。この感情は焦れったくて柔らかくて扱いに困る。
「どうしたもんかね……」
すぐにでも誘いを送りたいが、下心が滲む場所しか思い付かない。友人としては失格だ。もし、彼が気がついて約束が違うと拒否をされたら……。想像だけでも頭が痛い。

スマホが震える。反射的に手に取ったが、その後に聞こえてきたメロディは着信を示す物だ。そして表示された名前にひとつため息を付いて耳に当てる。
「なんだ、こんな時間に……はぁ? いや、なんで俺が え、貞が、大丈夫か? あー……まあ、そうだが、……ああ、もう分かった。十時からだな?」

通話を終えてスマホをソファに軽く投げる。先にシャワーを浴びて、数時間だけ寝るか。いや、その前にスーツを出しておこう。鶴丸は頭の中で予定を変えながらバスタオルを取った。
突然の事で不満もあるにはあるが、鶴丸はこんな事態には慣れている。
妹とは、いつだって兄を振り回す存在であるものだ。

「よっ!元気だったか、伽羅坊!」
「…………」
「ははっ なんでお前がいるんだって顔してるな。貞が昨日から熱出してるんだろ? だから来なくて良いだなんて、伽羅坊は優しいなぁ」
「……止めろっ」
頭を撫でる前に逃げられる。目に入れても痛くない程、甥っ子という存在は可愛い。

突然舞い込んだ予定だが、授業参観というものは新鮮で興味深かった。読書感想文を読み上げる横顔を託されたビデオで撮影をする。あの小さかった伽羅坊がもう小学六年生か、でかくなったもんだよなと感情に浸りつつ、勇姿を眺める。本当に子供は成長が凄まじい。読み終わって着席した所で撮影を止める。

「上手く書けてたじゃないか。驚いた」
「…………」
「ほら、機嫌直してくれよ。今日はもうこれで終わりなんだろ? 貞も寝てるみたいだし、ご飯でも食べてゆっくり帰ろう。何が良い?」
「……肉、」
「よーし、鶴さんが美味しい所に連れてってやろうな」
ぐりぐりと頭を撫でた、その時。

軽い音が、微かに聞こえた。
後ろを振り返ると廊下に落ちたバインダー。それをさっと拾う黒革の手袋。僅かに交わった視線は顔ごと逸らされて、彼はそのまま逆方向に早足で去って行く。
「なっ…………、」
一瞬理解が遅れた。何故。

見間違える訳が無い。あれは鶯だ。

待っててくれ、すぐ戻る。そう言い聞かせて教室に戻して、鶴丸は彼の消えた方向に走り出した。
あれが偶然居合わせて気まずいといった表情ならそのままやり過ごした。だが、向けられた感情はそんな物では無い。
あの冷ややかな視線は、間違いなく拒絶の色をしていた。

廊下を曲がるが、誰もいない。上から僅かに足音が聞こえた。滑る保護者用のスリッパを端に脱ぎ捨て、階段を駆け上がった。普段やらない運動に息が切れるが、そんな事はどうでもいい。視界に彼の髪の先が見えた。ちくしょう、逃がすものか。
そのまま何階駆け上がったのか、階段が先に終わりを告げる。

屋上に続く階段は薄暗く、他に人の気配は無い。ぜいぜいと上がる呼吸の勢いで、彼の手を掴んだ。
「……ッ、君」
「……、触るな」
革手袋で弾かれる音が、嫌に反響して聞こえた。
「言い分を聞く気は無い。もう、会う気も」
彼が顕にした感情は、怒りと軽蔑と、失望だった。

「違うッ!」
衝動的に肩を掴んだ。こちらを見た瞳には何が、と書いてあるようだった。
「俺はずっとゲイで結婚も子供を作ったことも無い!あれは甥っ子で、妹の子で、下の子が病気だからって代わりに頼まれた。嘘だと思うなら調べて見ると良い。俺の名刺でも渡せばいいか?あの子とは苗字が違うから」

あがった息のままに彼にぶつける。ほとんど衝動的に、怒りも混じった声だった。酸素を取り込もうとして、思うより強く肩を掴んでいる事に気が付いて慌てて力を弱める。
「すまん。だが、」
「本当、なのか?」
「君、俺の職は知ってるだろ……浮気も馬鹿だが、子供を巻き込むのはクズだと思っている」

「……そうだな。すまない、勘違いした」
「いや、分かってくれればいいんだ」
初めてな程に近づいた彼の表情に見えるのは、罪悪感と─
「鶯、君……」
声を遮ったのは鳴り響くチャイムの音。鶯がびくりと反応する。
「すまない、授業がある……」
「あ、すまん」
鶯が慌てて階段を降りる。

その手をもう一度取って、二人の視線が重なる。
「なぁ、また誘っても良いだろう?」
「……ああ、勿論」 
「後で連絡するから」
そう言って鶴丸が手を離すと鶯は一度こちらを見て、そのまま階段を降りて行った。
踊り場には、鶴丸の長いため息だけが落ちて消えて行った。

駆け上がった階段を静かに降りて、途中でスリッパを回収した。揃っていない両足に現れた余裕の無さ。鶴丸は参ったな、と呟いて教室へと戻った。

「すまん、待たせな」
「……別に」
広げた宿題をランドセルに入れ、上着を着ている。
「あの先生と、何かあったのか?」
「ああ、いや、知り合いなんだ」

「そうか」
「なあ、伽羅坊はあの先生の担当って知ってるか?」
きょとんと大きな目が鶴丸に向き、それから質問の意図が分かりかねるように首を傾げる。

「あの人は、給食の先生だ」

あの日は結局どう連絡を取るべきなのかを悩んで送れずじまい。自分がした行動は最前だとは確信している。あのまま見送れば彼は二度とこちらを見てくれなかったはずだ。だが、必死過ぎて色々と誤魔化せなくなった事に頭を抱える。
次の日、日勤を終えた鶴丸は、ウイスキーを一口飲んでメールを送った。

「近いうちに会いたい。夜はいつ空いている?」
半日後に返ってきたメールに書いてあったのは来週金曜の日付だった。
「じゃあその時間にここで待っている」
添付したURLを開いて彼はどう思うのか。鶴丸が指定したのは老舗ホテルの最上階にあるBARラウンジ。鶴丸は、もう答えを出そうと決めていた。

シャワーを浴びて、一番気に入りのスーツに着替える。少し迷ったが、髪はワックスでバックに固めた。こうなればもういいと香水も付けて行く。
出番があるか分からないあれこれを忍ばせた鞄に、職場で受け取ったばかりの封筒も入れた。
どうにも落ち着かずに、鶴丸は早めに家を出ることにした。

「待たせたな」
「いや、俺が先に来ただけだ」
彼が来たのは約束よりも少し早い時間。鶴丸はグラスを空にすると、隣に座った鶯と同じものを頼む。コートを脱いだ彼は紺のスリーピース姿だった。彼の仕事は不釣り合いなそれは一度着替えたものだろう。鶴丸は初めて見る姿にうまく言葉をかけられない。

二人の前にグラスが置かれる。無言のままで、鶯は革の手袋でコースターに触れた。
「……この前は」
「忘れてくれ。俺の勘違いだった」
会話が途切れる。鶴丸は息を飲んで、鶯の手袋に少しだけ指を重ねた。
「俺は、君に謝りたい事が有る」
「……なんだ」
今日初めて視線が合う。ぞわりと背筋が凍る

「分かっているだろう? もう、友じゃ足りなくなった。話が違うと怒るのは最もだが、君が望んだとしても無理だ」
彼の手を握りこんだのは、震えを隠そうとしているのか、縋りたいのか。鶴丸は自分でも分からなかった。怖い、という感情を久しぶりに噛み締める。

