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「もう深夜だからいいよね? 良い子...」、@YABUKImakoto122 さんからのスレッド

もう深夜だからいいよね?

良い子のみんな、善良なジャニーズファンのみなさん、許してね?
ジジィがこっそり呟くよ。
クソボス近藤真彦の捏造されたジャニーズ帝国の功労者という大嘘。
公式アーカイブだけだと完璧に騙されてしまうけど、マッチと同じ時代を生きたジジィが呟くよ。

メリーさんも羊をかぞえながらおやすみくださいね。藤島ジュリーさんもご容赦下さいね。
滝沢秀明社長は…
どうでもいいか。
ジャニー喜多川さんに最後に信頼を寄せられた後継者、2代目の苦労をこれから味わう方だから、あんまり刺激したくはないのだが。個人の主観から出た呟きですので。失礼します。

近藤真彦がジャニーズ事務所の長男って最近のメディア報道、古い人間なら全員疑問符が浮かんだ筈。
ただ、事務所から脱退しなかっただけで長男扱いはおかしい話で、おまけに功労者っていう表現にも忖度しすぎの感が吹き上がる。近藤真彦はただの1度も事務所の稼ぎガシラだった事はなかった。

マッチがもっともテレビに露出していた80年代なかば、ジャニーズ事務所のトップアイドルは田原俊彦だった。歌番組の出演回数、オリコン売り上げトップテン記録、ドラマ主演回数、NHK紅白連続出場回数、ライブ観客動員数、ブロマイド売り上げ、CM契約企業の数、全部が全部、田原がマッチを超えていた。

当時の男性スターの代名詞だった沢田研二が人気に翳りがみえはじめたとき、
「トシちゃんと同じ番組で張り合いたい」と発言して、GS世代を驚かせた事も付記しておこう。
当時のトップアイドルは、女性は松田聖子。男性は、田原俊彦で決定していたのだ。

当時、ジャニー喜多川社長からスカウトされて合宿所に入居した、元光GENJIの諸星和己がはっきりと証言している。合宿所のトップは田原俊彦(トシちゃん)で、彼が帰って来るまで夕食が採れなかった。少し揶揄を込めた追憶談だが、事実を語っているのは確かだろう。田原俊彦に対してはみんな逆らえず。

近藤真彦も頭を下げていたという。
まあ、エビフライ3個以上食べて正座させられた、いちご牛乳に104(トシ)と書いてあるのを飲んで正座させられた、風呂でシャンプー切らして、104と書いてあるシャンプーを使いかけて気がつきあわてて戻しただの、ネタ話にも当時のジャニーズ事務所の空気が伝わる。

曖昧な記憶だと、ジャニーズ公式の捏造した歴史と同じになるので、はっきりとした根拠を示しておこう。
TBSの歌番組「ザ・ベストテン」のディレクターとプロデューサーを務めた山田修爾の「ザ・ベストテン」(新潮文庫)の巻末に番組の記録が掲載されているが、それを見ると、ジャニーズアイドルの推移

が如実に伝わってくる。
田原俊彦は、フジの「夜のヒットスタジオ」に、シングルデビュー曲の「哀愁でいと」で1980年6月30日に出演しているが、「ザ・ベストテン」に初ランクインしたのは7月10日。8位だった。この時は、たのきんの2人も応援に駆けつけ、確かローラースケートで走り回ったと記憶。

たのきんトリオの3人は「ザ・ベストテン」には海援隊の「贈る言葉」がランクインした時にTBSドラマ「金八」生徒としてスタジオに来ていたが歌手デビューしての出演は、この時が最初だった。因みに「哀愁でいと」はレイフ・ギャレット「NewYorkCieyNights」のカバー。

「ザ・ベストテン」の順位は、8位、4位、3位、3位、2位、2位、2位ときて8月28日に1位を獲得。次の週も1位キープしているが、重要なのはこの時期に女性アイドルの松田聖子が「青い珊瑚礁」でランクインし、田原のあとを追いかけていた事だ。

9月11日には1位「哀愁でいと」2位「青い珊瑚礁」。翌週は1位「青い珊瑚礁」2位が「哀愁でいと」。翌週も同じ(因みにこのとき郷ひろみの「Howmanyいい顔」が5位)。
10月2日は1位「青い珊瑚礁」2位「Howmanyいい顔」で「哀愁でいと」は4位。

すでに田原俊彦はセカンドシングル「ハッとしてGood」をリリースして、初めてのオリジナル曲での勝負に賭けていた。10月16日は、1位は八神純子「パープルタウン」で2位「Howmanyいい顔」。「ハッとしてGood」は初登場3位。「青い珊瑚礁」は4位。ここから田原が快進撃して、

4週連続1位をキープ。松田聖子は「風は秋色」で2位につけている。11月は2人のレース状態で、そこに現在自民党の国会議員をしている三原順子が「セクシーナイト」で追撃していた。←雑音。

