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「塾で教えていて、わりと衝撃的だ...」、@isa_kent さんからのスレッド

塾で教えていて、わりと衝撃的だったことの一つが「国語の教科書以外で、まとまった文章を読んだことがない子」の存在を、リアルに目の当たりにしたときのことだ。当時、その生徒は中学二年生だったが、計算問題以外は壊滅的で、その理由を探していたときに、ふと思い至って本人に確認をしてみた。

「小説や物語は読むかい?」と聞くと「読まない」という。では「家に文字だけの本はあるかい?」と聞くと、やはり「ない」という。さらに確認してみると、家には「マンガ日本の歴史」のようなものが数タイトルあるだけだという。それを聞いて、僕はこれまで彼の見ていた世界を想像して、背筋が凍った。

さらに僕はこう聞いた。

「もしかして、国語で文章を読むときに、どこかに『正解』が書いてあるはずだとしか読んだことがないのかな?」

返事は、予想通りだった。

「はい」

そうなのだ。彼にとって「言葉」とは、ただただ「正解の言葉」と「間違いの言葉」の二種類しかなかったのだ。

その生徒は、間違いだと指摘されることを異様なまでに嫌う子だった。間違いだと言われた瞬間に、嫌悪感を露わにしたし、そのまま塞ぎ込んでしまい、その後しばらくは誰の言葉も耳に入らないような状態になった。ときに身体を震わせ、怒りなのか悔しさなのか、爪を立てるなど自分の体を傷付けさえした。

何度かその生徒に「今の気持ちを何か言葉にできるかい?」と聞いたこともあったが「何かぐちゃぐちゃしている」というのが、お決まりの返答だった。それもそのはずで、なぜなら彼は自分の感情を表したり、理解したりするための「言葉」を、ただの一つも持ち合わせていなかったのだ。

その生徒にとって「言葉」であり「文章」というのは、極端な言い方をすれば、どこまでいっても「意味」を持たないものだったのだ。ただひたすらに、周りの反応から「正解」だと認めてもらうために並べ立てるためのものでしかなかったのだ。「自分のため」の言葉を、何一つ持っていなかったのだ。

つまりその生徒の中では、言葉は彼の周りの世界の何にも結びついていなかったのだ。誰かに「正解」か「間違い」かに振り分けてもらうことでしか、彼は自分の発した言葉を理解できなかった。そして彼にとって「間違い」は許されないことであり、また自分を「ぐちゃぐちゃにするもの」でしかなかった。

この話は極端な事例だと思うけれど、これに近いことが今の教育の現状ではわりと頻繁に起こっているのではないかと、僕は感じている。「空気が読めるか否か」というのも要するに、言葉そのものの意味によってではなく「その場の雰囲気に正解することができるかどうか」でしかないのかもしれない。

「文章が読めない」という話は、特にこのTwitterでは決まり文句のように頻繁に見かける話題だ。その原因の一つはもしかしたら、程度の違いこそあれ、このスレッドでお話した生徒のような人が、実はかなりの数いるということなのではないかと思ったりもする。

そしてこの話は「本を読まないと、この生徒のようになってしまう」という話ではないし、逆に「本をたくさん読みましょう」とか「本を読めば大丈夫」とか言いたいわけでもない。言葉を教えることや、言葉を受け取ること、そして言葉を「自分のものとして使う」ことの難しさと大事さを感じてほしい。

このスレッドを読んでくれた方々は(そしてそこにはもちろん、この文章を書いた僕も含まれている)、「運良く」言葉を「自分のもの」として使えるようになっているだけなのだと思う。だからこそ「できない」ことを責めても意味がない。自分たちができることを、少しでも伝えることが「教育」だと思う。

蛇足だけど、塾の講師としての僕はこの生徒に、いわゆる勉強における「正解を書かせる」こともできただろうし、世の中にはそういう方法論がたくさんあることも、一応は知っている。けれど、僕にはどうしても、それが「教育だとは思えない」のだ。これからも僕は、僕が伝えられることを伝えていきたい。

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  2. いさけんさん【目指せ令和の紀貫之チャレンジなう】
  3. 2020/05/16 22:53:52 公開
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