「鶯、君が好きなんだ」

「…………」
長い無言。唾を飲み込む音が鶴丸自身の中に響く。
「それは、俺と交わせるという意味で良いのか?」
「あ、ああ」
含んだ言い方に一瞬理解が遅れたが、言葉よりも視線が分かりやすかった。確証を得るまでは線引きの上のか。
「全部含めて言っている。じゃなきゃこんな格好つけない」

「分かった」
それはどちらの、という言葉は物理的に遮断された。幻覚かと思う程に一瞬、だが確かに触れ合った感覚が唇に。
「……ッ」
「部屋は?」
「え、ああ……取ってるが」
確証など無く、もはや願掛けのような心地で鶴丸はバーの二階下の部屋を押さえていた。

「分かった」
鶯は視線を外すと、少しぬるくなったで有ろうグラスに口を付ける。鶴丸の手は、驚いた瞬間に離してしまっていた。
「後は部屋で話そう」
鶯の言葉に答えを返し鶴丸もカクテルを口に含む。だが混乱した脳みそでは、その味がまるで分からなかった。

一杯だけでBARを後にして、二階下の部屋へと移動する。特に会話は無い。やっと彼が口を開いたのは、部屋の中に入ってからだった。
「随分と良い所を取ったんだな」
「……空いてる部屋で頼んだだけさ」
それは半分正解で半分嘘である。空いている部屋で一番高い部屋を希望した。

もし彼に断られたとしたら、久しぶりに出来た友人と、何時ぶりか分からないの恋を成仏させるのに少しでも慰めが欲しかったからだ。
それが、今は同じ部屋に彼がいる。まだ状況が本当だと理解しきれない。鶯はどう思っているのか、コートをかける背中からはよく分からない。
「鶴、」
「え」

伸ばされた手を一瞬誤認しかけたのち、鶴丸は慌ててコートを鶯に手渡した。鶯はそれを丁寧に掛けると、ひとつ息を吐いて椅子に座った。
「少し、話をしよう。言っておきたい事と聞きたい事がある」
鶴丸は頷いて向かい合う椅子に座った。

「あの子から俺の事を聞いただろう?」
「ああ。少し意外だった」
「良く言われる。栄養教諭兼、実際の調理も担当しているが、授業に出ると父兄に驚かれる」
そう言って鶯は手を組み直した。
「……別に調理員全てがいつも手袋をしている訳ではない。もちろん怪我には気を付けねばならないが」

「おそらく、俺の性質の問題なんだろう」
「……どういう事だ?」
「前にも話したが、俺には年の離れた弟がいる。可愛がり過ぎて色々と問題が起きてな、高校卒業と同時に家を出た。料理の道を志して、今度はそちらにのめり込み過ぎて、他の事が上手くいかなくなって行った」

「社会人になってからゲイだと自覚して何人か恋人も出来たが、大体相手を駄目にしてしまうんだ。別れる時は悲惨なもので、もう面倒になって作るのを止めた。言ったろう、可愛がり過ぎて駄目にする奴だと。だから止めて置いた方がいい」
「……じゃあ何故、君は俺にキスなんてしたんだ」

「それは、」
「君は狡い。相手と同じ様、俺が駄目になるからだから断ってくれと言うのか」
「……」
立ち上がって彼を見下ろす。迷い子のような視線。全く持って馬鹿な話だ。
「分かってるだろ? 君は俺が好きなんだ。いい加減認めてくれ」
握った手から震えが伝わる。逃げ道なんて塞いでやればいい

もう一度合わせた唇は、微かに震えていた。触れるだけの幼いキス、それなのに心臓が痛い程に稼働して熱をあげる。離して顔を見れば、彼はその顔をじんわりと赤く染めている。可愛い、もうそれで駄目だった。鶴丸は手を伸ばして頬に触れて鼻を僅かに付けると、少しだけ置いて今度は向こうから触れられる

覚えたてのように角度を変えて何度もキスをして、どちらからともなく差し出された舌が境界をあやふやにしていく。局地的な暑さに、目がくらみそうだった。彼の瞳がだんだんととろけて行くのを見たくて、ずっと目を開けたままで啄み合う。いつの間にか身体の距離も近くなり、腹の下に熱が集まる。

酸素を使い果たして唇を離せば、後は二人の荒い息が広い部屋に落ちていく。彼の赤らんだ肌が僅かに汗でしとりと潤っている。ごくりと、鶴丸は生唾を飲んだ。
「うぐいす、」
「っ……待って、くれ」
「何故なんだ。どうして受け入れてくれない」
「……ちがう、そうではなくて」

「……どちらをするとは、話した事は無かっただろう?」
「、」
それは最もだった。濡れた口付けを交わして、これから混じり合いたいと思っていたのはそうなのだが、どたらが、という所までは考えていなかった。いっそ思いが遂げられればどちらでも、とさえ思う自分の思考に鶴丸は少なからず驚いた

「一応一通り経験はあるが大分昔の事だ」
ただ、と鶯は視線を逸らした。
「多分、今はタチではあまり持たないと思うな……」
少し耳が赤く染まっている。
じわり。ぶわり。
鶴丸の中で、感情の行き先がかちりと決まった。思わず一度喉を慣らしたのは久しぶりの本能からか。熱が上がって仕方ない。

「俺に、君を抱かせてくれ。君が欲しい」
「……俺も、鶴丸に触れたい」
もう一度唇が寄せられて、今度は重ねられるだけ。それだけで気持ちが良い。
「鶯。名前を教えてくれるか?」
「ふふ、鶯丸友成だ。お揃いだろう?だから鶯のままにしておいてくれ」
「……君、それはずるいぞ」

受け手に回るなら準備をしたいと言われたが、少しでも離れがたくて聞かない振りをしてバスルームに二人で入った。シャワーで中を暖めながら、またキスに溺れる。中途半端に服を纏いながら、何度も口付けて身体を寄せる。風呂に入る前にのぼせてしまいそうだ。やっと全てを脱ぎ捨てた身体にまた喉が鳴る

鶴丸は手袋に手をかけた鶯の手を取って、浴室へと誘った。鶯は少し笑ったが、要求を飲む。
シャワーを浴びながら、お互いの手のひらで異なる輪郭を全てなぞる。もう鶴丸のものは上を向いてひくりと震えていたが、今はもっとゆっくりと彼を味わいたかった。二人で泡だらけになって、存分に触れ合う。

黒い革の手袋は濡れて艶を放つ。彼の指が動くたびに、鶴丸は性的興奮で震えそうになった。その手をタイルへと付け、彼が背中を向けた。ごくり。そのなだらかな曲線に口付け、手の平を下に伸ばしていく。ん。鼻にかかった声が浴室に響く。まだ快楽の色は纏っていないのに、あまりの威力に目眩がする。

これ以上は、と口付けと共に甘く叱られる。名残惜しいが、鶴丸は手綱を取ってなんとか浴室から退出した。ガウンだけを引っ掛けたけれども、浴室から聞こえるシャワーの音が気になって仕方ない。一人でワインを開けて、気を紛らわす。後は鞄の中から久しぶりに購入したコンドームを取り出した。

待たせた。そう言って湿度を纏った彼がやって来た。少し開けられて座るベッド。お互い初心という年でも無いのに言葉に詰まった。
「あ、……」
視線を下げてようやく気が付いたが、彼の手袋がいつもと違っていた。同じ黒だが、革ではなくもっと柔らかそうな素材。
「……お前が濡らしてしまうから」

恥ずかしげに落ちたその呟きが、最後の枷を外す。覆いかぶさるようなキスで二人ともシーツの白に浮かんだ。
年を重ねた上での行為の良い所は、解放を最短で求めない所だ。境界がどちらとも分からなくなるようなキスをしながら、鶴丸の手のひらは彼の輪郭を全てなぞっていく。

舐めて、触って、甘く噛んで。鶴丸は夢中で鶯の身体を愛撫した。本人がご無沙汰だったと言った通り、反応はどこか初心めいて、また鶴丸を煽る。胸の飾りをちゅうと吸うと、小さく、あ、と上擦った声が落ちた。その甘さがもっと欲しい。溶けた目元が愛しい。熱は二人の間でぐるぐる巡る。