そして、たのきんトリオのきん、こと近藤真彦は、この12月に「スニーカーぶる〜す」をリリース、歌手デビューを果たしている。
この段階で、田原俊彦はフジ系列の日本歌謡大賞・放送音楽新人賞を受賞して、ジャニーズ事務所に男性アイドル初の栄冠をもたらしていた。

ジャニーズ事務所への貢献という意味合いから言えば田原俊彦こそ、歴史を画した存在といえる。
もちろん反論はあるだろう。
近藤真彦は「スニーカーぶる〜す」で「ザ・ベストテン」初登場でいきなり1位を獲得しているから。
田原よりも凄い人気があったんじゃないか?
という意見が出てくるだろう。

この近藤真彦の初登場1位には、たのきんトリオの冠番組「たのきん全力投球」での前宣伝や販促キャンペーン、「ザ・ベストテン」へのリクエスト葉書のファンへの要望など事前の運動があり、事務所の意向もあって田原も近藤のデビューを応援していた経緯がある。

さらにはすでに製作されていた映画「青春グラフィティースニーカーぶる〜す」の観客動員・興行成績が大きく影響していて、事務所は近藤真彦で失敗できないところに立たされていた。諸事情が絡んだ1位獲得だったわけだ。

言い換えると、近藤真彦はデビュー当初から下駄を履かされて神輿状態。実力のない偶像として出発していたのだ。
田原俊彦は、ググれば出てくるから敢えて書かなかったが、事務所での下積みが長く、先輩の代役やらバックダンサー「ピラミッド」での活動やら、おりも政夫の付き人やらを経験している。

芸能界の同業者たち、また、NHK若者向け歌番組の制作陣からの評価も、田原と近藤ではかなりの差があった。「夜のヒットスタジオ」出演回数は田原が断然トップ。NHKのサンデーズは田原俊彦と松田聖子が務め、近藤真彦には声がかからなかった。
因みに映画「スニーカーぶる〜す」はたのきんトリオ3人の

人気で観客を集めていて、近藤真彦は主演だが、ストーリー的には田原俊彦が主役級の活躍を見せている。劇場に足を運んだファンも田原のほうが多かったのではないだろうか。
当時の人気を測る「ザ・ベストテン」でも、近藤の「スニーカーぶる〜す」が連続1位を記録した1月が終わると2月には田原俊彦の

「恋=Do!」が1位を獲得。近藤の「スニーカーぶる〜す」は映画公開まえにすでに陥落して、松田聖子の「チェリーブラッサム」に追い越されている。
映画公開で「スニーカーぶる〜す」も返り咲くが、この1981年は、石原裕次郎が入院した年。芸能界は、石原裕次郎に忖度を開始していた。寺尾聰の台頭。

さらに、ツッパリブームもあって、横浜銀蝿が「ザ・ベストテン」の常連に。アイドル勢はそれらの流れに流されていき、たのきんトリオもジャニーズ事務所も思うように売れなくなってきていた。
テレビ局に強い石原プロモーション、ライブ集客につよいロックバンド、さらにドラマの人気から歌手デビュー

してアイドルになる道をジャニーズ事務所が開いたことにより、沖田浩之やひかる一平らが続々とデビュー。近藤真彦は「横浜チーク」をリリースするが、ついに1度も1位をとれなかった。田原俊彦の「ブギ浮ぎI LOVE YOU」も同じく苦戦。夏になるとなんと

ニューミュージック、フォークの松山千春「長い夜」が本人の出演のないまま連続1位。ジャニーズ事務所としては「青春グラフィティー…」映画の第2弾「ブルージーンズメモリー」公開日に合わせて近藤に同じ題名の曲をリリースさせて売り出したが、2週連続1位だけで終わった。若い女性の中から松田聖子

のファンになる子が増えて「白いパラソル」がヒット。アイドル業界は女性陣が席巻するようになってきて、ジャニーズはその隙間で活動するようになった。
ジャニーズ事務所が手をのばした映画業界では、空前の角川ブーム。薬師丸ひろ子が映画のヒットをとばしており、なかなかジャニーズの思惑通りに

ことが運ばない。
近藤真彦は、この時期にジャニーズ事務所の功労者だということを示すヒット曲を多数リリースするが、売り上げでは田原俊彦に及んでいなかった。
一説では、作家の伊集院静に泣きついて歌詞を書いて貰った「ギンギラギンにさりげなく」で、ようやく田原を抜いたといわれている。

近藤真彦のいわゆるオレサマキャラは、1982年あたりから顕著になる。
後輩のシブがき隊を子分扱い。雑誌のインタビューで「金八のセット使って生徒やってるのを見ると、俺の席で芝居してやがる、って気になる」と、後続タレントに脅しをかけ、普通にバク転できるジュニアにも文句をつけたりなど。

