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「マッマと大喧嘩して魔法で黒猫に...」、@inai2bourbon さんからのスレッド

マッマと大喧嘩して魔法で黒猫にされてしまった若シュウが雨の中街を歩いていたらバリキャリOLのれいちゃんが拾ってマンションに住まわせてくれたことから始まるきみはペット(本当にペット)……🐱
翌日がちょうどお休みだったのでれいちゃんは朝からシュウを動物病院に連れて行ってくれる。

飼い猫でないことをしっかり確認したれいちゃんは「ペット可物件だし……君、僕と暮らす?」とシュウの翡翠色の瞳を覗き込んだ。シュウは返事の代わりにれいちゃんの手の甲に頭を擦り寄せるのだった。
息子の女遊びがあまりに激しいことに憤怒したマッマは、一人の人間を心から愛し愛されるまで完全な

人間の姿には戻れないという魔法を掛けていた。どうやったら人間の姿に戻れるか分からないシュウは試行錯誤するも、飼い主のれいちゃんに可愛がられる生活も悪くないな……と思いながら日々を過ごしていく。仕事で忙しいれいちゃんが家で過ごせる時間は少ないものの、家にいる間はほとんどの時間を

自分の為に費やしてくれるというのはいい気分だ。仕事の愚痴を聞きながら柔らかな毛並みを撫でさせてやっている内に、強ばっていたれいちゃんの顔が優しく解れていく瞬間が、シュウは好きになった。
去勢手術を受けさせられそうになった時は全力で獣医に噛み付き、れいちゃんの事も引っ掻いて猛抵抗

した。帰宅後「…シュウは赤ちゃんが欲しいのかな」と首を捻るれいちゃん。いや、そういう訳では無いんだが去勢されて人間に戻った時にもその状態だったら格好がつかないだろ…と、想像して背筋を寒くするシュウであった。
れいちゃんと数ヶ月も暮らすと、猫と人間とは言え意思の疎通もほぼ完璧に

出来るようになり生活は益々楽しくなっていく。
れいは可愛いし仕事も出来るし(多分)スタイルは良いし(風呂上がりの無防備な姿は何度となく見てきた)家事も完璧(手料理にはありつけないが食事時にはいつもいい匂いがする)だった。それなのに男の影ひとつ見えない事に首を捻りながらも、もし人間の

姿に戻れたられいと付き合ってみたいな……なんて考え始めるシュウ。猫にされても女好きは変わっていない💥
れいちゃんが帰ってくる時間帯に合わせて、スリッパを並べたりお気に入りのアイマスクを棚から出しておく等という芸当もこなす事が出来るようになったシュウにれいちゃんは大喜び。

「シュウ、僕のためにしてくれたの…?嬉しい…いつの間にこんなこと出来るようになったの?ありがとう…!」
そう抱きしめられれば、れいの笑顔を見る為なら何だってしてやるさ、とキスしたくなる衝動に襲われる。
その夜、いつもの様にれいちゃんと共にベッドで眠ったシュウ……そしていつもと同じ朝

を迎えた筈だったのだが……
「ふぁ…おはよ、シュウ……ご飯の準備、するね」
「ああ…おはよう、れい…ありがとう」
「どういたしまして………ん?」
「………ん?」
「「し、しゃべって(しゃべれて)る…!?」」
互いへの愛のゲージ(雑)が一定数溜まったことにより、シュウは人間の言葉を話せる力を

手にしたのだった。
いきなりペラペラとイケボで話し始めた飼い猫にれいちゃんはアワアワ。
「嘘でしょ…僕、疲れすぎて夢見てるのかな……熱あるのかな…体温計…何処にしまったっけ……」
「熱はなさそうだが🐾」
肉球でれいちゃんの額に触れてやると、れいちゃんは漫画のように後ずさった。

「……そんなに驚かなくても」
「いや驚くでしょ!?夢や熱じゃなかったらなんなの!?し…シュウは普通の猫じゃなかったの……?」
事情を一から説明しようとするが、話そうとすると本能的にストッパーが掛かり何も話せなくなってしまうことにシュウは気付いた。
(あのくそババアめ…!俺が

話せないように暗示をかけやがったな……)
「……普通の…というか…少し変わった猫ではあるが……これからも今まで通り変わらず接してくれたら嬉しい…俺はこの生活を気に入っているしれいのことも……大切に思っているから……どうかこのままここに置いてれいの飼い猫で居させてほしい」
ぺろ、と

小さな舌でれいちゃんの細い指先を舐める。その指先が恐る恐るではあるが、喉元に伸ばされたことにシュウは心から安堵した。
「…わか…った………そう…だよね…しゃべれるようになってもシュウはシュウ…だし……気持ちが分かるようになったのは嬉しいことだもの…まだ不思議な感じだけど、僕も

シュウを手放す気はないから…これからもよろしくね?ふふ…シュウとおしゃべり出来るなんて、なんか変な感じ」
背筋をれいちゃんに擦り付けると、れいちゃんはいつもの様に優しく胸元に抱き寄せてくれた。
「れい、書類をデスクに忘れてる」
「え?……本当だ!ありがとうシュウ、行ってくるね!

帰りは今日少し遅くなるかも……先に寝てていいからね?お水ちゃんと飲んでね。いってきます!」
「いってらっしゃい、れい。気をつけて」
相手が猫であれ、素を見せて会話出来る相手がいるというのはれいちゃんにとってとても良いことであった。優秀すぎるが故に職場でも孤立しがちだったれいちゃんに

とって、シュウは唯一にして最大の理解者になった。仕事用のメイクを落としてルームウェアに着替えてシュウと戯れるひと時が一日の中で一番心癒される瞬間だ。
「れいはすっぴんが一番可愛いよ」
「…そんなこと言ってくれるの多分シュウだけだよ。僕、童顔だからメイクしないと仕事で舐められちゃう」

「舐めさせておけばいい……ああでも、れいの素顔を知っているのは俺だけがいいな。すっぴんは会社の連中には絶対に見せないでくれよ」
「シュウってたまに猫っぽくないこと言うよね…恥ずかしくなる位キザなこと言って……」
「そうか?」
「うん…でも僕、人間の男の人からもこんなこと言われた

ことないよ」
「……彼氏にも?」
れいちゃんと生活していて一番気になっていたことを流れで聞いてみる。その質問に、れいちゃんは数秒間下唇を噛み締めると恥ずかしそうに眉を下げた。
「………僕、彼氏いたことないんだ。もう30になるのに恥ずかしいでしょ…この話、誰にも言ったことないの」

だからシュウも誰にも言わないでね、と口周りを人差し指で撫でられ、シュウは全身の血が熱く滾る感覚を覚えた。
未だ誰のものにもなったことがない魅力的な女性の素顔を知っているのはこの世で唯一自分だけなのだという優越感に胸が踊る。
「……恥ずかしいものか。誰にも言わないと約束するよ。

もっとも、俺は君の飼い猫だから君の手助けなしにはこの家を出ることも出来ないしその誰かとやらに会うことも適わないのだが 」
「それもそうだね」
くすくすと笑みを漏らすれいちゃんのあどけない表情に胸がきゅんと甘く疼く。こんな感覚は、今まで味わったことがなかった。

「ペット飼ってると婚期逃すって話あるじゃないですかぁ」
職場で五つほど年下の同僚がそう話しているのを聞いたれいちゃんは思わず聞き耳を立ててしまう。
(……確かに分からなくもないな…シュウ飼ってから残業ほとんどしなくなったけど、その分シュウに夜の時間費やしてるしたまにの休日は一日

中シュウとゴロゴロしちゃうし………)
結婚願望が無いわけではない。だが、結婚するにはまず男性と交際をしなくてはならない。男性との交際経験のないれいちゃんにとって、それはとてつもなくハードルの高い事のように思えた。
(少ない休みの時間を割いてもいいって思えるほどの男の人に出会えたことな

ないなぁ…でも、そもそも出会いが少ないからそう思うのかな)
結婚適齢期の男性が少ない企業に勤めているれいちゃん。その外の世界に足を踏み出したことはない。
(何事も経験…だよね……もしかしたら、どこかにいい人がいるかもしれない…)
いつまでもシュウとばかり過ごしていてはダメだ。

ペットと永遠に暮らせる訳では無い。考えたくもないが、ペットの寿命は人間よりずっと短いのだ。シュウが唯一無二の存在であることは否定しようのない事実だが、それだけに囚われていてはいけない。そうれいちゃんは思っていた。
「ー・・・ってな訳で合コンしようと思うの!〇〇社のエリートと

話が付けられそうなの。あと二人位女子欲しいんだけど誰かいい子いないかな」
「……その合コン……私が参加しても大丈夫かな?」
普段その手の話に一切興味関心を持つ様子のなかった先輩・ふるやの言葉に同僚は、エクステで伸ばされた長いまつ毛をぱちぱちとさせるばかりであった。

「来週の金曜日なんだけど、外で食事してくるから帰りがいつもより遅くなるかも」
そうれいちゃんに告げられたシュウは毛づくろいの舌をぴたりと止めた。
「…珍しいな、れいが外食だなんて」
「うん、同僚と行くことになったんだ。少し、チャレンジしてみようと思って」
「チャレンジ?」

「……合コン…ってシュウ知ってる?男の人と女の人同じ人数でご飯食べておしゃべりするの…僕、今まで行ったことなくて。大学の時とか、わりと盛んだったんだけどその時は興味持てなくてね」
「……今は…興味があるのか」
シュウの纏う空気がひゅっと冷たく変化する。だがれいちゃんはそれに

気付かないのか、ドライヤーで乾かし終えた髪を丁寧にブラッシングしながら鏡を見つめ続けている。
「興味っていうか…僕もう30になるし、男の人との接触少ないままでいるのもどうかなって…何事も経験だって言うじゃない。同世代の男の人とお話して、もし気が合う人がいたらお付き合い…とかして

みたいな、って思うし……そんなにすぐに上手くいくとは思わないけど、職場と家の行き来だけの生活もそろそろ終わりにした方が良いかなって」
それに、と続いたれいちゃんの言葉にシュウの心は完全に凍りついてしまった。
「……ペットといつまでも一緒にいられる訳じゃないから」
シュウには

聞こえないくらいの小さな言葉で言ったつもりだったのかもしれない。だが、優れた聴覚を持つ猫のシュウには聞き取れてしまった。この身体をここまで憎く感じたことは今まで無かった。
この生活が永遠でないことくらいシュウだって分かっている。だがそれを、他でもないれいちゃんの口から聞きたく

などなかったのだ。

その日が来なければいいなどという子供じみた願いを何度胸に抱いたか分からない。
「…シュウ食欲ないの?…どこか具合悪いのかな」
その問いに答えず、シュウは部屋の隅に置かれたペットベッドに身を横たえた。不機嫌そうに背中をこちらに向ける姿にため息が漏れる。普段はシュウ用に用意した

ペットベッドなどほとんど使わないのに、合コンの話をした日からほぼ毎日ここで眠っている。
「猫ちゃんってヤキモチ妬きなんですよ〜だからって構ってばかりいると彼氏どころじゃなくなっちゃうんですけどね」
飼い猫の様子について少し漏らしただけで「うちも昔大変だったんですよぉ」とその同僚女子

は話を広げた。コンパに参加する予定を立ててから、ランチを共にする機会も増えた。今まで仕事以外の話をする同僚はいなかったから、これもまたれいちゃんにとって新鮮な経験であった。
「ペットはあくまでもペットだから距離感を履き違えちゃいけないんですよね。一緒にいると楽だし癒されるけど…