お互いの足に時折当たる性器はもう熱く、期待から先を濡らしている。触れ合わせてかくだけでどれほどの良さがあるだろうか。だが鶴丸の優先は彼を溶かす事で、その内側を許されるかどうかだった。全身が赤らんだ肌を上から堪能して、それから矛先を変えた。ひ、と息が聞こえる次の瞬間に滾りを咥える

口内がひどく熱い、塞がれて苦しい、そして聞こえる喘ぎが甘い。手と舌と喉奥を駆使して男として昂らせる。好き、可愛い。茹だった頭ではそれくらいしか考えられない。んん、と長い息の後でどぷりと広がる味をほぼ無意識で飲み干す。最後に唇を舐めて顔を上げると、ベッドに横たわる獲物がいた。

きついなら言ってくれと落とし、秘めたる所へ潤滑剤で濡らした指を滑り込ませる。熱い、そしてキツい。安堵のような心地に震える。だが先走っては行けない。若気の至りでよくよく心得ているのだ。それからの鶴丸はひどく優しくそこを解していき、鶯がついに頭を振ってもう焦らさないでくれと懇願する

「鶯、好きだ」
熱く濡れた目元にキスをして、もう痛いほどの愚直を蕾に当てた。くちゅり。やけに響く水音。はやく、と枯れた声。落ちる汗。割り入って包まれる感覚。始めはゆっくりと、そして後は二人して高め合うだけ。

名前を呼んで、その身体に爪を立てて、一番奥を突いて、二人は果てを見た。

荒い息のままで隣に倒れ込む。二人ともしばらくは言葉を発せずに余韻にうっとりと目を細める。あんなにも茹だった熱がゆっくりと引いて、心地よい温度へと変わる。鶯は汗ばんだ手を回して鶴丸を抱きしめる。
「つる、……」
「……うぐいす……」
視線だけで同じ気持ちだと理解出来るようだった。

ひどく満たされた心地になれば、後は自然に睡魔に誘われた。柔らかいベッドに汗ばんだ身体が沈んでいく。鶴丸はぼやけた視界で恋人を見つめながら、緩やかに夢の世界に落ちて行った。

瞼が開く。まだ薄暗い室内に間接照明の光がぼんやりと見えた。まだ、もう少し寝ていたい。布地を引き寄せて、そこから香る自分とは違う香りにハッと目が覚めた。顔を上げる、急いで上半身を起こす。隣の温度はもうだいぶぬるくなっていて、鶴丸の背中が冷水をかけられたように凍り付く。
「鶯……!」

「ああ、起きたか」
「……え、」
湯気を纏って、濡らした髪のままで、ガウン姿の鶯がバスルームから出てきた。呆気に取られる前にキスを一つ受ける。
「すまない。いつもの癖で早く起きてしまったし、お前はよく寝ているから大丈夫かと思って」
「……君なぁ……」

「それにしても、そんなに寂しがり屋だとは思わなかったな。可愛らしい」
「止めてくれ。流石に初めての朝に姿が見えなければ驚くだろ……」
「そんな薄情ではないさ。それに、そんな軽い気持ちで許した訳じゃない」
啄むようなキスとそんな言葉で機嫌を良くするなんて我ながら単純だとは思う。

「言わぬ事はあったが、今までも嘘は伝えていない筈だ。ほら。ああ、こちらが確かか」
鶯は自分の鞄の中から長財布を取り出して、初めに名刺と、それから運転免許証をベッドに放った。確かにそれらには鶯丸友成と書いてある。
「別に疑っては無いさ。というか君思い切りがいいな」

「言っただろう? 俺は内に入れた人間に甘いんだ。露にも仕事で忙しいからと責める事は言わないが、だいぶん重い自覚はある。面倒だと止めるなら今のうちだな」
「そんな事を言われた所で手放すなんて考えられないんだが?」
「ふふ、良かった」
なんだその顔可愛いな。と思うと同時にキスをしていた

「ん、ぅ……つる、少し待ってくれ
」

「なんで、君今日は休みだろ?」
「そうだが、……」
「じゃあ」
もう一回。そう言う前にきゅるりと音が響く。恐らくお互いから。
「……」
「ほら、先に朝飯にしよう」

そう笑う鶯が眩しくて、ぐっと込み上げるものはあったが、まずは食べないことにはどうしようも出来ない。そういえば昨日は緊張のあまりほとんど何も口にしていない。
ホテルのルームサービスをめくりながら、二人してあれがいいこれも美味そうだと盛り上がる。

……頼みすぎたか?
シャワーを浴びて戻ると、頼んだルームサービスが既に届いていた。
サンドイッチプレート、ふわふわのオムレツ、コーンスープ、フレッシュジュースと鶯がどうしても食べてみたいと言ったカレー。改めて量を見て一瞬戸惑った鶴丸に対して、鶯は嬉嬉としてナプキンを持っていた。

サンドイッチをひと口かぶりついて一瞬止まる。美味い。卵サンドなのにいつもとレベルが違う美味さ。そういえば夜は食べに行っても朝ごはんを外食にすることは無かったなと思う。ジュースもフルーツの味が濃い。オムレツはふるふると震えて、スプーンで割入るととろりと崩れる。美味い……

鶯はカレーを食べ、流石だなと呟いていた。半分程食べてから、鞄の中から小さな手帳を取り出すと何かを書き込んでいる。
「それは?」
「ああ、すまない。隠し味のメモを取っておきたくて」
鶯はさっと書き終えると、またスプーンを取って美味そうに食べて行く。

多すぎたかと思う量だが、綺麗に二人の胃に収まった。どちらかと言えば鶯の方がよく食べていた。訊ねると朝はいつもしっかりと食べるらしい。
珈琲を入れて、二人でソファへと座る。やっと空が朝へと色を変えつつある。二人は手を絡め、身を寄せて、静かに余韻に浸った。

時間ギリギリまで部屋で過ごしてチェックアウトする。カードで支払いを終えた鶴丸に礼を言い、そして次は俺が出すと鶯丸。対等な関係が心地よい。
さて、困った事に此処で鶴丸は無性に寂しさに襲われた。学生時代に友人との別れが惜しんだ時以来、それよりも強く離れがたくて仕方ない。

「今日の仕事は?」
「……当直が」
「そうか。ならそれまで休むといい」
分かっている。それなのにまた、が上手く言えない。
「鶴丸」
相性ではなく、そう呼ばれたのは初めてのような気がした。

「また時間がある時を教えてくれ。こちらの方が合わせやすいから」
「ああ……」
「ほら、そんな顔をするな。心配は要らないさ」
黒革の手袋が差し出される。少しひやりとした温度を握り締める。
「またな」
「ああ、また」
そう言って二人は駅の前で握手を交わし、お互いの路線の方へと歩いて行った。

鶯との関係はひどく穏やかで心地よかった。お互いに仕事があるのだから無理のなく、気の乗る時に会おう。そういった鶯丸は、鶴丸の仕事で急に予定が変更になった所で、忙しいことはいい事だなと返してくれる。二人とも程々に歳を重ねていたから、そんな些細な事は問題では無かった。

時間が合えば外に出かける事も多かった。もう四十も過ぎているのだから、周りの目を気にする事も無く色んな所へと足を運んだ。定番の水族館に行った時なんて、鶯丸が泳いでくる魚の一番美味い調理法をつらつら解説するのだから面白くて一日近く過ごしてしまった。相手の提案に乗ることが楽しい。

鶯は平日の朝が早いからと、15時頃から夜の早い時間に会う事もあった。数時間だけ会える日は、食事に行くか、一本映画を見るか、それとも日の高い時間からふしだらな事をするか。若くは無いためにもう鶴丸は何度も出来ることは少なかったが、その分ゆっくりと彼を溶かす事に熱心だった。