内弁慶なのがよくわかるのが、ほかの事務所のタレントにはあまり横柄な態度を取らないでいて、それでもしっかり流行に乗りたがる。横浜銀蝿グループがヒットを連発すると、そういうキャラでもないのに「ハイティーンブギ」の主演をジャニー喜多川社長に談判。原作ファンからの激しいブーイングの嵐を

無視して、主演した。
石原プロモーションの権力に憧れたのか、バンド経験もなく楽器オンチの癖に「嵐を呼ぶ男」に主演。
どちらも興行成績は振るわなかった。
いってみればどちらも近藤真彦の自己満足映画だった。そもそも演技力がなくどの役柄でも近藤真彦しか演じられない。歌も喚くだけ。踊りも

できない。つまるところ芸のない芸能人。それでも80年代は日本の芸能界は空前のアイドル全盛期だったため、年功序列型のジャニーズ事務所での近藤真彦の地位はゆるがなかった。
特に、先輩を立て後輩に厳しい少年隊が台頭すると、近藤の先輩風は暴風化しはじめ、シブがき隊は事務所脱退を考え始める。

少年隊といえば「仮面舞踏会」「デカメロン伝説」「ダイヤモンドアイズ」「バラードのように眠れ」などが1986年のヒット曲だが、その間、近藤真彦は「大将」「純情物語」「青春」「ベイビーローズ」をリリース。田原俊彦は「it'sBAD」「Hardにやさしく」「あッ」「KID」をリリース。ここまでジャニーズ

貢献度は、田原俊彦が数歩リード。近藤は決め手に欠けていた。なんとしても、TBSのレコード大賞が欲しかった筈。
田原俊彦は、俳優としての仕事に重点を置き、視聴率を稼いでいた上、「抱きしめてToNIGHT」も売れて、安定期に入っていた。レコ大は、中森明菜が

2年連続受賞して歌姫伝説を築き上げようとしていた。
ジャニーズ事務所はレコード大賞では、新人賞を独占してきており、大賞は別の事務所に取らせる方針をとっていた。男性アイドルは新人賞で輝けばよく、大賞は演歌勢が取るほうが重みがあっていい。メリーさんならそう考えていた事だろう。ところが、

80年代前半の演歌勢のヒットから時代は移りすでにレコード大賞はなかば出来レースとなってはいたが、勲章としての価値はまだ遺されていた。
少なくとも、田原俊彦には取れないだろう(歌唱力に難がある)大賞を取れば近藤はジャニーズ事務所に功績を遺せる。

朝になったので、この柱は、一時休止します。若いジャニーズファンにとっては関心の薄い内容ですので。

はい。深夜になりましたので、この柱の続きを書いて行く事にいたします。
(誰も読まない!)

時間軸は1987年になる。しかし、近藤真彦が「愚か者」でTBSのレコ大を獲得するこの年は、ジャニーズ事務所を中心に据えて見ていくと、当時の芸能界の縮図が却って見えなくなってしまう。もちろんそれで構わないのかも知れないが、ジャニーズのレジェンド、キングを自負する近藤の貢献度が嘘だという

この柱の主旨を正確に誤りなく伝える為には、少し回り道をしたほうがより上手く伝わる気がするのだ。そこで、少しだけ時間軸を過去に戻す事にする。
ジャニーズ事務所の真の功労者は誰なのか?
それをはっきりとさせる。
それには、何よりも先ず事務所社長のジャニー喜多川氏が何を目指して芸能事務所

をスタートさせたのか、から書かなければ、事務所に貢献した功労者が明確にならないと思うのだ。
いまの若いファンのみなさんは、生まれたときから当たり前に芸能界のなかに多数の人気アイドルを存在させ、どのテレビ局の番組にも毎日かならず所属タレントが誰かしら出演しているジャニーズ事務所が

そもそも最初はどうだったのか、興味を持った事はないだろうか?
いまは、ネット検索すれば簡単に答えが得られる為に疑問はたちまち解消し、一応納得できるので、ジャニーズ事務所も昔は大変な苦労があったんだ、で済んでしまう話なのだが、ではその答えから現在の…というか不倫報道まえまでの近藤の

あの態度が納得できるものだったのかを考えてみて頂きたい。デビュー35周年記念の全国ツアーコンサートの成功の為だけに、ジャニーズの恒例の年末年始カウントダウンコンサートを近藤真彦ヒットソングメドレー・オンステージにして、往年の持ち歌を後輩たちに歌わせ、自身もレーシングチーム監督メイン

の生活でボイストレーニングも十分にできてないまま懐メロをがなりたて続けた2014-2015のカウコン。
この時のジャニーズファンの怨嗟の声が、今回の近藤真彦の処分に大きく影響を及ぼした事実は、従来のジャニーズ事務所からは考えられない事態でもあり、また、メディアの報道のあり方も従来のタブー