彼氏の代わりにはならないですから」
同僚の言葉には説得力があった。だからこそ、れいちゃんは今シュウに必要以上に干渉しないようにしていた。ヤキモチを妬いて距離を置かれても、この合コンの参加を辞めるつもりはない。それにもし、自分に恋人が出来たらシュウと離れる時間も増えるわけで。

(これはシュウにとってもぼくにとっても訓練のようなものなのだから…)
そう言い聞かせながら、れいちゃんは去っていくシュウの背中を見送る日々を送った。前のようにゴロゴロと喉を鳴らしながら無防備に擦り寄ってくる彼の姿が見られなくなったのは寂しいが……今はそれどころではない。

人生初の合コン。初めての恋人を作るための第一歩を、今自分は踏み出そうとしているのだから。
「それじゃあ行ってくるね。明日は休みだから…明日は一日中家にいるからね」
少しでもシュウの慰めになれば、と掛けた言葉だったがシュウは扉を閉めるまでこちらを振り向くことはなかった。

そういえば、最後に彼の声を聞いたのはいつだったっけ。
人間の言葉が話せる猫など不可思議にも程があるのだが、いつの間にかそれが当たり前になっていた。
仕事で良い結果を出せた時、彼が褒めてくれることを期待して帰宅する足取りが軽くなったっけ…家に帰ったら、シュウがお行儀よく座って

並べたスリッパと共に玄関で待っていてくれること。「おかえり、れい」と声をかけてくれることが幸せだった。気づいたらお風呂も沸かせるようになっていて、帰宅のタイミングに合わせて暖かいお風呂を用意してくれる事もあった。
「外はもう寒いのかな。ゆっくり温まっておいで」
猫なのに妙な包容力が

ある彼にはどんな話でも打ち明けられる気がした。何年も外では「私」と言い続けてきた自分が、彼を前にすると自然に、幼い頃に使っていた「僕」という一人称で自分を表現することが出来た。仕事の愚痴も弱音も自慢も何もかも、彼は受け止めてくれた。思う存分話させてくれた後に「れいには俺がいるから

大丈夫さ。何かあっても、ここに戻ってきたら素顔のれいに戻れるだろ」とざらついた小さな舌で指先を舐めてくれた柔らかな温もり。
そのどれもが手放しがたく、愛しいものだ。その気持ちに変わりはない。だがー・・・
「いつまでもこのままじゃ……いけないんだってば……」
自分にそう言い聞かせる

ように、れいちゃんはパンプスに足を押し込んだ。このままではどこまでもシュウという“ペット”に依存してしまいそうで。依存すればするほど、彼を失った時のことを考えてしまうから。
仕事用のバッグと共に合コン用のワンピースを詰め込んだバッグを掴むと、れいちゃんは家を飛び出した。

シュウの寂しげな鳴き声が背中から追ってきた気がしたが、幻聴だと決めつけた。彼は、もう何ヶ月も自分の前であの声で鳴いてなどいないのだから。

着慣れないレース素材のワンピースに袖を通して挑んだ合コンは、可もなく不可もなく…といった表現がまさに適切なものであった。目の前に並ぶ四人の男性には清潔感があり、世間一般的には“イケメン”と表現されてもおかしくない顔立ちをしていた。だが、それだけなのだ。皆仕事関係のさり気ない自慢話を

繰り返すばかりで、聞いていても何の収穫も得られないばかりか個性もなく名前と顔がまるで一致しない。だが、そう感じているのはれいちゃんだけなのか、他の三人の女子は話を掘り下げたりきゃあきゃあと歓声を上げたりと実に楽しそうなのだ。
(もしかして…楽しめていないの僕だけなのかな……)

ちらりと手首の腕時計に目をやると21時を少し過ぎたところだった。普段でもまだ帰宅してはいない時間だが、今日はいつも以上にシュウのことが気になってしまう。
(ご飯…食べたかな……意地張って食べてなかったらどうしよう…最近食が細くなってきた気がするし……)
一度考え出すと止まらなかった。

何とか理由をつけて抜け出そう、とれいちゃんは一度トイレに立った。軽くメイクを直しながら言い訳を考えるも、なかなか良案が思いつかない。ペットを理由になどしたら、主催の彼女に「何のためにここまで来たんですかぁ」と叱られかねない。
(おうち帰りたいな……もう…彼氏とか結婚とかどうでも

良くなってきた……ここまで来たのに何やってるんだろ…早くメイクも落としたい。コンタクトも外したい……それで…シュウの用意してくれたお風呂に入って…シュウの頭を撫でながら今日のこと話して…今まで素っ気なくしてしまったことを謝って………。謝りたい……シュウ…我儘な飼い主でごめん……

僕の勝手で寂しい思いさせてごめんねって…)
うっすらと溜まった涙をティッシュに吸い込ませると、一つ息を吐いた。涙で滲んでしまったアイラインを引き直し、ルージュを塗ったれいちゃんが化粧室から出るとひとりの男が立っていた。
「ふるやさん…だったよね。食事はこれで終わりで、二次会にみんな

移動するみたいだけどふるやさんも行くよね?」
「えっ…と……私は………」
まずい、帰る言い訳を何も考えていなかった…とれいちゃんは視線を泳がせた。だがここには幸いあの同僚はいない。れいちゃんは、正直に理由を打ち明けることにした。
「あの…私、猫を飼っていて……そろそろ帰らないと

寂しがるかな、って…」
すると意外な返答が。
「猫?へぇ、僕も飼ってるんだ。何猫?オス?メス?良かったらその話聞かせてよ。僕、実家にいた頃からずっと猫飼っててさ……少しだけ、僕のために時間くれない?…ふるやさんと、二人で話してみたかったんだ」
軽いタッチで肩に触れられ、

れいちゃんはぴくんと肩を震わせた。そんなれいちゃんに、男はスマホを片手で操作すると猫の写真を何枚か見せつけた。
「わぁ…可愛いですね」
「でしょう?今二歳なんだ」
「…うちの子と同じくらい…」
幾つかの共通点と愛らしい猫の写真に、思わず心を開きそうになる。
「一時間でいい。君の時間を

僕にくれないか?みんなには僕から連絡しておくから」
一時間位なら……それなら普段と帰宅時間はそう変わらないはず、とれいちゃんは頭の中で瞬時に計算した。明日は休みだし、元々遅くなるとは言っておいたし…日付が変わる前に帰れば大丈夫……
「一時間なら……いいですよ」
その返事に

大袈裟に胸を撫で下ろす仕草をする男に、れいちゃんも思わず頬を緩めてしまう。
「お気に入りのバーがあるんだ。ここからタクシーですぐだから、そこに移動しようか」
こくりと頷いたれいちゃんに男は静かに口角を上げた。

合コンの時が嘘のように、男との会話は盛り上がった。飼い猫の話をする彼の横顔は優しく、れいちゃんもついシュウについて沢山の事を話してしまう。
「ふるやさんのことすごく好きなんだね、シュウくん…でも、ふるやさんにはふるやさんの人生があるから……自分の時間も大切にしないとね」
「はい…

分かってはいるんですけどそれがなかなか難しくて…」
「彼氏を作るといいんじゃない?で、その彼氏がメス猫を飼っててシュウくんと番になったりしたらもう最高だよね。シュウくんもふるやさん一人に固執しなくなる…そう思わない?」
まるで恋人に立候補するかのような台詞に、れいちゃんは

身を固くした。カウンターの下で彼の指がれいちゃんの指先をするりと撫でる。
「あ…あの……っ…」
「ふるやさんのこと、一目見たときから気になってたんだ。あの中で一番年上だなんて信じられない位とびきり美人で、でもどこか場馴れしてないように感じられて……心惹かれた。猫ちゃんのこと込みで、

君のこと大事にしたいと思ってる……僕じゃダメかな」
「だめ、なんてことは…っ…」
まさかここまでの急展開が待っているなんて思ってもみなかった。心底動揺したれいちゃんは思わず指を引っ込めてしまった。だがそれが思ったより大きな動作になり、肘をカクテルグラスにぶつけてしまった。

カシャン、という音の後にじわじわとワンピースに広がる赤いシミに飛び上がったのは、れいちゃんではなく男だった。
「大変だ!シミになる……っ…早くこちらへ」
男に腕を引かれ、立ち上がった瞬間視界がぐらりと揺れる。しばらくぶりのアルコールに身体が対応しきれていない。
何の言葉も発する

ことが出来ないまま、彼に引き摺られるように男女共用トイレの手洗い場に連れていかれる。濡らされたハンカチで優しく染み抜きをされている間、れいちゃんはぼうっと壁に凭れ掛かっているばかりだった。胸から腹辺りに掛けて広がるシミはそう簡単に抜けてはくれない。
「ん…ぅ………」
「ふるやさん、

大分酔ってるね?…お酒得意じゃなかったかな」
「そんな…ことは……ただ、久しぶりだっただけ…です……」
頬を紅潮させ、虚ろな眼差しを向けるれいちゃんはあまりに色っぽく。男は吸い寄せられるようにその唇に触れた。
「………?」
「…ふるやさん………」
突然のことにれいちゃんは眉を軽くよ

寄せた。その幼い表情が男を煽るということに気付かないのだろう。抱き寄せられ、腰に触れられ尻に手を伸ばされた時、ようやくれいちゃんは身に起こったことに気付き意識を覚醒させた。
「やっ…!?なにする…っ…、やだ、さわらないで…!」
「そんな大きな声出さないで……ふるやさんって着痩せ

するんだね?…見た目よりずっとセクシーな体してる」
赤いシミの上から胸を揉みしだかれ、れいちゃんは今度こそ悲鳴を上げた。
「やあぁっ!へんたい…っ…!なんで、急に…っ…やめてください、帰りますっ…!離して!」
突き飛ばそうと伸ばした腕を男の力で掴まれれいちゃんは青ざめた。

「ここまで来てその態度は失礼だろ…あんなにいい雰囲気だったのに萎えるな……いい歳して勿体ぶるなよ」
その言葉を聞いた瞬間、れいちゃんはありったけの力で男の左頬を殴りつけた。
カウンターに万札を叩きつけ、店を飛び出したれいちゃんはタクシーを捕まえると上擦り、震えた声で自宅住所を

告げた。タクシーが走り出した後恐る恐る窓から店を振り返ったが、男が追いかけて来る様子はなかった。胸を撫で下ろした瞬間、抑えていた涙が堪えきれずに瞳から溢れ出す。頬を伝う熱いそれを運転手に見られぬよう、れいちゃんは背中を丸めた。

いつもとはまるで違うテンポの足音にシュウは耳をぴくりと揺らした。時刻は12時をとうに回っている。
(…………れい?)
日付を回ってかられいちゃんが帰宅することはそれ程珍しくもないのだが、その足音はシュウの胸をざわつかせるのには充分すぎるものだった。
居てもたってもいられず玄関に向かうと

ドアが解錠される音がし、次の瞬間乱れた髪のれいちゃんが倒れ込んできた。
「れい!?れいっ…!どうしたんだ……酔っているのか?」
横たわったれいちゃんの周りをくるくると彷徨くだけで何も出来ない自分がもどかしい。紅潮しているにも関わらず冷えきった頬に顔を擦り付けると、その頬に涙の跡を

見つけたシュウの心がきぃんと痛む。
「れ…い………誰に泣かされたんだ。合コンで…何かあったのか」
その声にれいちゃんは肩を小さく揺らすと、閉じた瞼を縁取る長いまつ毛の隙間からはらはらと涙を零し始めた。ざらついた舌で舐めても舐めても追いつかない程の涙。それでもシュウは懸命に