回数を重ねるうちに鶯丸はすっかりと中の快楽を覚えて、指だけで先に飛ばされる事も多くなった。真っ白なシーツの上で黒い手袋だけを身につけ、赤らんだ肌を呼吸で震わせるさまがどうにもいやらしく美しい。年甲斐もなく、とは思っても、乱れるのはお互いさまだった。昂って弾けた後に寝転ぶ気持ちよさ

好きだと再確認していくばかりだ。セックスは気持ちが良いが、それだけでは無い。例えば話をしながら食事をするだけで、美しい物を二人で見るだけで、指先が触れるだけで、横顔を見るだけで、短いメッセージを見るだけで、鶴丸はひどく満たされる。
だから、もっと時間が欲しいと欲張りになってしまう

気温は上がり湿度も上がり、季節は梅雨に変わっていく。今日は平日なので軽く飲みに来ていた。
「8月は何か予定があるか?」
「いや、特には」
「職業病少し長い休みに入るんだが、そちらは忙しいか」
すまない、と彼が口にする前に休み取るからと被せた。有給だってあるしなんとでもしてやる。

「あまり無理はするなよ」
必死さが面白いのか、ふふと笑った顔にぐっと熱が上がるくらいなんだ。少しでも長く過ごしたい。
いつ頃休みを取ろうか、どこに行きたい?結局決めきれず、その話題は持ち越しになった。どこにしようか。帰りのコンビニで旅行雑誌を買うくらいには鶴丸は浮かれていた。

次回食事のテーブルに雑誌を広げたら、彼もグルメ雑誌を持ち込んだのでお互い様だ。どうしようか。観光よりもゆっくりと過ごす事をメインにしたいな、と希望は同じ。
何回かの話し合いを重ね、お盆が過ぎた後で海にも山にも程よく近い温泉地に三泊ほどすることに決まった。

初日は駅に待ち合わせをした。流石にギリギリまで仕事、では無かったが、数時間前に退勤した身では仮眠を取るのは躊躇われた。熱いシャワーで目を醒まし、洗濯物だけを片付ける。荷物はあまり多くは無いが、この日の為に用意したデジタルカメラをしっかりと入れた。楽しみで落ち着かずに早めに出る。

改札近くにある喫茶店でブラックを飲んでいると、後ろを軽くつつかれた。
「こら」
また徹夜明けか?そうかかる声が優しくて、それでもう胸が苦しくなってしまう。暑さの中にあっても鶯丸は長袖で好んで着ていた。袖から覗く薄い素材の手袋に触れた。やはり彼にはこの黒がひどく似合う。

「楽しみで眠れなかったんだ。許してくれ」
「小学生か。もう大分昔の事だろう」
「君とおなじだけ前の話だ」
「ふふ、そうだったな」
珈琲を飲み干して駅近くの売店へと向かう。
これは王道だろう?だがあれも気になるな。駅弁の前で真剣に悩む横顔に少し笑った。結局三つ買い込むことにした。

新幹線に乗り込むと早速弁当を広げる。柿の葉寿司に、山菜尽くし弁当に焼売弁当。釜飯と最後まで悩んでいたが、旅の始まりに陶器の器は重すぎて断念した。これが美味い、こっちの煮物も味が良い。二人して食べる駅弁は最高に美味かった。全部平らげて満足してお茶を飲むと、視界が黒に変わる。

「着く前に起こしてやるから少し寝るといい」
アイマスク越しでもあの柔らかい笑みが向けられていると分かった。こそばゆい。一気に疲れが来て、強烈な睡魔に襲われる。すまん、と言う前に手を握られて、それで安心して眠りに落ちてしまった。

職業柄すぐに仮眠に入れる事は必須だが、完全に寝入ってしまうのも後が辛い。PHSが鳴ればすぐに飛び起きて、思考と手先を完全に動かしきらねばならない。だからこそ眠りはいつも浅い所を揺蕩っていた。
だが、鶯の体温が触れていると、ずっと奥にまで落ちて完全に無防備になってしまう。

「もうすぐ着くぞ」
やさしいこえ。ゆっくりゆすられる。ぼんやりと瞳を開くと、細められてた目が見える。
「ほら、」
口端を拭われて、一気に覚醒する。
「え、あっ……」
「おはよう、鶴」
よく眠れたようだな、と微笑まれる。その手に持ったタオル地のハンカチでもしや……恥ずかしさに頭を抱える。

駅に着くと温泉宿ならではの硫黄の匂いと土産物の店達が出迎える。夏休み期間でまだ人手はあったが、混み合う程では無い塩梅に安心する。
「どうする? タクシーを呼ぶか」
「いや、だいぶ寝たからもう大丈夫さ。せっかくだから宿まで歩こう」
「ああ、分かった」

まだ着いたばかりで土産物店の中に入る事はしなかったが、店先を冷やかしながらゆっくりと歩いた。後であの店を覗いてみたい。そうシャツの後ろを引かれる距離がいつもよりも近い。旅先という別世界の恩恵を受けて、そうだなと答える声が上ずりかけた。もう少し日が落ちたならばきっと手を取ってしまう

いい歳して浮かれてしまっているな。その自覚はある。あるが管理出来るかは別の問題なんだ。鶴丸は一人でそんなことを頭の端で思いつつ、鶯を横目に見た。
結局二十分程の距離を倍の時間掛けて本日の宿へと辿り着く。旅館はこの温泉地でもかなりの老舗で、数年前に改装した造りも素晴らしかった。

部屋へと案内されて荷物を下ろす。窓からは温泉地のシンボルである川の流れが見られると中居が説明をした。中居がお茶はいかがでしょうかと丁寧に申し出たが、鶯は机の上に急須と湯のみがあるのを確認してそれを断った。世話になるとさりげなく心付けを渡して下がらせる。部屋の中に二人となった。

鶯丸は部屋の中を順に確かめ、座卓の元へと戻ってきた。
「随分と良い所を取ったんだな」
「初めての旅行だろう。浮かれているんだ許してくれ」
「ふふ、そうか」
今回の旅行は鶴丸が旅館代、鶯丸がそれ以外を出すことに決めていた。旅館は俺が選びたいから出させてくれと頼んだ結果こうなった。

見惚れる程の手際の良さでお茶を淹れる手先。そういえば彼が手ずから淹れたお茶を頂くのは二度目だった。ちょうど良い温度のお茶を味わいながらゆっくりと頂く。つい息が漏れるのは許して欲しい。いつもは弁当を飲み込む為のペットボトルのお茶しか口にしてないんだ。

開けた窓から川音と風が入る。
「いい所だな」
「ああ、本当に」
すっかり落ち着いて、二人して黙り込む。無言すらも心地が良い。お茶をまた一口含むと、鶯が向かい側から隣へと場所を変えた。
「まさか露天風呂付きの部屋だとは思わなかったぞ。助平め」
吹き出しかけて、ものの見事にむせた。

いや違うんだ。そりゃあれやこれやを全く一切考え無かった訳では無いんだが!ぜいぜいと荒い息でなんとか伝えると鶯は可笑しそうにケラケラと笑いながらも、震える背中をどうどうと撫でてやった。
「っ、それが、」
「なんだ?」
「風呂に入る時には外すだろう?……他の人に見られたく無かったから」

「……手を、か?」
その後の間が続く。呆れられただろうか?鶴丸が顔をあげると、鶯はそのままで固まっていた。
「鶯?」
「なんでもない、」
声が少し震えて、首元から少し赤味を帯びる。
「君」
「……鶴が、変な事を言うからだろう」
その反応は駄目だ。もう我慢する理由も無く、彼を抱きしめる。

「……年甲斐も無い、」
「良いだろ。惚れてる男なんて馬鹿になるのさ」
そう鶴丸が耳元に吹き込むと、耳まで赤味が帯びていく。鶯は出かけるのだろうと半ば強引に話を切り替えて腕の中から逃げ出した。確かに旅館に着いてすぐにこれでは旅行が勿体ない。いや、二人で籠るのも十分魅力的だが。