扱いと(まだまだ忖度はあったが)違っていた事、それを合わせて考えてみると、近藤真彦はみずからすすんでパンドラの箱を開けたといえなくもない。自縄自縛の原因は、オレサマキャラの発動にあったと言えるのである。問題のカウコンのあとに近藤真彦は件の会社社長と出会い、そこから5年の不倫関係を

開始した。全て、自分は特別な人間なのだという奢りがあったからこそ出来た行動だ。不倫をしても、揉み消せる。事務所にはそれが出来るチカラがある。そう判断して、相手の家庭を平気で破壊し、自分の妻子には説明して納得させ…。
さながら、金屏風の再現のように身勝手な行動を取った彼が所属した

ジャニーズ事務所の過去を振り返り、どこがおかしかったのかを考える事は決して無駄ではないと思う。
良くも悪くもジャニーズ帝国は日本の芸能界とテレビのバラエティー番組を支えてきた。
昨年のジャニー喜多川氏の逝去によって、芸能界・放送業界のジャニーズ事務所に対する遠慮がだいぶ薄まり、

わずかではあるが、常識的な方向に進みつつある。
ジャニーズ事務所は、もちろん最初から帝国だったわけではない。
しかし、どこかでボタンを掛け違えた。
それは、どこか?
考えてみる。
まず、取っ掛かりとして誰もが想起する、フォーリーブスについて少しだけ書く。

個人的な記憶と感想だが、フォーリーブスが活躍した時期のジャニーズ事務所はまだ帝国と呼べるような位置にはなかったと思う。
テレビの番組でのギャラも大した事がなく、歌謡界での立場も弱かったと思っている。ジャニー喜多川氏もテレビ局側にあれこれ注文をつけて事務所のタレントを守れるほどの

チカラも無く、所属タレントの大半を自宅兼合宿所に住みこませて、仕事の現場には公共交通機関を利用させていた。運転手つきの、またはマネージャーによる送迎など出来る余裕もない弱小芸能事務所だった。というより、当時はどこの事務所も似たり寄ったり。レコード会社がまだまだチカラを持ち、タレン

トを抱える事務所はレコード会社の専属契約を取れれば食いつないで行けるという状態。芸能事務所でチカラを持っていたのは、渡辺プロ、ホリプロ、田辺エージェンシーくらいのものだった。(のちにサンミュージックが加わる)
フォーリーブスは、オマケ程度の扱いを受けていた。

それでも、タレント、歌手は結局、ファンがお金を使って応援すれば「売れた」事になる。
フォーリーブスは、熱烈な若い女性ファンがついた事から、ジャニーズ事務所ではそれまでにない売れ方を見せ、その実績から、NHK紅白歌合戦に7年連続出場(途中一回は代打)を果たし、当時の男性アイドルの記録を

作った。
ジャニー喜多川氏の目指す方向性はしかしテレビ局の番組での成功ではなく、アメリカのブロードウェイミュージカルのような豪華できらびやか、かつ芸術的な舞台をプロデュースして成功させる事であり、フォーリーブスのコンサートもその方向を目指すものだった。ミュージカルは歌と踊りと芝居

が絶妙に組み合わさって観客を魅了しなければならない。フォーリーブスの場合、歌はまあまあ、芝居もそこそこ、とりあえずダンスは日本のほかの芸能人よりマシ、といったレベルで、到底ジャニー喜多川氏が手放しで喜べるところまでいってなかった。それでもコンサートの舞台上で体操のバク転を披露する

ダンス重視のショーは、新鮮なものだった。ジャニーズと言えばバク転、という伝統がここから始まった。
フォーリーブスの登場で当時のテレビ出演タレントの若手の中にそれまで無かった「運動神経抜群の男性アイドル」というカテゴリーが誕生した事も付記したい。それまでのGSグループは楽器演奏と歌

とルックスでファンを魅了したが、スポーツマンである必要はなく、かまやつひろし、堺正章、井上順、沢田研二、萩原健一、鈴木ヒロミツらは別にダンスの名手でもなく、スポーツマンでもなかった。フォーリーブス台頭から、桜木健一、石橋正次、森田健作ら、スポーツマン俳優がテレビドラマで人気を博す

ようになった。そして、テレビのバラエティー番組に芸能人大運動会や芸能人水泳大会が加わるようになった。歌って踊れるアイドルに運動神経が要求されるようになった契機は、ジャニーズ事務所のフォーリーブスの存在抜きには考えられない。
しかし、フォーリーブスが日本の男性アイドル界を牽引したと

いう訳ではなかった。
彼等には、スターの必須条件である華やかさが欠けていたのである。
スターのオーラは、森進一や野口五郎、三善英史にも負けていた。もちろん沢田研二とは較べるまでもなかった。ジャニーズ事務所は看板タレントのフォーリーブスの4人のバックダンサーを務める若いメンバー構成の

ジュニア・スペシャルというグループを結成させて、コンサートで踊らせてはいたが、メンバー定着すらおぼつかない状態で、スターに育て上げる仕組みもまだなく、フォーリーブスのバーターでテレビに出てもあまりパッとしなかった。それでも事務所はフォーリーブスだけではやっていけない為に1975年2月