彼女の頬を舐め続けた。そんなシュウの身体に腕が伸ばされる。
「しゅ……う………ごめんね……寂しい思い……させて……僕がばかだった……いきなり…こいびと、なんて…作ろうと…するから……シュウから離れようとなんてするから…罰が当たったの………」
「……れい、何を言っているんだ

一体…誰に何をされたんだ……俺の事なんてどうでもいい…俺はただ…れいを泣かせた奴が許せないだけだ」
乱れた前髪を横に流すように肉球で撫で付けると、れいちゃんは悲しげに眉を垂らした。
「シュウに依存するのが怖くて……恋人が出来たら何か変わるかなって期待して……行ったら……と、

途中まではいい人だったの……でも…お酒飲んで…たら……急に…からだ、触られて……怖くて…気持ち悪くて……逃げてきちゃったの……こんな…いい歳した大人が勿体ぶるな、って言われて悔しくて…本当のことだけど悲しくて……そんな自分が嫌だったから合コン行った、っていうのもあったのにもう

訳わかんないよね……僕、何がしたかったんだろう……なんで、あんな……キス……はじめて、だったのに……ほんとバカ…こんな自分……嫌になる……」
自分を責め続ける言葉ばかりを繰り返す目の前の女の子を抱きしめたくてたまらない。そんなことは無い、君が何を言おうと俺はありのままの君が

愛しいと思う。可愛いと思う。好きだ、と心から思う。
腕の中で震える彼女にそう何度も彼女が信じるまで繰り返してやりたいのに。それが出来ない己を呪う。
彼女を抱きしめる腕が欲しい。それだけ…たったそれだけあれば…!
「君が……君が何を言おうと……俺はありのままの君が好きだ。

ペットからの言葉なんて信じられないかもしれないけど……嘘じゃない。本当の気持ちだ。依存だってなんだって俺にしてくれればいい。れいが心許せる一番の存在でいたい。無理して恋人なんか作るな…俺といればいいじゃないか……どうして逃げるんだ」
想いを届けるように、強く強く彼女の胸に頭を

押し付ける。それに応えるように回された腕に自分も泣いてしまいそうだった。
「……シュウとずっと一緒にいられたらいいのに…シュウとずっと…生きていけたらいいのに……どうして…シュウは猫なのかなぁ……こんなに沢山おしゃべり出来るのに……シュウが…シュウが僕の恋人だったらよかったのに」

小さな唇に生温い涙が伝った瞬間、シュウはそれを躊躇いなく舐めとった。繰り返していく内に涙の味は消えたが、シュウは彼女の唇に触れることを止めなかった。そしてれいちゃんもそれを拒否しなかった。
一体どれだけの時間そうしていただろうか。シュウの身体に異変が起きる。
(な……身体が……

熱い…っ……なんだこれは……骨が…軋む…れい…れいっ……まさかここで俺は彼女を置いて死ぬのか?嘘だろ?猫のまま?冗談じゃないぞくそババア…否メアリー様…!頼むからそんなクソみたいな運命は止めてくれよ…!!俺はまだ…まだれいを愛し続けていたい……何も伝えきれていないのに…!)

骨が溶けると同時に増殖していくかのような痛みにシュウは悶絶した。だがその様子に、瞳を閉じたれいちゃんが気づくことは無い。れいちゃんの腕の中でシュウは歯を食いしばり激痛に耐えた。遠のく意識の中で、シュウは何度も彼女の名を呼び続けた。

「ん……んん………しゅ…う………」
腕を伸ばし、黒く艶やかな和毛を探す。だが探せども望んだ感触は手のひらに訪れず、れいちゃんは首を捻った。
そうか、まだ僕許してもらえてないんだ……
彼がまだ同じベッドで眠ってくれないのは、自分への怒りや寂しさからだと解釈したれいちゃんは重い瞼を

持ち上げ、彼を探しにベッドを抜け出そうとした。だが、半覚醒の瞳に映ったのはとんでもない光景で。
「………だ………だ………………だれ………?」
目の前でひらひらと揺れる特徴的な黒い耳。覚えのあるサイズより五倍は大きく見える。それが生えているのは同じ色をした柔らかな体毛……ではなく

緩いウェーブのかかった人毛からだった。朝の陽を浴びてつやつやと光る黒髪。そこから生えた猫耳。それらを生やしているのは、不健康な程に血の色の感じられない白い肌をした彫りの深い顔立ちの青年だった。
「………れい…?起きた…のか……」
その青年が白いシーツの上で伸びをする姿は

間違いなく初めて見るものだった。それなのにデジャヴュを感じる。そして、その声には聞き覚えがあった。
「その声…………まさか…………」
スローモーションのようにゆっくりと持ち上げられた瞼から覗いたのは、翡翠色をした瞳だった。毎朝のように自分を覗き込み、起こしてくれたシュウの瞳に

酷似している。
「……おはよう、れい。気分はどうだい?」
いつもと変わらぬ声色でそう尋ねられても混乱は収まらない。
「え?え?え???僕まだ酔ってるの…?そ、そうだよね……昨日久しぶりに飲んだから……頭も痛いし二日酔い…そうだよ、二日酔いのせいだよ……だってそんな…シュウが人間に

なるなんてそんな………そんな訳が……ひゃあ!?」
頭を押えながら立ち上がろうとしたれいちゃんの腕を、白い腕がベッドの中へ誘い込む。あっという間に青年の胸に抱き寄せられてしまったれいちゃんは悲鳴を上げることすら出来なかった。
「そんな訳があるみたいだ……やっとこの身体を手に入れ

られたよ……ずっと長い二本の腕が欲しかった。れいを抱きしめるための腕が……欲しかったんだ。やっと願いが叶ったよ」
ぎゅ、と抱き寄せられた場所が裸の胸であった為、れいちゃんは高速瞬きを繰り返すことしかできない。しかも今になって気付いた。自分も服を着ておらず下着しか身につけていない

ということに。
「は……はなして…………」
「いやだ。ずっとこうしたかったんだ………もう離すものか」
しゅるり、と胴体に絡まってきた尾の感触がこそばゆく、れいちゃんは思わず腰を揺らしてしまった。すると太腿に何か硬く太い棒状の物がめりこんだ。
「へ……なに、これ………かちかち……」

謎の感触を確かめるように太腿を揺らしていると、青年が熱い吐息を漏らした。
「……れい……それはわざとなのか……?俺はまだ若いんだ……朝になればこうなるし、好きな子に触れてもこうなる……今はその二つの条件が完全に揃ってるんだ。勃たない訳がないだろう」
「た……たっ………?」

「……昨夜急にこの身体になったから服をまだ着ていないんだ。れいは男物の服をひとつも持っていない上に、昨夜は気を失ったように眠ってしまったから買い物も頼めなくてな……今日だけは許してくれないか」
裸の青年と抱き合っただけでなく、生身の男性器と触れ合ってしまったというショックから

れいちゃんは卒倒寸前だ。それでもなんとか力を振り絞り青年の腕から逃れると、ルームウェアを引き出しから掻き出し胸に抱き脱兎の如く寝室から飛び出した。
「本当に……本当にあれがシュウなの……?なんで…………?どうして………っ……」
懸命に昨夜の朧な記憶を呼び起こす。

『どうして…シュウは猫なのかなぁ……こんなに沢山おしゃべり出来るのに……シュウが…シュウが僕の恋人だったらよかったのに』
「まさか………あれが原因で……?僕が……シュウが人間だったら……恋人だったら、って願ったから………?」
そんな夢みたいな話を信じられる筈もなく、シャワーの為に

浴室に飛び込むと鏡に向かいメイクを落とそうとした。だが、鏡を見た瞬間メイクが綺麗に跡形もなく消え去っていることにれいちゃんは気付いた。
「うそ…なんで……?」
コンタクトは嵌められたままだった為、目は酷く乾燥しているがそれ以外の部位は綺麗なものだった。
(もしかして…あの……シュウに

似た男の子が落としてくれた………?)
そもそもあれは本当にシュウなのか?コンタクトを外しシャワーを浴びたれいちゃんはリビングやクローゼット、カーテンの裏からロフトまで家中くまなく猫のシュウを探し回った。だがどこにも彼の姿を見出すことは出来なかった。最後に残された寝室の

扉を恐る恐る開けると、先程までと変わらぬ姿の青年がベッドに横たわっていた。
「なっ……なんでまだ服着てないの…」
「いやだから…服が無いんだ………」
あ……とれいちゃんは視線を逸らした。
所持していた一番大きなサイズのTシャツすら、彼には小さかった。申し訳なさそうにそれを脱ぐ青年に、

れいちゃんは問いかけた。
「あなたがシュウだっていう証拠が欲しいんだけれど…」
「証拠……この耳と尻尾では駄目か?あと声」
「………少し弱い…かな……」
「………れいが愛用しているアイマスクは猫柄のやつ。使い捨てタイプだと柚子の香りがお気に入りだな。すっぴんが幼いことを気にしていて、

メイクにはいつも40分ほど時間を掛ける。好きなコスメブランドはSU〇QU。下着はWac〇al派で色はパステル系が多いかな。サイズはGのー・・・」
「もういいもういい!!!!なんでそんなことまで知ってるの!?僕、そんなことシュウに教えた覚えないっ…!」
「……畳んだ洗濯物をソファーに放置する

癖があるだろ。その時見えた」
こんなこと、確かにシュウしか知らない……とれいちゃんはため息をついた。
信じられない話だが、確かにこの青年はシュウなのだ。原理は分からないし考えるだけでも頭がパンクしそうだが、そう結論づけないと様々なことに説明がつかない。
「……昨日、僕のメイク

落としてくれたのもシュウ?」
「うん。落とさないで寝ると肌に悪いってよく言ってたから……シートで拭いておいたよ。余計なお世話だったかな」
「ううん…すごく助かった……ありがとう……あの……ワンピース手洗いしてくれたのもシュウ…なの?」
先程シャワーを浴びようと向かった浴室には

浴室乾燥のスイッチが入っていた。浴室に吊り下げられていたワンピースからはシミは跡形もなく消え去っていた。
「買ったばかりのワンピースだったんだろ。シミが残ったら困るかなって…」
ちゃんと洗濯出来てた?と少し不安げに瞳を揺らす青年の頭に、自然と手が伸びていた。猫のシュウを撫でるのと

まるで同じように頭のてっぺんを優しく掻き混ぜてやると、彼はうっとりと瞳を閉じ喉を鳴らした。
「シュウ………」
「……やっと信じてくれた?」
青白い頬に触れ、そっと胸元に抱き寄せる。柔らかく薄い耳の感触も匂いも、猫の頃と全く変わっていなかった。
「うん………本当に……シュウだ……」

数分の間シュウの感触を確かめていたれいちゃんだったが、気まずそうに「あの……そろそろ離してくれないだろうか……身体が持たない……」と告げられ、その意味に気付いた瞬間慌てて寝室を飛び出したのであった。
そして開店時刻を待ってユニク〇に駆け込み、男性用の衣服を買おうとするも

まるで男性の服のサイズが分からず店員さんに質問攻めしてしまうのであった。
「身長……多分180位ですかね……細身だけどしっかり筋肉がついた感じの子なんです…サイズは幾つくらいになるか分かりますか?あと、何色が良いと思いますか?私、黒いとこしか見たことがなくて……」
「それでしたら

サイズはLサイズをおすすめ致します。カラーは好みになるのでなんとも言えないですが…黒いとこ……普段、ブラックカラーの服ばかりお召しになっているということですか?」
「いえ、物理的に黒いんです」
「こ……黒人さんですか…???」