二人は小さな鞄に財布と少しの荷物を持って部屋を出る。フロントへ鍵を預けるついでに、近くにあるお勧めの居酒屋や小売店の情報を仕入れた。一日目の夜は夕食は要らないと予約時に伝えていたのである。これは万が一鶴丸が遅れた場合を考えてと、鶯が地元の食文化を見てまわりたいとの希望を兼ねている

さっき登ってきた道をゆっくりと下る。もう日が傾きかけている時間、先程よりも少し人通りは少なくなったが、その分歩く人の浴衣姿の割合が多い。泊まる旅館以外にも、日帰り湯を巡る客も多いらしい。フロントでパンフレットを見せて貰った時に、鶯がにやりとしていたの肘で少しこづいてやった。

「さて、どこを見ようか。君は道の駅に行きたいんだっけ?」
「ああ。地元の食を知るのに一番手っ取り早いからな」
そう話していたのに、鶯はふらふらと温泉まんじゅうに釣らせていた。早い。お店の前のベンチを借りて、湯気のもうもうと出るまんじゅうにかぶりつく。素朴だが美味い。出来たてならでは

お茶はいかがですか?と店員さんが声をかけてくれる。ありがとうお嬢さん、なんて鶯がにこやかに答えるからまだ学生であろう店員さんの頬が染まる。この罪な男め。ついでにしっかりと名物の情報を聞き出し、仕事を邪魔してしまったからとお礼を渡していた。君、この手口良く使っているな?

目的地は道の駅、老舗の酒蔵、地元の人が利用するスーパーに決まった。とりあえず酒蔵が閉まる前にと初めに行く事にする。予想よりも大きな酒蔵で、沢山の試飲が出迎えてくれた。それを端から順に飲んで行って、日本酒を一本、甘酒を一本になんとか絞り込んだ。鶯に任せておくと大変な事になると知る。

道の駅に行って漬物を選んだのは良いが、どうしても地方名物の硬めの豆腐が食べてみたいと言う話になった。確かに美味そうだが持たないだろうと言えば、今日の夜食にすると言いきられた。こうなればもういいかと振り切れて、スーパーでは地元の醤油(小瓶)と地ビールと近くの牧場のハムまで買い込んだ。

沢山の収穫と共に旅館へと一度戻る。鶯は楽しそうに戦利品を備え付けの冷蔵庫に入れていた。
「店はそろそろ開くみたいだが、どうする?」
「そうだな」
と答えたのが記憶の最後で、気が付くと落ちていた。ハッと目覚めると外がもう暗い。ヤバい、今何時だ。スマホが見つからなくて焦る。

カラカラと扉が開く音。なんだ、もう起きたのか。いきなりの閃光に思わず目を瞑る。
「おはよう」
「……どのくらいねてた」
「まあ、一時間と少し位だ」
スマホを渡されると、彼からほんの僅かに硫黄の香りがした。
「え、君……」
「ん?ああ、安心しろ、足を少し浸けて物書きをしていただけだ」

なにせあれはお楽しみなのだろう?そう笑う笑みはひどく意地悪だ。言い返せずにもごもごと起き上がる。もう窓の外は真っ暗だった。
「ではそろそろ行くか」
「ああ、すまん待たせたな」
財布だけを持って目的の居酒屋まで向かう。気温は高いが、風が心地よい。

薦められた居酒屋は当たりだった。とりあえずビールを飲みながらお通しに箸を付けたが、白髪ネギのムンチも鶏皮の煮付けも酒が進む味付けだった。二杯目はハイボール。あとはそれぞれに気になる料理を頼む。
揚出し豆腐のしょうが餡掛けをたのんでいたが、冷蔵庫の豆腐を忘れていないだろうか。

豚肉の味噌焼きは少し甘めだった。地域が違うと味噌がこんなにも変わるのか、多忙故に旅行をあまりして来なかった鶴丸には発見だった。焼き鳥も何本か摘み、おろしがたっぷり乗っただし巻き玉子を日本酒と頂く。美味いな、とすぐに言い合える食事は心地よく、つい食べ過ぎて飲み過ぎてしまう。

お腹も満たされ、酔いが気持ちよくまわる。店を出ると温泉街はほとんど店仕舞いをして、静かなものだった。いつの間にか繋がれた手を解かぬまま、宿までゆっくりと歩く。先ほどまでと打って変わって口数が減ったのは、お互いに考えていることが伝わっていたからだろう。汗ばんだ手を握り返す。

フロント前で離された手は、エレベーターの中でまた繋がれて、距離を縮める。部屋の鍵を開けて中に入るとオートロックをいい事に、扉が閉まりきる前に鶴丸から唇を奪った。酔った体は簡単に壁へとふらつき、その衝撃で舌が中へと侵入する。最後に食べていた柚シャーベットの余韻を探して舌を絡める。

靴も脱がぬまま、衝動のままに互いに舌を絡め、服の下をまさぐる。荒い息のままでズボンの前をくつろげると、鶴丸の手が二人の滾りを合わせて扱き上げた。ん、と高い声が漏れるが、鶯は必死に自分の口を押さえた。その光景に舌なめずりをしつつ、ぐちゅぐちゅと水音を立ててそそり立つものを擦り上げた

達したのは僅かに鶯が先で、そのまま腰が抜けたように座り込んでしまう。赤らんだ顔を見てしまったのが良くなかった。暴発した先がべったりと顔にかかる。
「……ぁ、すまん」
「全く、歳を考えろ」
そう吐いた鶯だったが、鶴丸が慌てて弁明するのを見るとけらけらと笑ってゆっくりと立ち上がった。

「先に入ってる。少し経ってから来てくれ」
軽いリップ音が額に落ちて、離れていく。どくどくと鼓動が良く聞こえるのは酒のせいだけではないだろう。
参ったな、鶴丸はそう呟いて、汚れたズボンをとりあえずもう一度履いた。

冷蔵庫の水を飲んで、タオルを準備して、そろそろ良いだろうかと脱衣場へと続く扉を覗いた。咎める声は無い。服を乱雑に脱ぎ捨てると、風呂場へと向かった。外の月明かりと、計算され配置された照明で風呂が夜に浮かび上がる。
「遅いぞ」
振り返った首がやけに眩しく見え、鶴丸は慌てて洗い場へ向く。

備え付けのシャンプーは良い香りだが、何の香りだとは考えが回らない。一日歩いた汗と、さっきの諸々を洗い流す。洗い終えた髪をかきあげて、風呂へと向かった。
温度は丁度よく、この温泉街特有のぬるりとした泉質。
「あぁー……」
「良い湯だな」
「はぁ……久しぶりにゆっくり入る気がする……」

鶴丸が心地良さに目を閉じていると、鼻先に衝撃。
「忙しいとは思うが、きちんと自分の手入れもしなければ体が持たないぞ」
鶴丸の身を心配した忠告だったが、それは耳から耳へと抜けてしまう。

鶴丸の視界には、白い指先が、そこから繋がる手が、前髪をかきあげた恋人の顔付きで広がっていたからだ。

「……鶴?」
「……っ、あ、いや……」
「はは、これの為にこの部屋を取ってくれたのだろう?」
手が伸ばされる。いつも手袋で保護されている手のひらは一つの傷も無く、柔らかく鶴丸の頬へと触れた。
「どうだ?人よりは気を使っているつもりだが」
「あ、ああ……すごく、綺麗だ」

彼の秘めた場所、正確には仕事の為に捧げられた場所が今は自分だけの視界にある。湯あたりとは違う熱が上がる。
触れようとして、戸惑った。
「怪我さえしなければいい。俺が過剰なだけだ」
手を取られて指が絡められる。手袋越しとは違う感覚。鶴丸は息を飲んだ。許されたという実感が胸をつく。