グループ名をJOHNNYS'ジュニアスペシャルに変更し「ベルサイユのばら」でレコードデビューさせた。
この曲はテレビアニメの主題歌で、アニメファンと原作ファン、そして宝塚歌劇団ファンを購買層に狙った曲。ジャニーズ事務所は、ここで本来の目標から一旦離れてともかくレコードを売る戦略をとった。

フォーリーブスとJJSだけを見ると、何故こんな戦略を取らねばならなかったのか疑問に思えるが、実は、この1975年のはじめ、ジャニーズ事務所には大事件が勃発していたのである。
それは、郷ひろみの事務所移籍問題だった。
ここまでフォーリーブスの活動ばかり書いて、その弟分だった郷ひろみについて

全く触れずに来たのには訳がある。
それは、ジャニー喜多川氏が夢見たブロードウェイミュージカルショーの日本での成功と、日本の歌謡界の男性アイドルの華やかな活躍とは本来別なものだった、ジャニー喜多川氏は男性ミュージカルスターを誕生させてそのプロデュースをする夢の前段階として芸能界の

男性アイドル育成を行なっていたのであり、フォーリーブスが何とか近い形でコンサートを成功させていた現状から、次のステップへどう移行すればいいのか模索していた、と考えられる。その時期に、郷ひろみが現れた。ジャニーズ事務所の方向性とは無縁の美少年の事務所所属。しかし芸能界は若いスターを

求めていた。郷ひろみは、そこに現れたのである。需要に応える形で、フォーリーブスの弟分はまずNHK大河ドラマ「新平家物語」で俳優デビューする。すでにフォーリーブスのコンサートでファンがついていた郷ひろみには、歌手デビューの話も進められていた。この時期に研音所属の西城秀樹がデビュー。

あとを追う格好で郷ひろみもデビューした。郷の奇蹟は1972年8月「男の子女の子」リリース、9月25日オリコン週間チャートトップテン入り、11月にTBSレコ大新人賞受賞というスピードに現れている。翌年には野口五郎、西城秀樹とともに新御三家と呼ばれ、ブロマイド年間売り上げトップを記録した。

その年のNHK紅白歌合戦に初出場、翌74年10月にはオリコン週間チャート第1位を「よろしく哀愁」で獲得し、ジャニーズ事務所の稼ぎ頭となった。先輩グループのフォーリーブスをあっという間に追い抜いてしまったのである。
そして、まだあどけなさの残る美少年・郷ひろみは、ジャニーズ事務所からの移籍

を図る。まだメディアに影響力のないジャニーズ事務所は、郷ひろみの移籍問題で好き放題に書き飛ばされ、ジャニー喜多川氏は精神的に参ってしまった。結局、郷ひろみのわがままを黙認する形でかれの移籍先も決まり、ジャニーズ事務所は稼ぎ頭を失う事になる。JJSのレコードデビューは事務所の急場凌ぎ

として行なわれた感じである。郷ひろみが晴れてバーニングプロで再スタートを切ったその陰でジャニーズ事務所は次の経営戦略を練るハメに陥る。これは個人的な想像だが、この時期ジャニー喜多川氏は新御三家をはじめ当時の男性アイドルについてかなり研究を重ねていたのではないかと思う。野口五郎や

西城秀樹はまだその音楽性や方向性を見て人気が出る理由が理解できる。ところが郷ひろみだけは過去に類例のないタイプだった。声帯も細く特製マイクじゃないと拾えない歌声。女の子かと見まごう容貌。カッコ良さよりも頼りなさが先にくる。ところがそんな郷ひろみが人気を獲得すると、柳の下のドジョウ

を狙った他の芸能事務所が続々と似たタイプの男性アイドルをデビューさせ各々ファンを獲得、新御三家に続き新新御三家という冗談のような呼称も飛び出した。ジャズでもロックでもない、アイドル曲が持ち歌だった。ジャニー喜多川氏はJJSにその方向で歌うのを求めたが、「ベルサイユのばら」に始まる

アニメソング路線は「新エースをねらえ」で終わった。歌謡曲ファンが定着しなければレコード会社もいい顔はしない。JJSは、日本テレビ系列の「おはよう!こどもショー」で子供と遊ぶタレントになった。因みに「おはよう!こどもショー」には藤島ジュリー景子副社長も出演していた。それはともかく、

郷ひろみの開けた穴はあまりにも大きく、事務所の経営は苦しい時期が続いた。そうした中、たまたま関西にいたジャニー喜多川氏はローカル局のバラエティー番組で、西城秀樹の形態模写を演じる少年を見つける。川崎麻世である。
まだ中学生ながら179センチ、股下92センチのバタ臭い顔立ちの少年に、