「ありがとう…どうかな、似合う?」
「はい………とってもとってもよくお似合いです………」
「………なんでそんな遠くにいるんだ」
店員のアドバイスを受けながら選んだ服をシュウが姿見の前で着こなす姿にドキドキが止まらない。とても近くで直視など出来ない。リビングにいるシュウを

キッチンの陰からひっそりと覗き見るだけで精一杯だ。
「だって…カッコよすぎるから………」
ぽつりと漏れた本音にシュウは悪戯っぽく微笑んだ。
「うれしいね、ありがとう」
「聞こえてたの!?」
「相変わらず耳は良いようなんだ」
下着からトップス、パンツ…アウター

まで全身CDを決めたシュウはまるでテレビが雑誌の世界から飛び出してきたかのようなかっこよさだった。ゆらゆらと心地よさそうに揺れる尻尾とふさふさとした黒毛の生えた耳を除けば、誰もが芸能人だと勘違いしてしまうだろう。
「……少し窮屈だが尾を隠せないこともないな…耳もニット帽を被って

しまえば普通の人間と変わらない。なぁれい、俺も外へ連れて行ってくれないか?買い物に行きたい」
思いもかけなかったシュウからの申し出にれいちゃんは目をぱちくりと瞬いた。
「か、買い物?シュウ外出たいの?」
「れいに拾ってもらってから病院以外で外でてなかっただろ。久しぶりに外の空気が

吸いたくなってな……欲しいものもあるし」
欲しいものがあるなら僕が買ってきたのに、と呟くと「れいはきっと買ったことないものだし」とだけ返ってきた。飼い猫の癖に生意気な、と少し叱りつけるとシュウは心底愉快そうに白い歯を見せて笑った。特徴的な犬歯が眩しい。

久しぶりの外の空気と

太陽の光に瞳を細めるシュウ。隣にいるのは飼い猫のシュウだと頭では理解していても、自分より頭一個分近く背の高い男の子(しかも恐ろしく顔が良い)と並んで歩くのはれいちゃんにとってあまりに非日常的なことで。
(シュウってもうすぐ二歳とかだったから、人間換算したら二十歳〜二十代半ば位?

僕より年下………年下の男の子連れ歩く犯罪者に見えてない?それとも姉弟とかに見えるのかな…)
「何難しい顔してるんだ?ペットの散歩だとでも思って気楽に行こう」
スタスタと歩き始めたシュウの後を慌てて追い掛ける。とても気楽な気持ちでなどいられないが、シュウと初めてまともに外出するという

状況が少なからずれいちゃんの心を高揚させているのも確かだった。
慣れた足取りで街を散策するシュウに戸惑いを覚えながらも、買い物は順調に進んでいった。
「シュウは…猫なのに人間の生活にすごく慣れてるよね」
「(まぁ元々人間だったからな…)…れいの生活を長いこと見てたし、れいに

拾ってもらうまでもこの街は大分歩いたからな」
「ふぅん……」
それ以上れいちゃんがシュウを問い詰めることはなかった。深く探ることをシュウが望んでいないように見えたし、問いただしたことで彼が気分を害して自分の前から消えてしまうのではないかという不安が僅かに胸を過ぎったからだ。

たった数時間の買い物の間でさえ、少し離れただけで彼があっという間に女の子に囲まれてしまうということが何度もあった。彼は間違いなく美形でスタイルも良く、人目を引く華やかさを持ち合わせている。猫の状態でも野良猫とは思えない雰囲気を醸し出してはいたが、それどころの騒ぎでは

ない。
女の子に質問攻めを受けていても、シュウはれいちゃんの気配を感じるとすぐに駆け寄ってくれた。
「れい、行こうか」
「お、女の子たちはもういいの?」
「いいも何も……俺はれいを待ってただけだから」
行こう、と再度声を掛けられ腰を抱かれる。コートの上から触れた彼の手が熱い。

(猫のはずなのに…なんでこんなにかっこいいの……それに女の子慣れして……きっと今の状態なら女の子なんて選り取りみどりだろうに……)
それでも、自分の元に迷いなく帰ってきてくれる彼が愛しくて。
「…不安そうな顔してる。俺がどこか行くかと思ったんだろ 」
「っ………そんなこと……」

「分かるよ。れいのことなら何でも分かる。ずっと見てきたからな……でも妬いて不安になってくれるのは少し嬉しいな。今までは俺が妬くばかりだったから」
合コン騒動のことを言っているのだと察したれいちゃんはばつが悪そうに俯いた。そんなれいちゃんの視界に白い手がすっと差し出された。

「……心配なら手、繋いでて。御主人様」
差し出されたのと反対の手で自身の首を示す。
「首輪の代わりに俺がれいのものだって示してよ」
シュウが嵌めていた赤い首輪は、人間に変化した際に千切れてしまったのだろう。白く逞しい首には何の印も存在していない。
躊躇い、手を掴めずにいたれいちゃんに

ひとつため息をつくと、シュウは少し強引に指先を絡めた。
「まっ…!まって、僕今手汗すごいから…!」
「飼い猫相手に緊張することないだろ。いつものれいでいいよ。まぁ俺は手汗かいてるれいも可愛いと思うけど」
至近距離で顔を覗き込まれ、息が止まるかと思うほど心臓が跳ねる。

「本当に……っ!そういうところが本当に…もうっ……!」
シュウの言動は猫の時と何も変わっていない。変わってしまったのは自分だけ
なのだと気づき、れいちゃんは余計に恥ずかしくなってしまった。
周囲の視線を気にしつつも手を振りほどかないれいちゃんに上機嫌のシュウだったが、髪の隙間から

覗く赤い耳朶を見てハッとした。
「……そういえばイヤリング…ひとつしかなかったけど」
「え?」
昨夜合コンに付けていたイヤリングのことを彼が指しているのだと気付いたれいちゃんは、昨夜の自分の行動を回想した。アルコールが入っていたせいで細部まで思い起こせなかったが、恐らく

バーのトイレで男ともみ合った時に落としてしまったような…気がする。
「……別にいいの。そんなに高いやつじゃなかったし…イヤリングまで取ってくれたの?ありがとう」
「そうか……似合っていたから少し勿体ないな。外したのはドレッサーのトレイに置いておいたから、後で確認しておいて」

夜中酔い潰れ、情けなく涙を流しながら玄関で眠ってしまった自分の世話を何もかもこの年下の男の子がしてくれたのかと思うと改めて恥ずかしい。穴があったら入りたいとはまさにこの事だ。
「そういえば……シュウが服がないから裸だったのは分かるんだけど…なんで僕も下着だけだったの?」

どうせ恥ずかしいなら今ここでまとめて聞いてしまえとばかりに尋ねたれいちゃんに、シュウは眉を寄せて笑った。
「いや、ちゃんと服を着せようとは思ったんだ。だけどれいが……暑いからって服を着るのを嫌がって…それに抱きついて離れなかったから」
明かされた痴態にその場に崩れ落ちてしまいそう

だった。飼い主としての威厳も何もあったものでは無い。
「あー・・・うぅ……なんか……もう……本当にごめん………僕、そんなに普段お酒飲まないのに…なのに飲んじゃったから…それで………うぅ…こんなの言い訳にもならないよね…迷惑かけてごめんね」
思わず顔を押さえたれいちゃんのもう片方の

手にギュッと力を込める。
「……嬉しかったよ。あのタイミングで、れいが甘えてくれて…猫の状態だったらとても応えてやれなかったから…この身体だから、れいの服を脱がせることもメイクを落とすことも洗濯することも…抱きしめることもベッドに運ぶことも出来た。迷惑だなんてひとつも思うものか」

彼のこの謎の包容力は一体どこからくるのだろうと不思議に思う。本当に……不思議な猫だ。
「…風が冷たくなってきたな。少し急ごうか。俺、あとDSに寄りたいんだ」
謎多き彼のすべてを暴きたいような、覗くのが怖いような……そんな複雑な気持ちのままれいちゃんは彼に着いて行った。

「温度はぬるめにしておいたけど、必要だったらここで調整してね。シャワーはここ。シャワー使い方分かる?大丈夫?」
帰宅後身体を冷やした様子のシュウに甲斐甲斐しく風呂の入り方を教えるれいちゃん。(普通に元人間だから風呂の入り方位問題ないんだがな…)と思いつつも世話を焼かれるのが嬉しくて

そのままにしておくシュウであった。
「うん、大丈夫。分からないことあったら呼ぶから…呼び出しボタンはここだろ?」
「……よく知ってるね」
「…れいが仕事行ってる間この家は隅々まで探検したからな」
バスルームを後にしたれいちゃんは、今日買ったものの整理を始めた。パジャマにスリッパと

いった衣類品から、歯ブラシやコップ、髭剃りといった衛生用品までとにかく沢山買った。人一人と新しく暮らし始めるということは、こんなにも沢山の物を買い集める必要があったということに純粋に驚く。
新品のコップと青い歯ブラシを洗面台に置きに行くと

シュウがちょうどシャワーを浴び始めたところのようで曇りガラス越しに彼のシルエットが浮かび上がっていた。
今朝ほぼ裸の状態を見たとはいえ、男性経験のないれいちゃんにはあまりに刺激が強すぎる。慌てて目を逸らし、自身のコップの隣にシュウのものを並べた瞬間れいちゃんは一人で顔を赤くした。

(…なんか……新婚さんみたい…っ……)
二つ並んだコップと歯ブラシは、どうやったってそんな想像を掻き立てる。
気恥ずかしさからなるべく二つのコップを離すと、れいちゃんはリビングに戻り整理の続きを始めた。
DSでの買い物中、仕事の電話を受けたれいちゃんはカードをシュウに渡し、会計を

任せてしまっていた。猫に会計が済ませられるのかと気付き、電話を終え慌てて店に戻った時にはシュウは既に無事に会計を終えていた。袋詰めまで完璧だった。
(シュウ、僕の分のアイマスクまで買っておいてくれてたんだ……)
自分の愛用品を覚えて買ってくれたことに驚きつつも、胸が温かくなる。

シェービングフォームや男性用ローション等、この家には無かったものを新鮮な気持ちで眺めていたれいちゃんだったが、ビニール袋の奥から最も見慣れないものが飛び出してきたことに驚いた。
「えっくす…える……?」
長方形の黒い小箱にホログラム加工された英字が踊る。
「見るのも初めてだった?」

嗅ぎ慣れたシャンプーの香りに、ハッと振り向くと上半身裸のシュウが立っていた。タオルを頭に被せ、下着だけ着用した状態の姿に鼻の奥がぶわっと熱くなる。
「しゅ……!なんで裸なの!?パジャマ買ったでしょう!?」
「買ったけど持っていくの忘れてた」
あ、とれいちゃんは口を丸く開けると

タグを切ったばかりのパジャマを彼に手渡した。手早くそれを纏うと、床に落ちた小箱を拾い上げた。
「そ……そんなの誰と使うの……ね、ねこなのになんで……」
嫌悪と困惑の混じった視線を向けられ、シュウはきょとんと目を丸くした。
「誰とって……れいしかいないけど」
ぷつ、と鼻の奥で何かが

切れた音がする。次の瞬間じわりと鼻孔から滲んだ赤いものにシュウが慌ててティッシュを差し出した。
「れい、鼻血出てる…!どうしたんだ、そんなに驚くことだったか?」
「おっおっおっ驚くも何もないでしょう!!だ、だって僕達ペットと飼い主だしシュウは猫っ……猫でしょ!?」
シュウから

