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「ちょっとアメリカとイランの歴史...」、@hirosetakao さんからのスレッド

ちょっとアメリカとイランの歴史の話をしますね。

1901年英国の富豪ウイリアム・ノックス・ダーシーがペルシャ(=イラン)の国王から石油の探索・採掘権を買い取りました。1908年に石油が発見されました。これを機会にアングロ・ペルシアン・オイル・カンパニー(APOC)が創立されました。後のBPの前身です。

当時、英国海軍は軍艦の燃料を石炭にするか、それとも石油にするかを検討していました。ちょうどタイミングとしては日露戦争の後、第一次大戦の前の重要な時です。当時英国海軍省総督だったウインストン・チャーチルはこのアバダン精油所の精製能力を頼って英国の軍艦の主燃料を石油に切り替えました。

英国政府はAPOCの重要性に鑑み、その過半数株式(51%)を取得し、英国の政府系企業とします。なおイラン政府はイランのダーシーならびにAPOCに売り渡した油田からは僅か利益の16%しか受け取れない契約になっていました。イラン政府は何度も比率変更を迫りますが黙殺されました。

1950年頃ベネズエラ政府が米企業との間で50:50の利益折半の契約を結びます。サウジアラビアでアメリカ企業のコンソーシアムがサウジ政府と50:50で利益折半するという条件でアラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー(AAOC=のちのサウジ・アラムコ)を設立しました。

「なぜサウジアラビアはアメリカと対等な条件に浴しているのに、我々は不平等な条件を呑まなければいけないのだ」というイラン国民の反発は強まります。

このときイランの選挙で首相に選ばれたのがモハマド・モサデクです。彼はテヘランの裕福な家に生まれ、ソルボンヌで法学を勉強し、テヘラン大学で教鞭をとった後、政治の世界に身を投じました。

彼は重度の鬱病を患っており、閣議の最中に泣いてしまったり、ベッドから出る事が出来ず、寝室から国政を切り盛りしましたが、愛国心は揺るぎなく、国際情勢の把握、外交面での立ち回りなどではするどい切れ味を見せ、イラン国民からも圧倒的に支持されていました。

モサデクは首相になるとAIOC(アングロ・イラニアン・オイル・カンパニー=APOCから名称変更されました)との50:50の利益折半をイギリス側に要求します。

この要求が却下されるとモサデクはAIOCの採掘権を却下し、AIOCの国有化を宣言します。言うまでも無くこの国有化宣言はイラン国民にとっては胸のすく瞬間であり、モサデクは国民の英雄になりました

英政府はイラン石油のボイコットを世界の石油会社に呼びかけ、AIOCは誰も石油を買ってくれない状況に陥ります。

イランはたちまち輸出市場から締め出されてしまいました。

このためイランの石油収入は激減し、イラン経済は低迷します。

英政府は空軍(RAF)や海軍を使ってイランを攻撃する計画を着々と進めますが、アメリカは第二次大戦が終わったばかりのタイミングで再び中東で戦争をはじめることに難色を示します。ドワイト・アイゼンハワーに対してチャーチルは「イランがどんどん共産主義に傾斜している」と吹き込みます。

チャーチルの「共産主義の脅威」をすっかり信じたアイゼンハワーはモサデク政権を転覆することを企てます。この任務に当たったのがCIAのエース、カーミット・ルーズベルト・です。彼はテディ・ルーズベルトの孫であり、その仕事は裏金を使ってアメリカの意のままに現地の政治家を操ることです。

カーミット・ルーズベルト・ジュニアはイランの国王、シャーを懐柔し、傀儡政権を打ち立てることを納得させます。裏金を使ってならず者達を雇い、狼藉を働いた上で「モサデク万歳、共産主義万歳!」と叫ばせ、国民に(モサデクの支持者は過激だな)という印象を演出したのです。

こうして混乱を演出した後で1953年8月にシャーの署名した「モサデクを解任する」というレターをモサデクに届けようとします。しかしこの決定的瞬間にその使者が逮捕され、クーデターは失敗します。

カーミット・ルーズベルトはそこで慌てず、「クーデターの企てを阻止したとモサデク側の気が緩んでいる今こそもう一度クーデターを決行すべきだ」と判断し、3日後にもう一度政府転覆を図ります。

このルーズベルトの機転にはさすがのモサデクも虚を突かれ、ついにモサデク政権は崩壊します。

アメリカはシャー(パーレビ)を傀儡としてイランに据え、その後25年に渡ってイランは中東で最も親米的な友好国になります。

しかしシャーはだんだん独裁色を強め国民からは嫌われます。それが1979年のイラン革命につながるわけです。

前に掲げたチャートのように原油価格は1970年代に2回跳ねています。一回目の事件はヨムキプル戦争です。ヨムキプル戦争は、第二次大戦の「バルジ大作戦」にも匹敵するような、激烈な戦車戦でした。

しかも「負けたことのない」イスラエル軍が、緒戦でボロボロに打ち負かされ、焦りから(核爆弾を使用すべきか?)ということを真剣に検討するところまで、追い詰められた戦争でもあります。

OPECの減産、つまり「第一次オイルショック」は、そのようなアラブ社会の一致団結の中で成立したことであって、現在の、いろいろな利害が交錯する状況とは、似ても似つかない状況だったのです。

1973年10月6日、エジプトはシリアと謀ってユダヤ教の祭日、ヨムキプルの日にエジプトの対岸のシナイ半島と、シリアとイスラエルの国境にあるゴラン高原という別々の地域で、同時に進攻を始めます。

緒戦ではエジプト軍がスエズを渡り、戦車をどんどんシナイ半島へ送り込みます。これに対してイスラエルは後方から戦車をどんどん送り、シナイ半島の砂漠で両軍が激突するわけです。

ところがエジプト軍は歩兵を砂漠の窪地に潜ませ、イスラエルの戦車が至近距離に近づくとワイヤーによってリモコン操作できるストレラ対戦車誘導ミサイルを次々に発射します。この戦いで、あれよあれよという間にイスラエルは140台の戦車を失い、スエズの陣地を守っている守備隊は孤立してしまいます。

その一方でシリア軍はゴラン高原でイスラエル軍と激突し、イスラエルは(もう駄目だ、核兵器を使うしかない)というギリギリのところまで追い詰められます。

一方、このドラマが展開しているちょうどその時、OPECはウイーンで会議を開いていました。

これはユダヤとアラブ世界との戦いなので、ウイーンに集まった各国の石油大臣たちは、ラジオ放送に釘づけになります。「なにか、我々もやらなければいけない」そういう危機感を募らせたわけです。

それで「もしアメリカが今回の戦争でイスラエルを支援したら、石油を値上げする!」ということをクウェートのシェラトンホテルに場所を移したOPECのメンバーたちが合意します。

案の定、アメリカはイスラエルを支援することを決め、OPECはそれを合図に値上げを発表したというわけです。

フロリダの田舎でワイフと老後を過ごしています。

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  3. 2020/01/03 23:40:30 公開
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