ジャニー氏は早速こえをかけた。結果的に川崎麻世はアイドル歌手として成功しなかったが、ミュージカル役者に育てたいというジャニー氏の夢を一時期、川崎は担う事になった。なぜテレビ番組で川崎を使うように営業をかけなかったのかはわからないがジャニー氏のカンだったのかも知れない。因みに同時期

甲府にいた田原俊彦は、ジャニーズ事務所にダンスのレッスンに通い、川崎麻世と接触していた。歌って踊れるミュージカル役者の修行にアメリカ留学に旅立つ川崎を田原は見送った。甲府にいた田原俊彦はテレビ番組で人気があるのが次第に歌謡界のスターからニューミュージック系に移行している事を感じて

ダンスレッスンを重ねている現状に不安があったとのちに語っている。
さて、時間軸は1979年。
ジャニーズ事務所の運命を変えたテレビドラマ「3年B組金八先生」のオーディションが芸能事務所に告知された。
前年の8月末にフォーリーブスは解散し、北公次は和歌山に帰った。
残る3人は事務所に残った。

ここまでで、いわゆるジャニーズ帝国らしさはまだ現れていない。テレビ局もスポンサー企業も、渡辺プロなどの老舗事務所は別にして、特に芸能事務所に気を遣うようなところはなく、あっても逆に週刊誌やスポーツ紙がそれを記事にして売るのが普通という感じだった。つまり芸能事務所は紙メディアまで

抑えつける権力は持たず、例えば鶴田浩二の隠し子騒動、萬屋錦之介の離婚、勝新太郎の浮気、三船敏郎の創価学会入会、石原裕次郎の借金、などなど遠慮会釈なく記事にしていたし芸能界の人間はそれを有名税として許していた。いまなら訴訟になりそうなところまで追及するのが芸能ジャーナリズムだった。

そしてまた、芸能人自身も一般社会の良識からはずれた行動を取りながら、それが芸能人だからと社会が黙認する空気があった。若山富三郎の愛人部屋、山城新伍や火野正平の女遊び、歌舞伎役者は浮気を隠さず、有名女優は俳優や監督との密会を次々と報道され、それはテレビも普通に取り上げていた。それが

一変するのが、この時期以降だった。

なぜ一変したのか?

人気スター、アイドルの極端な低年齢化が原因のひとつだった。
すでにその予兆はあった。
日本テレビのオーディション番組「スター誕生」から芸能界デビューしたスターたち、最も有名な花の中3トリオ。未成年者である為にスキャンダルは記事になるまえに封印されるのが常になり、

いろいろ取り沙汰された噂はあっても全て噂でストップし、表向き何事も無かったかのようにスルーされていた。その流れが、そのまま1980年代のアイドル隆盛期に持ち越され、テレビ局はアイドルを握る芸能事務所に遠慮して何かあっても黙認する、そうした体制が敷かれるようになっていったのである。

少しだけ休憩したので、続けます。

この柱は、別に何も特別な事を書いているつもりはなく、当時、普通に生活していてたまに観るテレビなどで出てくる歌手や俳優、タレント、アイドルたちの世界を自分なりに解釈して、今回の近藤真彦の不倫騒動から芸能活動無期限自粛の決定にいたる流れの中で記事など

から見えてきた彼の自分本位な考え方と、その考え方がいかに生成したのか、をひとつ解き明かしてみようと思ったことがきっかけです。この呟きでジャニーズ事務所の過去の横暴を糾弾しようとか、または、すでに裁判所の判決も出て事実だと確定したジャニー喜多川氏による未成年者に対する性犯罪を責める

つもりもありません。
そうしたジャニーズ事務所に特有の問題については、既に北公次さん(2012年2月没)が生前に著書で述べてますし、当事者同士の問題に第三者が論評を加えるべき事柄ではありません。既にジャニー氏は故人となり、性犯罪の今後の発生はあり得ないようになってます。その問題ではなく

今回の問題は近藤真彦という所属芸能人が、平然と不倫をして「俺には揉み消すチカラがある」と女性に語っていたとされる、そこに歪みを感じ、その歪みの原因を探る意図から書こうと考えたわけです。
今回の彼の一連の行動は、少し前に起きた山口メンバーの飲酒運転事件とも共通する点がありそうです。

要するに自身を特別な人間だと勘違いしていた、甘え体質を持ったまま成人してしまった馬鹿な大人です。別に特別でもなんでもない、ただ芸能界の中だけなら事務所の威光で何でも片付く、そう思い込んでいただけの文字通り愚か者です。
では、続けます。

これまで1981年から1987年までを駆け足で呟いて来たが、実質、近藤真彦にはジャニーズ事務所に貢献したと断言できそうなものは何も見えて来なかった。その間、ジャニーズ事務所のトップアイドルだったのは田原俊彦であり、新たなファンを獲得して事務所に利益を齎していたのは、たのきんトリオのあとに