ティッシュを奪うとれいちゃんはそれで鼻を強く押さえた。鼻血が恥ずかしいとか言ってる場合ではない。
「……でも人間になれた。まぁ、まだ耳と尻尾は残ってるけど」
「耳とか尻尾とかもそう、だけど……!そもそもこういう…こういうことは恋人同士じゃないとしちゃダメなんだよ!シュウ、発情期

なの?本能的にそういう気分なの?だ、だから手っ取り早く僕と……とかそういうことなの!?」
鼻を押さえながら慌てふためくれいちゃんに対し、シュウは至って冷静だった。赤く染まったティッシュを回収すると新たなティッシュをれいちゃんに手渡す。
「……違うよ。発情期とかそんなんじゃない。

手っ取り早く性欲を解消したいだなんて思ってない……れいの彼氏になりたいとずっと思ってたんだよ、俺は。れいだって昨夜“シュウが恋人だったら良かったのに”って言ってくれたじゃないか。あの言葉は嘘か?」
鼻にティッシュを詰めた間抜けな顔を見られたくなくて思わず背を向けてしまったれいちゃん

をくるりとこちらへ向ける。可哀想なほど真っ赤に染った頬。青い瞳がその上で泣き出しそうに揺れている。
「嘘じゃ……ない……けど……こんなことに…シュウがまさか人間になるなんて思ってもみなかったから…それに、恋人って…もっと段階を踏んでからそういうことするもの…でしょ……しゅ、シュウ

は猫だから知らないかもしれないけどね、人間はお互いのことをよく知るためにデートを重ねて…沢山のことを話して…手を繋いで、抱きしめ合って…き、キスをして…またデートして…デートして…結婚を考えるような関係になってから初めて……身体を重ねるの…簡単にするものじゃないんだよ。わかる?」

経験もないのに年上ぶって真剣に諭す彼女がなんとも言えず可愛くて思わず頬が緩みそうになる。
(…何故れいがバージンなのか少し分かった気がする……)
そんなこと言ったら確実に怒られるので流石に口にはしないが。
「…OK、分かったよ、れいの言うその“段階”ってやつを踏もう。だが、“互いのことを

よく知る”とやらは俺たちはもう出来ていると言っても過言ではないな?“手を繋ぐ”も“抱きしめ合う”もクリアしてるし、“キス”も昨夜した。でもデートはしたいな。また二人で出掛けよう」
「ちょ、ちょっとまって……キスしたってどういうこと…!?しかも昨夜って……え……!?」
身に覚えが無さすぎて

耳を疑うしかない。昨夜あの男にファーストキスを奪われたのは不本意ながら覚えている。だが、シュウとのキスは記憶にまるでない。
「…泣いてるれいの唇を舐めた」
「………それ、猫の時の話じゃない!猫の身体ならノーカンでしょ!!なんだもうっ…驚かせないでよ」
鼻からティッシュを引き抜き

立ち上がろうとした瞬間、両腕を優しく拘束された。

ちゅっ

「……これならカウントしてもらえる?」
軽いリップ音と共に唇に吸いつかれ、止まりかけていた鼻血がまた吹き出してしまう。見つめてくる瞳は猫の頃とまるで変わっていないのに、この苦しい位の胸の鼓動はなんだと言うのだろう。

まるで本当に飼い猫に恋しているみたいじゃないか……!!
「〜〜〜ッッ!ハウス!シュウ、ハウス!!」
「…それは犬の躾じゃないのか……それに、俺の家はここだ」
「へ、屁理屈言わない!」
恋人のつもり満々のシュウと、急展開についていけないれいちゃんの同居生活は前途多難だー・・・

「…れいもこっちで食べよう。一人では寂しすぎる」
「でも………」
ソファーの隅で体育座りで焦げたトーストを齧るれいちゃんをシュウが誘う。
ダイニングテーブルで朝食を摂るシュウ。離れたソファーで朝食を摂るれいちゃん。
猫と人間の時より離れてしまった距離にシュウはため息をついた。

「…この姿に戸惑うのも分からなくはないが…恋人である前に俺はれいの飼い猫だろ。それを忘れないで欲しい。避けられるのは流石に傷つくよ」
夜も避けられたし、と呟かれてしまえばれいちゃんはリンゴのように顔を赤くするしかない。
昨夜、シュウはこの身体になっても当たり前のように

ベッドを共にしようとしてきたのだ。
「ちょ…なんで!?シュウは他のところで寝てよ」
「他のところなんてどこにもないだろ…ペットベッドはこの身体には小さすぎる。ほら、落ちるからもっとこっちにおいで」
「ひゃ!?む…むりだってば……!だって…だってシュウは………」
“あんなものまで買って

る男の子と一緒に寝れる訳がない”と叫びそうになる。あの避妊具はナイトテーブルの引き出しにしまわれている。それがいつ使われるかと思うと恐ろしさでこの部屋から逃げ出したくなる。
「今夜はしないから」
「“今夜は”!?」
「明日仕事だろ…それ位は弁えてるさ」
「そういう問題じゃ……」

「俺のことがそんなに嫌か?」
わざとらしい程に母性本能をくすぐる寂しげな瞳で見つめられてしまえば「嫌だ」なんて言える訳がない。嫌な訳じゃない。突然の事態に戸惑い、受け入れられないだけなのだ。
「〜〜〜っ…!そういうの…本当に…ずるいんだから……っ……、明日…お布団新しいの買うから…

届いたらシュウはロフトで寝て……その…僕の気持ちの整理がつくまで…」
「……了解」
自分よりずっと早くすぴすぴと寝息を立てて眠ってしまった端正な寝顔を見つめる。こんなに綺麗な顔立ちなのに、寝息は猫の時のままなのがおかしくて、強ばっていた顔の筋肉が解れるのを感じる。
「変な子……

本当に……君はだれなの………どこから来たの…普通の黒猫だったのに……どうしてこんなことになったのかな………」
今までシュウの身に起きた不思議な変化について思い返してみる。急に話せるようになったかと思ったら、“恋人だったら良かったのに”と願った瞬間人間になって。
(もし…僕の願い通りに

シュウが変化していくのだとしたら……これ以上シュウのことを人間として好きになったら本当の人間になっちゃうのかな)
そもそもシュウは元々猫だったのだろうか。そう思うにはあまりに不自然すぎる程彼は人間の生活に馴染んでいた。
(元々人間で…何らかの理由で猫になっていただけだったとしたら……

本当の人間に戻れたら僕の前から消えちゃったりして……)
そこまで考えて、恐怖に身が震えた。
(だめ……そんなの考えたくもない…シュウは僕の猫……明日からも今まで通り…普通に接しよう……)
そう誓い瞳を閉じたが、人間の異性が隣にいる状態で熟睡出来るほどれいちゃんは男慣れしていなかった。

結局浅い眠りにしかつけず、ぼうっとした頭で朝食の準備をしていたらトーストも目玉焼きも焦がしてしまった。
「れい、そろそろ支度しないと間に合わないんじゃないか」
「え…?もうそんな時間?」
慌てて時計を見上げると、普段メイクをし始めている時間を10分も回っていた。慌てて目玉焼きを

口に放り込み、シンクに食器を運ぶ。
「食器は洗っておくから、れいはメイクを。服はいつものセットアップでいいかな。今日は冷えるようだからパンプスにカイロ入れておこうか」
背後から包み込むように抱きしめられ、衝撃のあまり噎せてしまったれいちゃんの背中を大きな手が摩る。差し出された

コップから水を飲み干すと、呼吸が整いきる前にれいちゃんは彼の腕から逃げ出した。
動揺のあまりメイクの順序を間違えるわアイライナーとアイブロウを間違えるわリップラインははみ出すわで散々な仕上がりになってしまった顔をなんとか誤魔化し、仕事着用のセットアップに袖を通すと「いってきます」

を言う余裕もなく家を飛び出した。
いつもの電車にギリギリで間に合いホッと胸を撫で下ろした時、足の裏がポカポカと暖かい事に気がついた。
(シュウ……本当にカイロ入れてくれたんだ……)
彼の細やかな気遣いが、自分が決して一人ではないことを教えてくれる。そして、彼が猫の時から変わらず

自分に尽くし愛を注いでくれることも。
(馬鹿だな……シュウに酷い態度取っちゃった…シュウはシュウで、何も変わらないのに……僕の大切な猫……彼がどこの誰であっても……どんなことが起きても大切な存在であることに変わりはないのに)
帰ったら思い切り甘やかして、美味しいご飯を作ってあげよう。

……彼の好物は一体なんだろうか。
そんな事を考えながら電車に揺られるれいちゃんであった。

「おかえり、れい。風呂沸いてるよ」
「シチューしかなくてごめん。煮込み料理しか作れなくて…でも味には自信があるよ」
「アイマスク、冷えてるのと温かいのどっちがいい?」
「足冷えなかった?俺でよければマッサージするけど」
至れり尽くせりとはまさにこの事だろう。まるでお姫様になったかの

ように世話を尽くされ、れいちゃんは困惑しきりだった。
「そんなに色々してくれなくても大丈夫だよ…今夜は僕がシュウに何か美味しいものご馳走しようと思ってたのに」
買ってきた新鮮野菜たちは明日へと持ち越しになってしまった。
「今まで、猫の身体ではれいに出来ないことが多すぎて…あれも

したい、これもしたいってずっと思ってた。それが叶って俺は今とても幸せなんだ。気が済むまでれいに尽くさせてよ。まぁ、いつ気が済むかなんて分からないけど」
ふふ、と笑みを浮かべたシュウに冷えたふくらはぎを揉みほぐされる。
「れいは結構冷え性だよな。猫の時から思ってた」
「…そうかも。

でも、シュウが来てからあまり考えたことなかったな……シュウが……寝る時まず足元にいてくれたから」
「猫湯たんぽ、お役に立てて光栄だ」
あれもシュウの気遣いだったのかな、と思うと本当に頭が上がらない。
「これから離れ離れに眠ることになるとまた冷えてしまうんじゃないか?大丈夫?」

少し意地の悪い声でそう言われ、ついムキになってこう返してしまう。
「そ、その時は本物の湯たんぽ使うから大丈夫だもん」
「そう?人肌に勝るものはないと思うけどな」
男性の手とは思えぬ程柔らかな手のひらに足の裏から膝にかけて丹念に揉みほぐされるのは実に良い気持ちであった。

一日の疲れがふわふわと宙に溶け、代わりに心地よい眠気を連れてきてくれる。
「……れい…眠い?」
「ん………まだ…だいじょぶ……」
(絶対大丈夫じゃない……)
無防備に投げ出された、無駄毛ひとつないつるりとした健康的な色の脚にごくりと喉が鳴る。飼い主が意識を手放そうとしているのをよいこと

に、シュウはそっと綺麗に切りそろえられた爪にキスを落とした。
「………れい」
れいちゃんが意識を覚醒させる気配はない。まるで毛づくろいのように、細い指先に舌を這わせる。ざらついた舌の刺激に、ひくりと足先が跳ねる。
「っ………ん……」
ふわもこ素材のショートパンツを履いた太ももが

ゆっくりと外側に開かれる。体温によって温められたボディクリームの甘やかな香りがシュウの本能を刺激し、彼の鼓動を強めた。
「昨夜からあんな態度取ってたくせに……こんなに無防備な姿を晒すなんて危機感がないな…」
人間の身体を手にした自分に徐々に心を開いてきてくれるのはありがたいこと

だが、こうも無防備だと手を出したくなってしまう。彼女を組み敷くだけの力を十分に持ち合わせている自信はある。
少しだけなら……と言い訳をしながられいちゃんの脚に舌を滑らせた。元々毛が薄いのか脱毛済みなのか、彼女の脚はどこまでも滑らかだ。特に柔い内腿の滑らかさは格別だった。

