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「これはたぶん真逆。すごい救いを...」、@tsuyomiyakawa さんからのスレッド

これはたぶん真逆。すごい救いをもたらしている設定かと。基礎医学研究で喩えると、圧倒的な力を持つ疾患に対しては一人一人の研究者はほとんど無力で、ひっかき傷どころか、触ることすらできず、人生が終わる場合も。

しかし、隊の一員としての一見ムダに見えるわずかだが着実な貢献の総体が、巨人となっていき、鬼の本質と弱点を暴き出し、最終的には鬼を殺すことになる、と。あの煉獄さんですら上弦の鬼には勝てなかったわけですが、意思と技を次に繋いでいって克服を目指すわけです。

そこに多くの人は、真に自由で自律的な意思と美しさを見出していているのではないかと。個体としては死にますが、何がしかの蓄積・貢献と意思は生きて繋がれていくと。一人ではたいした貢献ができないと諦めがちで小さな我々に救いを与え、心を燃やしてくれているということかと思います。

鬼は自然災害を暗喩していることが、後のほうの巻でラスボスの言葉として出てくるので、上の比喩は、あながち突拍子もないことでもないのではないかと思います。

研究でなくても、何かを克服して達成するには、多かれ少なかれそういう側面はあるので、広く共感を呼ぶのではないですかね。

「自己犠牲の精神を賛美して強要するな」というお叱りをいただきそうなので、予め説明をしておきます。鬼滅の刃は、そのような精神を絶対視して全員に強要するような話では全くありません。鋼鐵塚さんという職人肌の職人の権化のような刀鍛冶が出てきます。

鋼鐵塚さんには自己犠牲の精神とかは多分ほぼ皆無。ただシンプルに完璧な刀を作り、研いだりすることのみに命をかけている人ですね。鬼が真後ろに来て派手に人を殺しているのに気づかず刀を研ぎ続けるし、そもそも鬼を殺すこととか、刀が何に使われるか、とかすらにも興味がほとんどなさそう。

ただひたすら完璧な刀に興味と愛がある。鬼を退治する中で刀を折ってしまった(何にも罪のない)炭治郎に対し、刀を折ったというだけで激怒してボコボコにする、暴力を振るってしまうという。ある種の発達障害だと推測されます。

鋼鐵塚さんとその同類の方々の村で作られる圧倒的に優れた刀が、鬼を退治するのには必要なわけです。(鋼鐵塚さんの炭治郎らに対する正当化できない暴力は容認されるものではありませんが)登場人物も、我々読者も鋼鐵塚さんをリスペクトするし、必要だと考えるし、格好良さも感じるわけです。

研究コミュニティには、良い意味での鋼鐵塚さんがたくさん存在するし、この種の方々が絶対に必要。個性がキラキラ光る登場人物の中で、自己犠牲の精神を明確に持つ人はむしろ少数で、一つの個性にすぎないんですね。

ですので、「自己犠牲の精神を皆に強要する」ということでは決してない、ということは言いたいし、鬼滅を見て、そういう押しつけをする人が出てこないことを期待します(とういうか全巻読めば、そういうことにはならない、ということ)。

今日は、文化の日じゃないですか。(自分がいうのもなんですが)まだ鬼滅、読んだり、映画見たりしてない方々には、たいへんおすすめ。今後、古典として、国民(というか世界)で共有されていってよいレベル。教養の涵養のためにもおすすめ。

「文化的エリート」として、他者をリスペクトできない、ディスリスペクトしてしまいがちな知識人層にもおすすめ。

映画ではあまり出てきませんけど、鬼滅に出てくる鬼は、基本的には元人間であり、とんでもない鬼になってしまっている事実の背景には、それぞれの鬼の理由がある。ダークサイドに落ちざるを得なかったそれぞれの環境、ドラマがあり、鬼滅ではそれがたいへん丁寧に記述されているんですよね。

鬼滅の中の鬼は、何らかの必然で鬼になってしまった気の毒な人間たちなんですよね。鬼は実際の世の中にもたくさん実在する悲しい存在で、この前教えていただいた新語でいうと、「ブルシット・ジョブ」をしている方々、せざるを得ない方々も鬼の一種なんだと思います。

鬼滅のすごいところの一つは、鬼の言い分を丹念に描いていること、そして鬼の中にすら存在する貴いもの、深いところに埋もれてしまっていたキラキラ光る小さなものを掘り起こして表にだしてあげ、それを優しく撫で、抱きしめてあげているところですね。

(映画ではないですが)柱の富岡さんが、殺した鬼の着ていたものを踏みつけたところで、それに対して炭治郎が「鬼は人間だったんだから」「俺と同じ人間だったんだから」「足をどけてください」と。「醜い化け物なんかじゃない」と。

自分が、「文化的エリート」の一部の知識人に本質的に欠けていると思うのは、この炭治郎の目線と感覚なんです。炭治郎は、大切な家族を鬼に殺され、鬼を殺す任務を遂行している鬼殺隊の一員。

その鬼殺隊の中でもただ一人「日の呼吸」を使うことのできる人で真のエリートとも言える。しかし、「上から目線」ということが一切ないんですよ。家族を殺した敵の鬼ですらも自分と同じなんだ、踏みつけてはだめなんだ、という深い感覚を心の底から持っている。

憎むべきは、どうしようもない天災・環境としての鬼の元凶(鬼舞辻に象徴される)であって、鬼の中にある人間ではない。そういうことを、炭治郎は深い感覚として自然に身につけているんですよ。すごいことです。

これは鬼滅の作者のオリジナル・独創ではなく、昔からこういう感覚は日本に存在しますね。日本に昔からある仏教的な哲学の発想、その根本的な理念が、鬼滅の本質に受け継がれているのでは、と推測します。

身につけた技と刀で斬り殺していいのは、鬼であって、人間ではないんですよ。鬼を斬り殺す場合にも人間に対するリスペクトは決して失ってはいけないのです。「文化的エリート」の一部の知識人にはそこがご理解いただけていないのでは、と。

多くの人の間で共有され、会話や議論などで用いることのできる知識基盤が教養なのではないかと思います。既に我が国の首相が、国会で「全集中の呼吸で答弁させていただく」というような使い方をされている。それに対して「国会で遊ぶな」「真面目にやれ」と対応するのはあまり知的な印象を受けない。

「鬼殺隊のカリスマ最高権力者であるお館様は、柱たちから批判されたときに、粛々とエビデンスを提示し丁寧な説明を行うことによって、柱たちを納得させています。総理におかれましても...」というようにやって、総理も含めてわらいをとって会場をなごませると。

そういうことを可能とするのが教養だし、そうやって和ませた後に、きびしく忌憚のない批判の応酬を行い、皆でより良いソリューションを目指すのが文化であると思います。

そういう意味なども含めまして、文化の日に、「教養としての鬼滅」も自信を持っておすすめできますので、お時間のある方はぜひ。

一応、再度、念を押しておきますと、鋼鐵塚さんはおそらく「鬼滅の刃」の映画も見ないし漫画にも興味を持ちません。「鬼滅の刃」を他の人に強要したり、知らない人を疎外したりすることはくれぐれもないようにお願いしておきます。

こちら、良いご指摘をいただいたので、ぶら下げておきます。

こちらも足しておきます。

こちらも。

Neuroscientist.
Professor, Fujita Health Univ.
Editor-in-Chief, Molecular Brain
Editor-in-Chief, Neuropsychopharmacology Reports
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  2. Tsuyoshi Miyakawa
  3. 2020/11/03 06:10:31 公開
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