デビューした後輩タレントたちだった。
むしろ、近藤真彦はデビュー当初から映画産業とのタイアップと、芸のなさを隠してひたすら自己アピールするヤンチャ坊主ぶりで、こころある関係者たちからは嫌われていた節すらある。有名なエピソードだが、近藤が美空ひばりと番組で共演した際、歌謡界の女王を

知らなかった。無知な若者だという評価を固定したい者がいた事を思わせる。事務所にとって厄介な存在になり得た事が伺える。

また、事務所はこの年、戦々恐々とほかの芸能事務所の動向を見ていた。
田原俊彦は大成功だった。
わずか半年の活動で主な新人賞を総ナメにして、かつての郷ひろみの再来を予感させていたのである。
そして迎えた81年。近藤真彦は華々しくデビューしたが2曲目で早くも躓いた。これではJJSの二の舞だ。

もちろん映画第2弾も用意していたがこれでコケたら終わりである。副社長のメリー喜多川女史はマネージャーたちに現場でほかの芸能事務所の動向を探るように命じた。かつて、郷ひろみが登場したあと、そのコピーのような新人歌手が大量にデビューした。ほとんどは消えたが、あいざき進也、城みちるなど

根強いファンを獲得した者もいた。メリー女史は若い女の子の心理をわきまえている。白馬の王子さまが一人しかいなければよし、もしも複数存在したら、女の子は好きになる王子さまをそれぞれ分かれて応援する。新御三家がそれだった。野口五郎、西城秀樹、郷ひろみの3人はタイプが違うから各々にファン

がついたのだ。田原俊彦は甘い歌声にかわいい笑顔の王子さまだ。近藤真彦はヤンチャな所のある悪童タイプだ。各々に別なファンがつくだろう。しかしほかの芸能事務所から才能ある新人がデビューしたら、たちまち目移りしてしまう事だろう。アイドルファンはミーハー気質で信用できない。ほかの事務所に

ファンを取られてはならない。合宿所で少年たちと触れ合いながらミュージカルの夢を育む弟・ジャニー喜多川と違い、冷徹なマネージメントを常に心がけてきたメリー喜多川は考えていた。ほかの芸能事務所からデビューする新人を何とかしなければまた失意の日々に逆戻りになる。

勿論、競合他社の商品の製造を妨害など出来ない。日本には独占禁止法があり、国の方針は自由競争を許可している。その上、日本の芸能界には昔から業界内は運命共同体という認識があり、多少邪魔だと感じても他社の営業をさまたげたりしない風土が存在していた。競争相手も同じ業界の仲間なのである。

それでも、一方では大手の芸能事務所が露骨な寡占工作を仕掛けてくるケースもありはした。70年代、人気タレントを大勢抱えていた渡辺プロは、民放各局に圧力をかけてほかの芸能事務所のタレントを起用すれば渡辺プロのタレントを使わせないという通達を出し、視聴率で争っている民放各局を操っていた。

しかしそれもチカラのある事務所だから出来た荒業で、ジャニーズ事務所にはまだまだそこまでのチカラはない。逆にヘタなマネをすると大手に邪魔される側の立場にある。チカラのない者はおとなしくするしか無いのである。

芸能界、歌謡界も結局は人間の繋がりを重視しており、借りを作ったり貸しを作ったりで後々まで相互に依存し合っている。定年のない芸能界ならではの在り方で、大手の強みは結局のところ古参タレントの顔の広さにあった。渡辺プロならクレイジーキャッツが筆頭で、タレント間に幅をきかせていた。その点

タレント出入りの激しいジャニーズ事務所は不利で、最古参が元ジャニーズのあおい輝彦。それでもグループ解散後は事務所を離れてしまった為に現在はジャニー喜多川の個人的な関係で繋がるだけで実質頼れない。ウエスタンカーニバルなどの音楽関係でミュージシャンたちとの繋がりはあるが、浮き沈みの

激しい業界の常で、いい時はいいが落ち目になれば相手にされない。これは芸能界の冷たい現実だ。ジャニー喜多川は温厚な性格で古い音楽関係者の間での評判は良く、敵が少なかったが味方もいない。これでは新人タレントを守り切れないのである。実際、81年、近藤真彦のライバルとなる新人歌手が各事務所

から続々とデビューした。メリー喜多川にできる事は歌番組に「たのきんトリオ」はソロ活動もするがひとつのグループだと思わせる事くらいしかなかった。つまり、近藤真彦は生意気で使いたくないだろうが、田原俊彦もセットなのだと思わせる事である。田原は断然トップアイドルなのでどこも引く手あまた

であり、サンミュージックの新人女性歌手松田聖子を使いたいところもまた田原俊彦を一緒に起用したがっていた。番組スポンサーも松田と田原をかつての山口百恵と三浦友和コンビに見立てて商品宣伝に使いたがっていた。これを利用して近藤真彦を押し込むしかなかった。メリー喜多川のとれる戦略はそれ位