夢中になって舌を這わせ続けていると、ひくひくとそれが痙攣し始めた。
「っ…、ん……ん、ぅ………」
その声が連想させるものに頭の奥がかあっと熱くなる。ソファーに倒れ込み眠り続けるれいちゃんの足の付け根から、僅かに酸味を帯びた香りが立った瞬間、シュウは舌先に込める力を強めた。

ざり、と音が立ちそうなほど強く押し付けられた舌にびくん!とれいちゃんの身体が大きく跳ねる。
「ふぁ…っ!?」
「……………起きた?」
「え……あれ……ぼく、ねてたの………?シュウ、マッサージしてくれてた…よね…なんか気持ちよくて……つい……ごめんね」
子供のようにキョロキョロと瞳を

彷徨わせながら、れいちゃんはふらつく足に力を込めて立ち上がった。
「まだ眠いんだろ?そのまま目を瞑ってて良いよ。ベッドまで運んであげるから」
よろめく身体を抱き抱えられ、ふわふわとした夢見心地が続く中れいちゃんは大人しく彼の腕の中で瞼を閉じた。
(なんか……ふわふわしてる……さっき

すごい夢見たような気がする……お腹の奥がじぃんと熱くなって……気づいたらシュウの顔が目の前にあって……これもまだ夢…なのかなぁ………)
ベッドに横たわったれいちゃんはすぅすぅと規則的な寝息を立てている。うっすらと開いた唇にそっと唇で触れると、湿度を感じるその中に自身を潜り

込ませたくてたまらない衝動に襲われる。それを総動員させた理性でなんとか押さえ付けると、シュウは彼女の体にそっと布団を掛けてやった。
(……ブランケットがあったよな…それ使ってロフトかソファーで眠ろう…)
髪を優しく撫で付け、現れた丸い額にキスを落とすとシュウはゆっくりとベッドから

抜け出そうとした。だがそれを阻む存在に気付いた瞬間、力の抜けた笑いを零すしかなかった。
「………我儘なご主人様だ」
きゅ、とTシャツの裾を掴む彼女の指先を拒むことなど出来るはずがない。
すべてを諦め、身体を横たえるとれいちゃんの温もりと鼓動が全身に伝わってくる。
(今夜眠れないのは

俺の方だな……)

「うん、美味い」
「本当?良かった…」
初めてまともな手料理をシュウに食べさせてやることが出来たのは、シュウが半人間化して二日経ってからのことだった。
「れいの手料理食べるの夢だったんだ」
若い男性らしくハイスピードで口に運ばれていく料理。ラフな動きに見えて、どことなく品の良さを

感じさせる食事姿だった。
(シュウってもしかして結構いいとこの坊ちゃんだったり…?)
だとしたら、何ヶ月も元の住まいを離れてこんな生活をしていて良いのだろうか。
「何?」
「え?いや…なにも……あ、僕そろそろ支度しないと。お昼は冷蔵庫にサラダとサンドイッチの具材があるから…自分でパンに

挟める?夜は今日は18時頃には帰って来れると思うから何か作るね。食べたいもの、ある?」
「……れいの作るものなら何でも食べたい」
「…っ、そういうのずるい!なんの答えにもなってないでしょ!もう!」
「ごめん。でも本当の気持ちさ。前からずっとれいの手料理に憧れてたからな……

だけど、今日帰りが早いなら一緒に外に食べに行くのもいいんじゃないか?れいと外に出たい。デートしよう」
思いもよらぬ誘いに、コーヒーを注いでいたタンブラーを落としてしまうところだった。
「で……デート……?」
「そう、デート。仕事が終わる時間に合わせて外で待ち合わせしようか。

その方がデートらしいだろ」
「いや…でもっ……シュウ、一人で外出られるの?ここ、鍵かけないとだし……」
「スペアキー位持ってるだろ。それを渡してくれれば何の問題もないさ。一昨日買い物の時に見た駅がれいが使う駅だよな?そこで待ってる。……ほら、用意しないと仕事に遅れる。デート、

楽しみにしてる」
頬にキスされた後に自室に押し込まれてしまえばれいちゃんの思考回路はショート寸前だ。
(で、で、デート…!男の子とデートなんて初めてだよ…!?いや、この間買い物行ったのもデートだったのかな?でもその時は恋人だ云々って話はまだ出てなかったし…っ……)
動揺のせいでまた

してもバランスの崩れた顔になってしまった顔を直す時間もなく、普段よりコスメを多めにポーチに詰め込みバッグに押し込んだ。
「す、スペアキーはリビングのチェストの一番右上に入ってるけど……本当に大丈夫なの?僕、一度家に帰ってもいいんだよ?」
「大丈夫だって。それじゃ男として格好が

つかない……飼い猫だけど、俺はれいの恋人だ。信じてくれよ」
本当に恋人なんだ…とぼうっとした瞬間、唇に触れるだけのキスをされる。
「いってらっしゃい、れい。気をつけて」
「………い……いってきます…………」
ギクシャクとした動きで家を後にするれいちゃんの後ろ姿を笑いながら見送った

シュウだったが、れいちゃんがいなくなった瞬間彼女の寝室に駆け込み、大胆にベッドにダイブした。
昨夜ほとんど取れなかった睡眠を、彼女の温もりと香りの残るベッドでとろうとしたシュウだったが、昨夜のれいちゃんの可愛らしさと色っぽさを思い出すと自然と身体の一点が熱くなる。

こうなったらすることはひとつしかない。今までそこまで自慰の必要性を感じたことはないが、今のシュウはれいちゃん以外の女性への性衝動を抱くことは無くなっていた。他の誰かを相手にして性欲を処理する気などまるでない。

猫の時に目にしたれいちゃんの下着姿や風呂上がりの無防備の姿を回想しながら自身に手をかけたシュウだったが、ある異変に気付き手を止めた。
「いた…っ……なんだこれ…棘………?」
まさか、という思いが過ぎる。
(くそババア…!こんなところまで拘り抜いて猫化しやがって…!!)
成熟した猫の雄の

性器見られる棘がまさか自分にも生えていただなんて。
痛いとはいえ行為を続けられないほどでは無い。だが、気持ちは完全に萎えてしまった。
(とっととこの呪いを解かないとれいを抱くことすら出来ないということか………)
男性経験がないれいにこんな凶器のようなものを(棘がなくても狂気じみた

サイズではあるが)挿入する訳にはいかない。れいのことは大切にしたい。絶対に傷つけたくなどない。
萎えたものをしまうと、シュウはやさぐれたようにベッドに身を横たえた。
(ったく……どうやったらこの呪いは解けるっていうんだ………)

シュウとのデートを思うと仕事にも身が入らない。らしくもないミスを連発し、上司にも同僚にも怪訝な顔をされた。
(デートひとつでここまで動揺するなんて…相手は飼い猫なのに!しっかりしろ、ふるやれい!)
自分に喝を入れた甲斐もあり、午後からは本来の仕事のペースに戻ることが出来た。

退勤前にメイクを直し、前髪を整える。朝のリカバリーはこれで完璧なはずだ。仕上げに、普段塗るものより発色の良いルージュを唇に引いたが、あからさまな気合が恥ずかしく思わず拭ってしまった。
(シュウはすっぴんが可愛いって言ってくれてたし………これは違う…かな……)
こうやって何度も彼の事を

思い返している自分は相当末期だと思う。猫の時よりずっと彼に依存してしまっている。頭の中はシュウでいっぱいだ。
ツヤと潤いだけをプラスするグロスを軽く唇に乗せると、れいちゃんは化粧室を後にした。横髪を耳にかけた時、耳の寂しさが気になって駅ビルでスイングイヤリングを購入した。

先日無くしてしまったのもこのタイプのものだった。彼が似合ってると言ってくれた言葉が、やはり頭から離れなかったのだと自覚はしている。
最寄り駅のトイレでそれを耳に飾り階段を降りると、オブジェの前に立つ一人の男に自然と視線が吸い寄せられる。
(やっぱり、めちゃくちゃ目立ってる…)

ファストファッションで固めているラフな格好にも関わらず、通りすがりの女性はチラチラと彼に熱視線を送っている。当の本人はまるで気にする様子もなく、コートのポケットに手を突っ込み駅舎を見つめているだけなのだが。
そんな彼が、自分の存在を認めた瞬間破顔し大股で歩み寄ってくるのだから

たまらない。
「おかえり、れい。待ってたよ」
「………ただいま」
「ここは寒いから早く行こう。どこかでお茶する?それとも直ぐにレストラン行く?」
自然と繋がれた手に心臓が跳ねる。周囲の視線を感じ、気恥ずかしさのあまりつい小走りになってしまう。
「ど、どこでもいいから早く行こう。

みんな、見てる…」
「見られるとなにかまずいことでも?」
「知り合いがいたら気まずいし……シュウはただでさえ人目を引くんだから…こんなおばさんと一緒だと変な目で見られちゃうよ」
首に巻き付けたストールに顔を埋めると、シュウは数度瞬きした。
「俺といることが恥ずかしい?俺は全くそうは

思わないけど。そもそもれいはおばさんじゃないだろ。飼い主兼恋人だ…堂々としていればいい。れいと俺はお似合いのカップルだ。だからみんな見てるに違いない」
「その自信…一体どこから来るの!」
彼の脇腹を小突くと、はははと心底愉快そうに彼は笑った。
堂々と振る舞うシュウに呆れながらも、

彼と並んで歩ける喜びは確かなものだった。道中、新しいイヤリングを褒められた時は照れ隠しの為つい饒舌になってしまうれいちゃんだった。
「え、駅ビルでセールやっててね。前買ったのと似てていいかなって…僕、黄色好きなんだ。マリーゴールドなの。可愛いでしょ」
「揺れてるのがいいね。

ついじゃれつきたくなる。よく似合っているよ」
「……やっぱり猫だから揺れるものが好きなの?」
「多分ね。この間着てたワンピースのウエストリボンも素敵だった。れいが起きてる状態で目の前で着てたらきっと飛びついてた」
「ふふっ、まんま猫だ。パーカーの紐にもよくじゃれついてたもんね」

そんな会話を交わしながら、目に留まったイタリアンレストランに入る。カジュアルな雰囲気のその店なら、シュウが帽子を取らなくてもうるさくは言われないだろうとれいちゃんが判断した。
「気を遣わせてすまない」
「ううん、僕今日イタリアンの気分だったから…ピザ、食べたいんだ。シェアしようか」

ピザやパスタを頬張りながら、シュウはこれからの事についてれいちゃんに語った。
「日雇いのバイトってやつをしてみたいんだ。れいが仕事で居ない間だけ…何もかもれいに養って貰っているのも悪いから。俺にかかったお金、これから少しずつ返していくよ」
「そんなこと…別に気にしなくていいのに。

一人暮らしだし、お給料はそれなりに貰ってるし…特別お金使うこともないから、シュウ一人養うの位どうってことないよ」
「男としてやっぱり少し心苦しいんだよ。そこはわかって欲しい」
シュウが外に出ることが悪い事だとは思わない。二十歳そこそこの男性が、一日中家にいることの方が

よっぽど問題だ。
だが、シュウが外の世界を知って……いずれ完璧な人間に変化を遂げてしまったら?外の世界で自分以外の女性を知って心変わりしてしまったら?自分を捨ててあっという間にどこかへ行ってしまうのではないだろうか。
そんな悪い想像を止めることがどうしても出来ないのだ。

「外に出ても、俺は必ずれいの元に帰ってくるよ……俺は、れいの猫だから」
握られた手の温もりをどこまで信じていいのだろうか。
ただ黙って頷くも、不安はしこりのように胸の中に残り続けるのだった。

