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「学童に来る子の一人が、とても力...」、@isa_kent さんからのスレッド

学童に来る子の一人が、とても力強い字を書く子がいて、僕はその子の書く文字が好きなのだけれど、漢字の練習などのときは、勢い余って枠からはみ出たりもするわけです。そこで、漢字の書取りの宿題を見ているときに、軽い気持ちで「枠からはみ出てる漢字もあるね」と言ってみたんです。

すると、その子の表情が急に硬くなって「でも学校の先生は、はみ出ててもいいって言ってたよ」と、恐るおそる言うんです。その様子を見た僕は、何だか少し悲しくなって、僕はその子に、次のように返しました。

「大丈夫、枠からはみ出しちゃ駄目だとか、間違いだから書き直しなさいとは言わないよ。僕は君の書く力強い文字が好きだし、枠からはみ出てもいいと思う。ただ、その力強さを枠の中にギュッと詰め込めるようになったら、もっときれいで読みやすい字になると思うから、ときどき練習してみてごらん。」

もしかしたら、こういったやりとりを読んだ人の中には、僕がその子の「個性を枠にはめようとしている」ように感じる人もいるかもしれません。でも僕は、それは少し違うんじゃないかと考えています。

なぜなら、本人の意思で「枠からはみ出るように書きたい」と思っているわけではなく、まだ「枠の中に収めて書くことができない」のだと思うからです。そしてそうだとすれば、その子に必要なのは、枠の中に書かなくていいという「自由」ではなく、枠の中に書きたいという「動機付け」だと僕は考えます。

僕が今の日本の教育現場に圧倒的に
足りないのは、この「動機付け」なのではないかと感じています。
学習の目的は「間違わない」ことでも「正解を書く」ことでもなく、本人が「成長する」ことのはずです。間違わなくなっていくのも、正解が書けるようになるのも、その成長の結果の一部に過ぎません。

そして指導者とは、その相手にできるだけ「成長するきっかけを与える」立場だと、僕は考えています。

そして話は最初に戻ります。僕が「枠からはみ出てるね」と言った時にその子が見せた表情が、僕には「間違いだと言われるのではないか」という不安の表情に見えたんです。その子はまだ、小学二年生です。それなのにもう、怯えるほどに間違えることを「怖がってしまう」ようになっているのが悲しかった。

本当に「個性を大切にする」のであれば「間違い方にだって個性がある」はずだと、僕は思います。それならば、否定せずに済ませるために「枠からはみ出てもいい」という自由を与えることは、本当の意味での個性の尊重なのでしょうか。僕にはそうは思えないんです。

例えば「草」という漢字を


と書いたとき、それは(意図的でないならば)まだ「未熟」なのです。そう書いてはいけないとは、微塵も思いませんが、きちんと「草」と書けるようになりたいと思ってほしいし、それができた時の喜びもしってほしい。

そうして、枠の中に書けるようになっても、一人ひとりの文字にはちゃんと「個性」があります。そしてもちろん、そこからまた「枠を飛び出したい」と思ったなら、思う存分飛び出せばいい。そのときにきっと、その子の個性は前よりずっと輝いてみえるようになるんじゃないかと思います。

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  3. 2020/09/08 14:52:41 公開
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