「……なんならこのまま抜いてやろうか?」
囁きにキャパオーバーを起こした鶴丸は、一瞬固まった後に白い肌を真っ赤に変えた。鶯は吹き出し、けらけらと楽しそうに笑いを零す。
「き、きみなっ……!!」
「お前は正直だなぁ」
美肌の湯で有名な泉質は透明で、鶯は目を伏せたのちにそうからかった。

結局お誘いは丁寧に断った。予想以上に、彼の手を特別に思っていたことを思い知らさせた。これでもしそうされたら死んでしまいかねない。
風呂から上がってもツボに入ったままな鶯をタオルで拭いてやり、替えの手袋をはめる。やっと見慣れた手に息をため息を吐くと、黒い手でそのまま押し倒された。

「では鶴が俺に触れてくれるのだろう?」
そこでもう理性の限界だった。
脱衣場の洗面台に手を付かせて、そのまま彼の体を貪った。普段は一回で終わるものも、鏡越しに見るとろけた顔に煽られてそのまま次へと雪崩込む。余韻に震える背中に舌を這わせ、小さく痕を付けた。

息が上がったまま、簡単に拭いた体で布団に倒れ込む。裸のままで布団に包まる心地良さ。体を触れ合わせたままで、襲ってくる睡魔に意識を手放した。

目が覚めると、完全に日が昇っていた。やばい、今何時だ。いや休みだからいいのか……と二度寝しかけて飛び起きる。もうすぐ朝食の時間だ。

鶯を慌てて起こし、二人して浴衣に着替えて会場へと急いだ。
鶴丸としては一食二食抜くことは日常茶飯事だが、鶯としては食事を抜くことは余程の事が無ければ有り得ないらしい。

朝食はバイキング形式になっていた。パンかご飯かを鶯は本気で悩んでいたので、後2回食べるのだからと声をかける。

結局ごはんに決めた鶯の前には湯気立つ白米に味噌汁、バイキング用に井の型に溝がある皿に綺麗に並んだおかず。昨日も結構食ったよな?と言えば、運動したら腹が減るだろうと返し。思わずお茶漬けを飲み込み損ねる所だった。
お茶漬けと数品のおかずで満足してしまった鶴丸に対し、鶯は果物まで食べた

朝食後に裏庭から続く光景に誘われ、一通りぐるりと散歩をすることにした。なにせ、2日目の朝にしてもう決めていた予定は終わってしまった。どうしようかと考えていると、鶴丸の視界から鶯が消えている。
「鶯?」
「こっちだ」
声が聞こえる角を曲がると、そこには大きな本棚が並び立っていた。

旅館の名に図書館を付けたコーナーには、漫画本から小説エッセイに写真集まで様々なジャンルの本が収められている。
「こりゃすごいな。結構古いのもあるな」
「どうやら若旦那の考案らしいぞ」
ご丁寧に部屋まで持ち込む為のカゴまである。
鶴丸は昔読んでいたスポーツ漫画一式、鶯は料理本を選ぶ。

部屋に戻ると敷いたままの布団を畳んでから、窓際の広縁に置かれた向かい合わせの椅子に腰掛けた。川のせせらぎ、少し古い紙の匂い、鶯がメモを取る音。お互いに言葉はなくとも心地よい空間。
漫画なんて久しぶりに読む鶴丸だったが、昔熱中した世界に入り込んで時間を忘れたように読みふけった。

最終巻まで読み終えて顔を上げると、ちょうど鶯も本を閉じる所だった。時刻はもう昼を指している。本を戻しに行き、代わりにテーブルに昨日買った豆腐や生ハムや漬物を並べる。鶯は冷蔵庫に入ってきたビールと冷えたグラスを持ってくると、鶴丸の前に置く。確かにその革手袋では開けにくいだろう。

「乾杯」
なみなみと注がれた琥珀を合わせて二人してにやりと笑う。一杯目はどちらも一気に飲み干した。水が美味い場所の地ビール、しかも昼から。あぁと歓喜の声が絞り出される。幸せだ、と鶴丸が言うと、鶯も同じく返した。
飲むのはいつも店なので、本当の二人きりは初めてだった。

名産の豆腐は聞いていた通りにしっかりとして食べ応えが充分にあった。ビールの後にちびちびと日本酒を飲みながら、漬物を摘まむ。これで大分腹も見たされる。鶴丸は鶯の目元が酒気以外にもとけてきた事に気がついた。
「少し休むか?」
「ん」
甘い声に急いで布団を一組敷く。

広敷から布団に向かった鶯はそのままこてんと寝転ぶ。そういえば昨日は盛り上がってしまったものだからしっかりと眠れていない。鶴丸は仮眠を取っていたけれど、鶯はおそらく起きていたはずだ。
「つる」
なんだ、と近づくと腕を取られて布団に引きずられる。どうやら抱き枕がご所望とのこと。

どうせ予定も無い。そのまま隣に寝転んで抱き寄せられるままに任せる。
「君も結構浮かれているよなぁ」
髪を撫でながら言うと、鶯は目を閉じたまま「これは甘えていると言うんだぞ」と返す。
驚いた。その返しは予想外だと呟きが漏れた。

目が覚める。部屋はもう夕暮れに染まっていて、しばしの停止の後で飛び起きた。もうすぐ食事の時間になりそうだと、半日前と同じように鶯を譲り起こす。ぐっすり寝ていた鶯の寝癖を整えて、お互い浴衣を着直して食事処へと向かう。
朝の大広間では無く、夕食は割烹の半個室が用意されていた。

直ぐに先付けと、食前酒が運ばれてくる。まずは本日2回目の乾杯。とろりとした喉越しの果実酒を鶯は気に入ったようだ。
季菜は目にも眩しい取り合わせで、ミニトマトの甘酢漬け、落花生豆腐、茄子の麦味噌かけ、梅の甘露煮、もずく酢とアスパラの生ハム乗せ。お品書きを見ながら鶯は上機嫌である。

美味しい物を少しずつ食べる事が出来るのは贅沢の極みの一つではないのだろうか。これが美味いな、と言いながら箸が進んでいく。じゅんさいの吸物と焼物は鮎の塩焼き。フナの洗いは癖も無く、酢味噌でさっぱりといただける。豆腐の味噌漬けがかなりクリームチーズに近い味わいで2杯目に進んでしまう。

メインの地元牛の溶岩焼きに舌鼓を打ち、小さめな山菜蕎麦を食べた所に筍ご飯と香物と来たものだからだいぶ満腹になってしまった。それでもデザートのフルーツ盛り合わせとムースまでゆっくりと美味しく頂く。
満足のため息を付きながら珈琲を飲む幸せ。浴衣で気兼ねなく食事が出来るのは旅館ならでは

余韻まで堪能して部屋へと戻る。旅館の部屋の窓際、広縁が定位置となっていた。
「なあ鶯、明日は少し出かけないか?」
「良いぞ。何か面白いものでもあったのか?」
「ああ、期待していてくれ」
9時には旅館を出たいな、と計画を立てる。昨夜のように朝方まで食いあっていては寝過ごすだろう。

「分かった。お前の興味を持ったもを俺も見てみたいからな」
じゃあ風呂にでも入って寝るかと話になって、そういえば昨日のあれこれから湯浴みをしていなかったことに気づく。勿論ある程度は後始末したつもりだ
「では、今夜は良い事は止めておくか?」
タイミング悪く、無意識な爆弾な投げ込まれる。

結局朝までまぐあうなんて事は思いとどまれた。だが、鶯に良い事、なんて言われて我慢できる訳が無く、そのまま覆いかぶさり互いを合わせて果てを見た。裸になっていたからと風呂場になだれ込んで鶯だけを極めさせる。声を我慢させる為に鶴丸の首元を必死で噛む姿に、危うく大変なことになる所だった。

