「そうか。個室持ってない学生の場...」、@oxomckoe さんからのスレッド
そうか。個室持ってない学生の場合、保護者や兄弟姉妹も僕の講義を聞くことになるのか。これは良い。親が感銘する授業をすれば、学生はその時間に出席せざるを得なくなるし、本書いたら親が買ってくれるかもしれないし、弟や妹もうちの大学に進学してくれるかもしれない。大人の方が若者より御し易い。
「御し易い」という言い方は悪かったが、大学の学問は大人向きで本来子供には難しい。
社会経験を積み、何となく経験的に分かったことを原則や方法から勉強し直すと、グンッと知見が拡張することが年齢行ってから大学入り直す効用なのでしょうね。その点、18歳から22歳頃の学部生を教える場合は、どうしても強制的に基礎概念を叩き込む感じになるのはやむを得ない。経験則がないから。
だから東大・京大はじめ上位大学の上位層がやはり規格外に頭いいのはこれは(遺憾ながら)間違いないのですよ。10代でこれが入るのだから。ただ人生も研究人生も複雑だし、肉体と精神性も個々に変化しますから、それだって限定条件付きではあるわけですが。
学問の性質もある。例えば僕は前任校の東京理科大学では教養課程で政治学と歴史を教えていたのですが、彼らとしては、まず一刻も早く専門をやりたかったと思う。優秀な学生たちでしたが、基礎工学部あたりだと旧帝大の学生と比較すると数学、物理、化学、生物に不安を抱えていただろうし。
それに比べると人文社会系の科目はやや大人にならないとしっくりこないこともある。そうだろうと思う。18歳に福祉国家説いてもしっくりこない。だから僕なんかは1年生じゃなく、もう少し上の学年あるいは大学院の選択科目にした方が良いと思っていた。それなら彼らも違った向き合い方ができたろうと。
「古来からの大学の原則」では、まずリベラル・アーツやらないと専門科目を勉強する資格がないとされていた。教養に無関心な人に法曹や医師になられたら困るから。価値判断できない人間に専門知識与えても社会悪になるということもあるし、昔はリベラル・アーツやっとかないと専門文献も読めなかった。
ただ時代も知識獲得のツールも変化したので、「古来からの大学の原則」の固執することもないかと思う。つまり順番を違えても良いかなと。イグナチオ・デ・ロヨラみたいにおっさんになってから大学に入り、大業績あげた人は、大昔からいたわけだから。
最後に年齢行ってから大学入り直す人にアドバイスみたいになりますが、煩雑な基礎勉強には是非とも謙虚に取り込みましょう。これは大人には辛いところですが。社会経験どころか戦場経験豊富なロヨラも一所懸命、若い俊才に混じってラテン語勉強してました。これは見習わなきゃいけないと思います。