それでも、元々猫であるシュウは外での生活に慣れていないはずだし何か困ったことがあれば直ぐに自分に助けを求めてくれる……と期待していたれいちゃんだったが、シュウは何の相談もなく日雇いのバイトを次々と決めほぼ毎日のように外出するようになってしまった。当初の約束通り、れいちゃんが

仕事から帰宅する時間には家にいてくれることだけが唯一の救いだった。
「おかえり、れい」
「ただいま……今日もバイトだったの?」
「ああ、ティッシュ配ってきた。あっという間に捌けて直ぐに帰ってこれた」
そりゃあこの容姿だからな…とれいちゃんは乾いた笑みを漏らすしかなかった。
「これ、

俺の食費の足しにでもしておいてくれ」
そう言って差し出された封筒を素直に受け取る気にはなれない。今まで彼に使ったお金を全て返されたら彼が目の前から消えてしまうような錯覚に襲われるから。
それでも、受け取らないと彼が納得しないのは知っているから、れいちゃんは無言でそれを自室のデスクの

引き出しにしまうのだった。
「れい、こっちにおいで」
不安げな態度に気付かれたのか、ソファーに座ったシュウが手招きする。近付くとそっと抱き寄せられ、安心させるかのようにぽんぽん、と一定のペースで背を叩かれ髪を優しく梳かれる。
「また何かマイナスなこと考えてたんじゃないのか?……

不安なことがあるなら何でも言って欲しい…こんなに近くにいるのに寂しそうな顔をさせているのは辛いよ」
暖かな胸に頭を引き寄せられ、れいちゃんは思わず彼のシャツを掴んだ。
「少し前まではシュウが外に行くなんて考えたこともなかったから、まだ戸惑ってるだけ……外に行った分だけ、シュウが

僕の知らないシュウになって…僕から離れていくようで寂しいだけ……なんだと思う……年上の飼い主なのに情けないよね」
「そんなことないさ。れいが気持ちを打ち明けてくれて嬉しいよ。些細なことでもいい…なんでも話して欲しい。れいのことならなんでも知りたいから」
心のうちの全てを打ち明けたと

しても、彼は変わらずに僕を優しく抱きしめてくれるだろうか。
本当は、どこにも行かないでと叫びたい。
僕だけのシュウでいて、と縋りたい。
悔しいほど、苦しいほど、情けないほど君に依存してる。
「………ありがとう…」
「れいが好きだよ。れいが笑っていると、俺まで幸せになるんだ。

こんな気持ち、初めてなんだ…本当だよ」
シュウの気持ちを信じたい。そして応えたい。だが、応えたことで彼にまた変化が起きてしまったら?完全な人間の身体を手に入れたシュウが自分から離れてしまったら?
彼を自分の元に繋ぎ止めておくだけの自信が、僕にはない。
自然な流れでシュウに唇を

奪われる。れいちゃんがそれを拒むことはなかった。拒むことで彼が離れていってしまうことを思うと恐ろしかったからだ。
キスが嫌なわけではない。むしろ求められることは幸福に近い。
それなのに、彼との口付けはいつだって切なさが胸の内側から広がるものだった。
「ん……っ……」
薄い舌が

口内に潜り込んでくる感覚に肩を震わせた。彼の舌は人間より長く、ざらりとした感触のものだった。その舌が、自分でもまるで知らなかった敏感な部位を丁寧に舐めとるように蠢くのは不思議な気分だった。すぐに意識がぼやけて全身の筋肉が緩んでしまう。薬の類でも仕込まれているのではないかと

疑ってしまうほどだ。
ふにゃふにゃと腕の中で力を失っていく恋人の身体をシュウは決して離さなかった。とろりとした唾液に塗れたれいちゃんの小さく暖かな舌を甘噛みしてやると、身体を挟み込んだ内腿が小さく痙攣するのが分かる。
経験が無いとは思えぬほど敏感な身体に欲ばかりが

募っていく。
完全なる人間の身体に戻れるまで身体を繋げるつもりはない。だが、ひとつ屋根の下で愛する恋人と暮らしていて欲の全てを抑えきれるほど、シュウは聖人ではなかった。
それでなくても最近のれいちゃんは甘えたがりで。自分が外に出るようになったことを不安に感じているようで、共に

過ごせる時間は近い距離で過ごしたがることが多い。不器用で奥手な彼女なりに、指先を絡めてきたり背後から抱きついてきたりたまにキスをねだったりと、懸命に愛を伝えようとしてくるのだ。そんな可愛いひとの為にも、一日でも早く人間に戻りたい。戻って全てを打ち明けて、不安を取り除いてやりたい。

その為にシュウは日雇いのバイトの賃金を少しずつ貯め、現在祖国イギリスに滞在中の母親の元を訪ねようと計画していた。(息子を猫にしておいて自分はその後イギリスにトンズラとか性格が悪いにも程がある…とシュウは憤慨)
母親にれいちゃんのことを話し、恥もプライドも捨て、元に戻してくれるよう

頭を下げるつもりだった。
「っ…ぁ……っ」
「ッ………」
れいちゃんの甘い声に意識を戻す。長いキスを終え、真っ赤に濡れた唇を震わせるれいちゃんはあまりに色っぽく雄を煽るものだった。
滴り落ちそうな雫をそっと舐めとると、れいちゃんは恥ずかしそうに赤い顔を胸に押し付けてきた。

その華奢な背中を撫でる。
(これじゃどっちがペットかわかんない……)
年上らしくも飼い主らしくもない自身の姿を恥じるれいちゃんだったが、その姿はよりシュウの決意を強めるものになるのだった。

「長期の仕事が決まったんだ。暫く帰れなくなる」
そう告げられた時、箸を手にした指先が冷たく凍り、もう二度と動かなくなるのではないかとすら錯覚した。
「そ…そう……暫くって、どの位?」
「一週間……もしかしたらもう少し、かかるかも。はっきりとは言えないんだけれど」
シュウとそれ程

期間離れ離れになるのは、彼がこの家に来てから初めてだった。
仕事の内容や場所についてなど怖くて聞けない。彼の本当が嘘だとしても、それを確かめる勇気が持てない。
どこまで自分は臆病者なのだ、とれいちゃんは奥歯を噛み締めた。
「明後日には行くよ。でも……必ず帰ってくるから。待っていて

ほしい」
シュウも、れいちゃんが自分の話を100%信じている訳じゃないことは勘づいていた。それでも探りを入れることすらしない彼女の臆病さがもどかしく、何も話せない自分の立場が腹立たしかった。
『待ってるね』
その一言が言えず、れいちゃんは瞳に溜まった涙が溢れないことを祈りながら俯く

しかなかった。
翌日、仕事を終えたれいちゃんが駅から出るとシュウが立っていた。
「迎えに来ちゃった」
尻尾が見えていたらゆさゆさと機嫌よく左右に揺れているに違いないような人懐っこい笑みを浮かべ、彼が走り寄ってくる。
「久しぶりに、れいとデートしようと思って」
手を繋がれ、彼のリードで

街を歩く。もう以前のように他人の視線は気にならなくなっていた。隣にいる彼のことしか見えない。
海沿いの遊歩道も大きな観覧車もイルミネーションもシェアするピザも、何年もこの街に暮らしてきたれいちゃんにとって新鮮味など無いはずなのに彼といると何もかも素晴らしく眩しく感じた。

「シュウ…僕のところに来てくれてありがとう」
「どうしたんだ、いきなり……センチメンタルな気分なのかい」
「ううん、何となくふとそう思っただけ。シュウを拾った日には、まさかシュウが猫耳の生えた人間になって僕の恋人になってくれるなんて思ってもみなかったけど……楽しかったし、幸せ

だった。上手く言葉に言い表せないけど……毎日、新鮮で…ドキドキして…色んな経験をさせてもらったなって思う」
「それは俺も同じ気持ちさ。こちらこそ、俺を拾ってくれてありがとう……」
続けてシュウが何か言おうとしたのを遮り「そろそろ帰ろっか。明日早いんでしょ」とベンチを立った。

「久しぶりに一緒に寝る?」
通販で頼んだ布団セットが届いてから、シュウはロフトで眠ることが多くなっていた。いきなりのれいちゃんからの誘いにシュウはごくりと唾を飲んだ。
「……それって誘われてるのかな」
冗談ぽく返すと、れいちゃんは何も言わずに寝室に姿を消した。
寝室の戸を開くと、

彼女は既にベッドに横たわっていた。
「……れい?」
「…………買ったのにアレ、全然使ってないよね…」
“アレ”が指すものを理解すると、シュウは小さく唸った。
「…そういえば…そうだな……」
「使って……みる………?」
遮光カーテンの隙間から漏れる僅かな光ですら、猫の瞳を持つシュウには

十分すぎる明るさだった。布団から僅かに覗かせたれいちゃんの瞳が潤んでいるのすらシュウにははっきりと見える。
「れい…!」
思わず布団の中に潜り込み、本能のままに彼女の身体を掻き抱く。柔らかな身体が戸惑いながらも自身の身体に絡みついてくる。手の届かないところは尾で抱き寄せ、夢中に

なって唇を貪った。薄手のパーカーのジッパーを下ろすと、カップ一体型キャミソールに包まれた乳房をわし掴んだ。
「っ……んんっ…!」
見た目よりずっと質量を感じる二つの丸みの谷間に鼻を押し付けると、どんどん身体の奥から熱が込み上げてくるのが分かる。襟ぐりから手を差し入れようとした

瞬間、静かに咎められた。
「だめ……伸びちゃう………」
恥ずかしそうに伏せられたまつ毛が揺れる。恥ずかしさからか、唇をもごもごとさせながられいちゃんはキャミソールの裾をゆっくりとたくし上げた。
暗闇の中、現れた素肌の美しさに声を失った。細い腕で覆い隠されてしまった乳房を求め、

シュウは何度も唇を寄せた。
「れい……見せて……」
「はず……かしい………」
「見たいんだ……れいの全てを」
「っ……ぅ………」
泣きそうな声を上げ身を捩りながら、れいちゃんはそれを彼の前にさらけ出した。
「……綺麗だ…れい……」
「うそ……だって、シュウよりずっとおばさんだもの…」

「俺の言葉が信じられないの?れいは、綺麗だ」
「ぅ………ひゃあっ!?」
猫特有の微小な突起が広がる舌で敏感な部分を舐め取られ、れいちゃんは大きく肩を跳ねさせた。こんなところを誰かに舐められるのは初めてだ。想像したこともなかったような強い快感が、彼の舌が触れた部分から全身に駆け巡る。

「ゃ……あぁっ…!し、しゅ…う…ぅ…っ……」
口元を覆いながら断続的に熱い吐息を漏らす姿に興奮しない訳がない。音を立て突起に吸い付き、興奮のまま甘噛みした瞬間鋭い悲鳴が上がった。
「ひっ!?い…いたいっ…!!」
その瞬間、頭から血が引く音がした。自身の犬歯がれいちゃん

を痛めつけてしまったのだと気付いたシュウは、このまま進めればもっと彼女を傷つけることになるかもしれない可能性を思い出すに至った。
「ごめん…っ……ごめん、れい………やっぱり駄目だ…今夜は…できない……」
キャミソールの裾を下ろし、肌を完全に隠すとシュウはれいちゃんを抱きしめた。

「ぼ、僕が痛がったから…?ごめん、大きな声上げて……大丈夫だよ、あの……ちょっと歯が当たっただけだから……これ位…平気……」
「……この身体ではれいを傷つけてしまう…今は……ごめん」
黒い耳を垂らし、泣き出しそうに声を震わせるシュウに胸が痛む。
「き、急に変なこと言い出した僕が