日付の変わる頃には床に付き、今日は慌てなくていい時間に起きることが出来た。近くのパン屋から毎朝焼き上がりが届くという食パンを、鶴丸は一枚、鶯は二枚食べていた。鶴丸も少食な訳では無いが、三食しっかりと食べることが少ない為にまだ夜ご飯を消化しきれていなかったのだ。部屋に戻り浴衣を脱ぐ

浴衣とシーツの交換を頼み、旅館を出た。今日は日差しが少し落ち着いていて、出かけるにはちょうど良い。
鶴丸の調べたバスに乗って着いた先は、名前だけは知っている動物園だった。山一つ分を開拓した土地にあり、様々な動物が自然に近い暮らしをしている所を見る事が出来る、というのが謳い文句だ。

早速子供連れに混じって順路を辿っていく。異国を思わせる大きな草花が生えるゾーンに行くと、何やら人だかりが出来ていた。
猿だ。日本ザルでは無く南米辺りに居そうな黒いふわふわとした毛並みの猿が男性の肩に乗っている。一瞬飼育員かと思ったが、猿はその横の女性の肩に乗り何か餌を貰っている。

なるほど放し飼いなのか、と思って横切った瞬間、隣から小さな叫び声。振り返ってみれば鶯の横に黒のふわふわ。反対側の木から飛び乗ったらしく、予想してない出来事に鶯は珍しく慌てている。それがおかしくてつい笑ってしまった。
なんとかしてくれ。
なんとかってどうしたら。

こうなったら餌で釣るかと、備え付けのガチャポンの機械に近づく。100円玉を入れて捻れば、レーズンの入ったカプセルが出てきた。
ほら、こっちに来い。そうやってカプセルを見せたが、猿は鶯の肩に乗ったままで鶴丸の手をそっと引き寄せてレーズンを掴み取った。
その光景が二人のツボに入る。

鶯が動物に好かれる体質というのは新発見だ。その後のキツネザル、リスザル、カピパラ、カンガールに至るまで鶯の方にばかり寄ってくる。リスザルに至っては両肩に乗っていた。少しばかり拗ねた鶴丸だったが、しっぽを寄せられくすぐったそうに笑う鶯は連写した。

動物が寄って来ないのってもしかして俺に消毒液の匂いとか染み込んでいるからか?
なら俺には美味そうな匂いがするから寄ってくるのだろう。
クジャクが我が物顔で歩くテラスで昼食を取る。
昼過ぎから晴れてきて一層暑くなったが、そんな事が気にならぬ程に楽しかった。

たっぷりと遊んで帰って来ると、もう夕食の時間になっていた。歩き疲れたからビールが美味い。連泊だから昨日と違って洋食よりのコースが用意されていた。特に和風ビーフシチューが絶品、でほろほろと崩れる塊肉とマッシュポテトの相性でついワインにも手が出た。最後に豆腐を使ったレアチーズケーキ。

食べ終わって部屋に戻ったのだが、それから鶯が少し静かになってしまった。
「疲れたかい? 風呂入って早めに寝るか」
「大丈夫だ」
この調子である。鶯の大丈夫はあまり信用出来ない。
「旅行が終わるのが寂しいのか?」
鶯は肯定の代わりに手をぎゅっと握った。

「また来ようぜ。今度は海鮮三昧もいいな。寒くなったら沖縄とか、いっそ海外とか」
「俺は外国語はからっきし駄目だぞ?」
「おいおい、俺の職業を忘れたのか?英語とドイツ語なら任せてくれ」
「そうか、心強いな」

やっと笑った鶯に口付ける。
この日は何もしなかった。ただ二人でゆっくりと風呂に浸かって、手を繋いだままで眠りについた。
手袋を付けぬままで過ごした夜はこれが初めてだった。

翌朝、朝食バイキングで二杯食べる程に鶯は元気そうだった。荷物を片付け、シーツをまとめる。一度旅館のランドリーコーナーを利用したので、そうひどい跡は残っていないはずだ。
忘れ物は無いな。最後に二人して確認をして部屋を出た。

お互いの職場にお土産を買って、ソフトクリームを食べて、新幹線に乗り込む。適度な揺れが心地良くて二人してこてんと寝てしまった。
目が覚めればもう馴染みの風景。駅には人が溢れて、蒸し暑い。
「鶴丸はこっちの路線だったな?」
鶯の声にも雑音が被さる。まずい。じゃあな、の声に体が動く。

「……鶴?」
駅の往来で、思わず手首を掴んでしまった。早く離さないと、彼が変な目で見られてしまう、もうここは生活圏であって、誰がいるかも分からないのに。それでも手が上手く離せない。
「鶴丸、」
「悪い、今離すから」

「明日の仕事は何時からだ?」
「えっ……明日は夜勤だが」
「そうか」
掴んでいた手がすり抜けて、改めて手が繋がれる。
「今日だけならお前の家に泊まってもいい。鶴丸は寂しそうだからな」
にっこりと宣言されたそれをすぐに飲み込めない。鶯が泊まる?俺の家に?
「いらないか?」
「いる……!」

荷物も置きたいのでそのまま鶴丸の家に向かう事にした。病院から一番近い事を条件した自宅は、セキュリティもしっかりしている高層マンションである。中へと入って数日ぶりに電気を付ける。
「片付けてはいたんだが……」
「これは……見事に物が無いな」
鶴丸も自覚があるので言葉に詰まる。

別にミニマリストな訳では無いのだが、忙しい中でも部屋を荒らさないように試行錯誤した結果、鶴丸の部屋は必要最低限の家具しか置かれなくなった。唯一、カウンターに並べられているお酒の瓶が生活感を出している。
「開けてみてもいいか?」
鶯が尋ねたのは黒い冷蔵庫だった。

別にいいが……と鶴丸の言葉によってドアに手がかかる。
「……これは旅行前だから整理してあるという」
「訳ではないな……いつもこんなのだ」
中には水と、ビールと、ツマミになりそうなチーズなどしかない。唯一あった食材は卵だけである。

「どうしたって腐らせてしまうからな。食材は基本買わないんだ」
「そうか」
鶯は指摘する訳でもなくドアを閉めた。
「何が食いたい?」
「え」
「今日は俺に作らせてくれ。食材は余らせないようにするから」
鶯の、手料理。そう言えば彼の本業である手腕を見たことは無かった。
鶴丸の顔がゆるむ。

それで結局何をリクエストしたかというと、鶴丸自身も無意識にカレーと言ってしまって少し鶯に笑われてしまった。可愛いものを頼むじゃないか。そう言われてもパッと出てきたのがこれだったのだ。
ならば買い物に行かなくてはなと、二人してまた暑い外へと出ていった。

スーパーのカゴを押しながら二人で買い物するのも、台所に自分以外が立っているのも初めての事だった。
スパイスまで買うと後が大変だからなと、市販のルーで味付けされた筈なのに、鶴丸はその美味さに少し固まった。最低限の調理器具だけでどうやってここまでとろとろな牛すじカレーが出来るのだろう

味わって食べると、作ったカレーはちょうど二人分で終わってしまった。鶯が手早く片付けたおかけで部屋に漂っていたカレーの匂いも、すぐに消えてしまう。余らせない、という彼の言葉通りになった事を凄いと思いつつも、鶴丸は自らの発言を後悔した。
その日は早めに風呂に入り、健全に添い寝をする。

昼過ぎ、鶴丸は何十年かぶりに食べ物の香りで目が覚めた。簡単で悪いが、と出されたのは湯気立つ玉ねぎスープにご飯、だし巻き、肉じゃが。鶴丸が朝はあまり入らない事を見越しての量が机の上に並ぶ。温かな食事にうっかり涙ぐみかけた。
美味しい。そして良かったら休憩にとおにぎりまで。

結婚してくれ。
とうっかり口から滑り落ちそうだったが、なんとか飲み込んだ。それではただ単にご飯を作ってもらいたいだけじゃないか、いや、そんなんじゃなくてな。と一人脳内で弁明が始まってしまう。
ご飯の事は置いておいたとしても、帰る場所が同じならばどれだけ幸せだろうか。

「じゃあ、また」
「ああ、君も気を付けて帰ってくれよ」
うまく笑えてただろうか。多分、出来たはずだ。
ドアが閉まる。足音が去ってしまう。
「……でもそう簡単に行かないんだよな」
違う人間が一緒に暮らす事は、楽しいだけで済まないともう知っている。鶴丸はため息をついてドアを見ていた。

時間が合う時は週一、忙しくても月一は食事をして時々ホテルへと行く。なんとなく、家に誘うのは色々とあからさま過ぎるし彼の負担にもなるしと言い出せなかった。
本当はあの日、彼の影だけが残った部屋に帰って、思ったよりも寂しくてなって困ってしまったからだ。

一緒に暮らせばきっと合わない所や、譲れないところなども出るだろう。お互いに一人暮らしも長く、鶴丸に至っては家族以外と長く生活をした経験すらない。
生活リズムが不規則、自炊はほとんどしないし、洗濯と掃除は家電任せ。仕事を一番に考えれば仕方の無い部分も確かにあるが……

だが彼はどう思うだろうか。
駄目になるくらいなら今のままで良いのではないか。
歳を重ねる事に人は臆病になる。

燻らせたまま、季節はいつの間にか冬に変わっていた。

名前の通り師走は走るように過ぎていく。年末年始は鶴丸の方が忙しくなかなか会えずにいた。
冬休み、クリスマス、年末年始。イベント事は毎年仕事を入れていた。家族や恋人がいる同僚の方を優先して休みを取らせてやりたい。だから、と話した時にも鶯は素晴らしい事だと思うと微笑んでくれた。

あけましておめでとう、は次の日になってしまったが、時間を合わせて電話をした。やり取りはだいぶ前からSMSからLINEに変わっている。だが相変わらず短い文と、時々のスタンプで交わされていた。
会いたい。繁忙期が終わって、彼の仕事も落ち着いたら会いに──それで連勤だろうが、耐えられる。

一月も半ばになってやっと顔を合わせて初詣に行くことが出来た。
だが、そこからは鶯の方が忙しいようだった。誘っても残念だが、と断られる事が増えた。行けても食事を共にするだけで、もう三ヶ月は触れていなかった。
仕方ない。それくらい分かっている。ただ少し恋しいだけで。待つ事は出来る。

今年一番の寒さになった夜。一ヶ月ぶりに会った鶯は、個室の居酒屋に着込んだ姿で現れた。
「久しぶりだな、息災だったか?」
「こっちはいつも通りだ。君の方は」
「ああ、まあ大丈夫だ」
目を見ずに答えた鶯は、鶴丸が僅かに顔を曇らせた事に気が付かなかった。

鶯は酒を注文しなかった。僅かだが食べる量も以前より少なくなっていないだろうか。照明が抑えられていた店を選んだ事を後悔した。
お通しと数品を食べた所で、鶴丸は鶯の手を取った。
「鶴……?」
合わさる手と視線。鶴丸が口を開きかけたその時。

静寂を切り裂いたのは鶯のスマホの着信音だった。

鶯は反射的にスマホを取り出した。画面を確認して、息を吐く。鶴丸にはその背中が僅かに震えて見えた。
「鶯、」
「すまない……」
それから先は上手く言葉で出てこないようだった。

もし、鶴丸がもっと若かったならば、何を隠しているんだと鶯に詰め寄ったり、ちゃんと話して欲しいと秘密の開示を求めたのかもしれない。
だが鶴丸は苦い経験も持っているし、鶯の人柄も、まだ一緒に時間は短くとも理解したいと思ってここまできた。
鶴丸の手が、そっと黒い手袋越しに重ねられる。

「君が言いたくないことなら言わなくても良い。でももし、俺で力になれるなら、君の気が少しでも楽になれるのなら、話を聞ければと思っている」
「…………」 
鶯はゆっくりと鶴丸の方へと体を向ける。沈黙が続く、手が握られる。
「すまん、聞いてくれないか……」
「ああ、勿論」

「今は弟からだ」
「ああ、歳が離れている弟くんだな」
「父親が……以前から長いこと入院をしていて、時折は見舞いに行けたのだが」
「……」
「もう、排尿も止まったらしい……」
それで充分だった。長い入院は回復が困難。水の巡りである排尿が止まれば、二十四時間以内に待つのは死亡宣告。

「鶯、タクシー頼んでくるから待っててくれ」
鶴丸の手際は早いもので、店員に頼みタクシーの手配と勘定を済ます。掛けてあったコートを手渡したが、鶯はそのまま握りしめたまま止まってしまう。
「大丈夫か? ……もししんどいなら付き添うぞ」
鶴丸の言葉に鶯が顔を上げる。

唇が開きかけたが音にはならない。鶯丸は首を横に振ると自分のコートに袖を通した。
「大丈夫だ」
言葉と比例しない、掠れた声。鶴丸は思わず鶯の手を強く掴んでいた。
「連絡してくれよ。なんでも聞くから。君まで倒れたりしないでくれよ……」
「鶴……」
体を抱き締めれば、やはり前より痩せていた

ずっと抱擁している訳にはいかない。鶴丸は彼を離すと、財布の中にずっと入れたままになっていたものを彼のポケットに差し込んだ。
「落ち着いたらで良いから来てくれ。俺が居なくても部屋の好きに使っていていいから。頼む」
「……分かった、ありがとう」
丁度そこにタクシーが来たと店員が知らせた

車に乗り込む彼を見送る。外は先程よりも冷えていて、雪がちらほらと降り始めていた。

雪はそのまま降り続け、ようやく止んだ朝方、鶯から父親の死去の連絡が入った。

今夜が通夜で翌日に葬式だと送られてから連絡が無いスマホを手放せない。何故こんな日に限って自分は非番なのかとため息をつく。
鶴丸は鶯の態度が気になっていた。何故教えてくれなかったのか、というのもそうだが、何か、他に彼に影を落としていないのかと不安にかられる。

久しぶりの非番なのにしたいことは見つからず、重い体を掃除することで見ないふりをした。だが、それも終わってしまう。
テレビを付けるのも、酒を飲むのも、今は躊躇われる。悲しみにくれる横顔を想像してしまってため息しか出ない。
時刻はもうすぐ22時を回る。明日は昼勤なのだが、もう寝るべきだ。

布団に潜り込み無理やりに目を閉じる。彼がここに来るとしても、遅くとも明日の夜以降な筈だ。
なんと声をかけるべきなのかの答えは出ないまま、鶴丸はなんとか睡魔を呼び寄せる。
職業柄、眠りに早く落ちることは得意だ。力を抜けばそのまま──

小さな金属音。

鶴丸はベッドから飛び起きた。

開いていないドアをこちらから開けた。慌てて離れた腕を掴む。
「すまん、起こしたか……」
あまりにも黒いスーツが似合わない鶯の姿がそこにあった。髪を後ろで固めていて、煙の匂いを引き連れている。鶴丸は喉が締め付けられるような感覚を覚えながらも、震える手で彼を中に引き入れ鍵を閉めた。

「…………どうして」
やっと出てきた言葉はあまりにも幼かった。今日が通夜で有るならば、長男である彼は今夜は泊まり込んで半通夜を行うのではないのか。泊まり込みが出来なくとも、家族で最期の時を過ごすのではないのか。
何故、彼は一人で、こんな寒空の下にいたのか。鶴丸の思考は最悪を描く。

「……すまん、……いられ、なくて……」
掠れた声と一緒に、雫が頬を伝い落ちていく。あまりにも静かに。触れた手はきんと冷えていて、小刻みに震えていた。
鶴丸はかけてやる言葉さえ見つからず、ただ、涙を流す彼を抱き締めた。