悪かったね…!変な空気にしてごめん。今夜はもう寝よう…明日早いからって帰ってきたのにこんなことしてる場合じゃなかったね……おやすみ、シュウ…また明日ね」
わざと明るい声を作り、枕を整えると彼の髪を撫で触れるだけのキスを額に落とした。
自分より先に瞳を閉じたれいちゃんの

演技じみた寝息にやるせなさでいっぱいになる。
「うん…おやすみ、れい……愛してる」
滑らかな頬に口付けると、むにゃむにゃとわざとらしい寝言を口にしたれいちゃんがこちらに寝返りを打った。
背中を向けたれいちゃんの頬をひとすじの涙が伝ったことを、シュウは知らない。

翌朝、目を覚ますと彼の姿はなかった。
『必ず帰る。 君の愛猫より』
そう書かれた置き手紙を一枚だけ残して彼は行ってしまった。
「見送りくらい……させてくれてもいいのに……」
彼の居なくなった部屋はやたら広く、冷たく感じた。元々少なかった私服はほぼ持って行ってしまったのか、

彼の存在を感じさせるものはほとんど残っていなかった。少し離れて置いたはずの歯ブラシとコップ(いつの間にか隣り合わせになっていた)も、無くなっていた。
彼の言葉を信じたい。事情がなんであれ、戻ってきてくれればそれでいい。
そう思っていたれいちゃんだったが、シュウのいない生活はあまりに

寂しく味気のないもので、あっという間に強い孤独に襲われてしまうのだった。
「…ふるやさん、なんか痩せました?それに顔色も……」
「え?……体重は最近測ってないから分からないけど…顔色……ああ、今日チーク入れ忘れたからそのせいかも…後で入れてきます」
彼がいないと笑顔すら上手く

作れなくなってしまった。
(……ペットに依存なんかするから…………)
鏡に映った酷い顔色をした自分を嘲笑する。
長すぎる二週間が経った。二週間が経っても、ボーッとしているといつもの癖で二人分の食事を作ってしまう。
『美味しいよ。れいの手料理はどれも美味い…どれが一番かなんて決められな

ないな』
大層幸福そうにオムライスを口に運ぶシュウの幻覚すら見えてくる始末だ。
(今どこで何してるのかな……ご飯…おなかいっぱい食べられてるかな……)
彼があんなに絶賛していたオムライスも、一人で食べるとあまりに味気なく感じられる。

三週間が過ぎた頃だった。その日はシュウを拾った日と

同じように雨が降っていた。

折り畳み傘では防ぎきれなかった雨で濡れた身体を風呂で温める。
入浴中、たまに悪戯っぽく「一緒に入ってもいいかい」と曇りガラス越しに尋ねる彼の声がまるで昨日の事のように思い出される。
あの声も、風呂上がりにまとわりついてくる温もりも、長い指先で丁寧にかけてくれたドライヤーも、こんな

にもはっきりと思い返すことが出来るのに。
(本当に……もう帰ってこないんだね………)
乾かし終えた髪をブラシで梳かし、キャミソールの上にパーカーを羽織った時の事だった。
部屋のチャイムが鳴る。普段この部屋のチャイムが鳴るのなんて宅配便が届いた時位のものだが、何かを頼んだ記憶はない。

(もしかしてシュウ…!?)
一瞬にして期待が胸に満ち溢れる。先程まであんなにしょぼくれていたのが嘘のように、れいちゃんは一目散に玄関に走り出した。
「シュウ!?」
勢いよく開いた扉の前に立っていたのは、予想だにしない人物だった。
「……久しぶりだね、ふるやさん。シュウくん…散歩にでも

出てるのかい?」
その男が誰だったか思い出すのに数秒を要した。
「君のシュウくんはチャイム鳴らして帰ってくるのか?不思議な話だね……あ、そうだ。このイヤリング…ふるやさん、店に落としていっただろう」
前にたった一度だけ参加した合コンの後に二人きりで酒を飲み、唇を奪ってきた男ー・・・

生理的な嫌悪感に思わずドアノブを引いた。だが、ドアの間に身体を割り入れられ閉めることが叶わなかった。
「ちょっ…なんなんですか?なんで私の家知ってるんですか…非常識ですよ。イヤリングも結構ですから…お引き取りください」
出来るだけ男の感情を荒立てないように言葉を選んだつもりだった。

だが男は、ぐいぐいと無遠慮に身体を押し込んでくる。
「この間、街で君を見かけてね……若い男と手を繋いで歩いていた。僕とバーにいた時間よりずっと遅い時間にね……君、猫飼ってたんじゃなかったのか?猫が寂しがるから、と合コンを抜け出そうとしたのは嘘だったのかな。それともその猫より男の

方が大事になった?あんな若い男とどこで知り合ったやら……君みたいな寂しいキャリアウーマンの懐に入って甘い蜜だけ吸おうという魂胆なんじゃないか?君は騙されているんだよ」
男のあまりの無礼な発言に頭に血が上る。
「私のプライベートが貴方に何の関係があるって言うんですか!出ていって

ください、もう顔も見たくないっ…」
男の身体を押し返した瞬間、手首を捕まれ逆に胸に閉じ込められてしまう。
「や…っ…!」
「あの日から……あの日から君のことが忘れられなかったんだよふるやさん……若い男に大事な時間も金も吸い取られ続けていいのかい?君はもう30なんだし時間も

ないだろう……女のタイムリミットは早いんだ。君の夢を叶えられるのは僕なんだよ、あの男じゃない。あんな若い男に君の人生の責任を取れるものか…!僕なら…僕なら君を幸せに出来る」
完全に暴走した男の言動にれいちゃんは恐怖を覚えた。拳で男の背を殴りつけ、膝で懸命に腿に蹴りを入れる。

「離して!なんで他人の貴方にそんなこと言われなきゃならないんですか!?貴方に私の何が分かる…っ…僕の幸せを……貴方が勝手に決めつけないで!」
「ペットとヒモに依存し搾取され続ける人生を君は望んでいるのか!?目を覚ませ……今ならまだやり直せる、僕が君を妻にして可愛い子供だって

授けてあげるよ。僕が優秀な遺伝子を持っているってことを君も本当は分かっているはずなんだ…!」
自分がいかに優秀かという話を繰り返しながら身体にいやらしく手を這わせ続ける男に怒りと鳥肌が止まらない。
「私の選んだ人生を侮辱しないで!貴方なんかと結婚して一生縛り続けられる位なら

ペットに依存し続ける方がマシ!それに彼は……僕の大切なひとなの!!何処の企業に勤めてるとかどんな学歴を持ってるとかどんな実績を上げたかとか…そんなの何もいらない!シュウがいいの……シュウだけしか、僕はいらない!!」
自身の全てを否定するかのようなれいちゃんの絶叫に、男の最後の

理性が吹き飛んだ。
「この…!生意気な女だな!ロクに男も知らないくせに……ペットと男混同して頭湧いてるんじゃないか!?」
雪崩込むように覆い被さってきた男に悲鳴を上げようとした瞬間だった。

「ペットと男混同も何もイコールなんだけどな……おじさん、ここ俺の家なんだけど出ていって

もらえないかな」

ボストンバックを肩に担いだシュウがサングラスを外したかと思うと、軽々と男の身体をれいちゃんから引き剥がし後ろ向きに腕を捻り上げた。
「い゛ッ!?いててっ!いてててててて!!!」
「今大人しく帰れば骨の無事は保証しておいてやろう……二度とれいの前に姿を現すな」

シュウの鋭い眼光に縮み上がった男を外廊下に放り出すと、シュウは手早く扉を施錠した。
れいちゃんの方を振り向くと、腰が抜けたのか玄関にへたり込んだままの姿でこちらを見上げていた。
「……ごめん、結局三週間も待たせてしまったな……」
「しゅ……シュウ………なの…………?」
「うん。必ず

帰ると約束しただろう……やっぱり信じてなかったのか」
熱を孕んだ瞼にそっと口づけると、はらりと涙が零れ落ちた。
「も…う……帰ってこないのかとおも、った………シュウ……本当に…僕のシュウなの…?」
恐る恐る伸ばされた手を頬に導く。
「ああ、れいのペットのシュウだよ」

安心させてやるようにそう囁くと、れいちゃんはふるふると首を振った。
「ちが……う……シュウはペットじゃない…………僕の…一番大切なひと………」
両頬に添えられた薄い手のひらが痛々しいほどに震えている。
鼻から深く息を吸い込むと、ゆっくりと息を吐いた。
そして、今まで一度も言えなかった

一番大切な言葉を、瞳をまっすぐに見つめ紡いだ。
「愛してる……あなたを愛してる。失うことが怖くて今までずっと言えなくてごめんなさい…っ……もう、どこにも行かないで…そばにいて…シュウが必要なの。シュウじゃないとだめなの…あなただけを愛してる」
頬を優しく引き寄せ唇を重ねる。

すぐに口付けは深いものに変わり、節ばった長い指が髪を掻き回すのに応えるようにれいちゃんも彼のニット帽に手をかけた。黒い耳がニット帽から覗く。その懐かしい毛並みを指先で確かめていた時の事だった。
「し……シュウ……!?耳が……!」
「……尻尾も…………」
しゅるしゅると音を立て、

シュウの三角耳も長い尾も消滅していく。
数十秒かけて完全に消えてしまったそれらに二人して目を丸くするも、シュウの方が先に状況を把握し笑みを浮かべた。
「ようやく……俺もすべてをれいに明かせる。ずっと言えなかったことがあるんだ………聞いてもらえるかい?」
深く頷いた恋人に、

シュウは今までの事を洗いざらい打ち明けた。
母親の魔法のこと、魔法を解く方法を教えてもらうべく渡英していたこと。渡英の為の資金を貯めていたこと、渡英先で母親に捕まり妹の世話を任され続けなかなか帰れなかったことー・・・
「そん……えっ………なんか……おとぎ話みたいなんだけど……」

「信じ難い話であることは理解しているつもりだ。だけど事実なんだ……れいにも沢山迷惑かけて……不安にさせた事は悪かったと思っている」
「け、結局……魔法を解く方法っていうのは何だったの?お母さんに教えてもらったの?」
「……これまたおとぎ話みたいな話なんだけど…聞きたい?」

「おーよしよし、透と昴も元気な良い子だ。よく飲みよく寝て健康優良児……このまま素直な子に育ってくれよ…くれぐれも父親のようにチャラついたりするんじゃないぞ」
「母さん…何年前の話を持ち出しているんだ。今の俺はれい一筋だ」
「おお、そうだったな。“愛”の力は偉大だな。不届き者の息子に

一肌脱いだ甲斐があったってものだ……まぁまさか、こんなに早く孫を二人も抱くことができるとは思ってもみなかったがな。れいくん様々だ」
双子の女の子と男の子がハイハイする様を目を細めて見つめるメアリー。
部屋に響くチャイムの音。反射的にシュウが立ち上がり、出迎える。
「おかえり、れい」

「ただいま、シュウ」
広げられた腕の中に飛び込むれいちゃん。
「お風呂湧いてるけど先入る?それともご飯にする?マッサージでもいいけど」
「お義母さん来てるんでしょう?ご挨拶してから先にご飯にしようかな」
「了解ー・・・あ、れい待って」
イヤリングを外し振り向いた瞬間、唇が重なり合う。

「…愛しているよ、れい」
「………僕も、愛してる…!」

🎊💍😸HAPPY END!!😸💍🎊