しかなかった。
のちに田原俊彦が冗談まじりに回想している。
あとからデビューして来た女性アイドルはみんなマッチのファンばかりだった…。これはしかしやむを得なかった。女性は既に相手のいる男性よりもフリーの男性に目が行くものなのである。近藤真彦に魅力があったのではなく、田原俊彦に聖子と

いう相手がいるのだから。
トシちゃん派、マッチ派で分ければマッチ派有利になるのは仕方がない話だった。勿論、スポンサー込みで作られたカップルなのだが、サンミュージックもジャニーズ事務所もこの「第2のモモトモコンビ」で新人を売り出したほうがウケがいい為に積極的に協力していた。たのきんの

セット売りで近藤真彦も露出が増えて得になり、出演者の人数が限られる番組では、新人歌手の枠に近藤真彦が入れば、あとは無しになるケースが多かった。
無知でうるさいだけの目立ちたがり屋の新人歌手近藤真彦はこうしてテレビ局の番組に出演する機会を増やして行き、同じ年にデビューしたライバル達

との差を拡げていく事が出来た。好感度の高い田原俊彦を中心とした、サンミュージック、ジャニーズ事務所、スポンサー、テレビ局の各々が得をするやり方は、図らずも近藤真彦に最も利益を齎すことになったのである。
このセット売りはジャニーズ事務所のタレント売り込みの方法として次第に定着して

所属タレントを複数出演させる事でほかの事務所タレントの露出を自然に防ぐというジャニーズ事務所伝統の手法になった。
しかし、一方で、その手法はこの年に同じジャニーズ事務所からデビューしていた所属タレントのひかる一平の露出を下げる結果にもなっていた。やはりジャニーズばかりではほかが

納得しない。ひかる一平は割を食った格好になった。同期のスターダストプロモーション所属の新人・沖田浩之が「E気持ち」で歌番組に出演するのをブラウン管ごしに見ているしかなかったひかる一平は事務所のたのきんトリオのセット売りの最大の犠牲者だった。

また、ほかにも犠牲者は存在していた。
「3年B組金八先生」でたのきんトリオと共演していた三原順子である。ドラマの中で不良少女役を演じていた彼女は、ドラマ収録現場に親しい同性の友達もおらず、悩み事はほとんど年上の田原俊彦に相談していた。ドラマ内で不良同士の間柄を演じ田原と最も近い間柄

だった三原順子は、歌手デビューが少し遅れた。と言っても前年(80年)の9月なので、特別遅れた訳ではない。世間一般の認知が遅れていた、と言った方が正確だ。この80年秋、世間一般は山口百恵の引退と結婚に注目していた。そしてアイドルファンたちは松田聖子に魅了されていた。一歩出遅れた三原順子

は「セクシー・ナイト」でキングレコードからデビューしたが、事務所触れ込みの「第2の山口百恵」は
本物の引退コンサートの日に(10月15日)もレコードの営業活動をやっていた。既に松田聖子は「裸足の季節」「青い珊瑚礁」をリリースし、一躍トップアイドルとして活動していた。その差は歴然として

おり、出遅れた三原順子はそのまま周回遅れの新人賞レースを戦わなければならなかった。インタビューで「尊敬する歌手は?」と聞かれるとオウムがえしに山口百恵さんです、と答えさせられた。既に終わった歌手を目標にしなければならない、事務所の方針だった。新人歌手に世間一般が求めているのは新鮮

な魅力なのだが、事務所の大人たちは柳の下のドジョウを狙っており、三原順子はその戦略通りに振る舞わねばならなかった。ツッパリ少女の演技が板につき過ぎて、イメージチェンジができないままにレコードデビューしてしまった彼女はルックスの良さでブロマイドは売れたがレコードは思ったほど売れない

ために地道に営業活動を重ねるしかなかった。
サンミュージックとジャニーズ事務所の仕掛けた「第2のモモトモコンビ」作戦は話題を呼んでいた。山口百恵は、不幸な生い立ちから歌手になり、結婚を決めて芸能界を引退し、幸せになります!と宣言していた。物語は完結し、ハッピーエンドで締めくくられ、

不幸なツッパリ少女の再来は余計なものと見做されていた。アイドルファンが求めていたのは松田聖子という完璧に作りこまれた虚構の存在だった。立ち居振る舞いの可愛らしい仕草は計算された演技であり、カワイコぶった芝居である。清純な美少女を演じるさまは「ぶりっ子」と言われたが嫌悪された訳では

なかった。芸能人に本物の清純な美少女などいない事はわかりきった話だった。松田聖子は全て承知の上で清純派アイドルを体現していた。だからこそウケた。
同じ構図が男性アイドルの田原俊彦にも当てはまった。現実には絶対に存在しない無限に優しい男性。常に明るく微笑み女性をエスコートする男性。

そんな奴がいる筈がなかった。だから売れたのである。アイドルはこうしたものだと両者はハッキリと示していた。虚構だからこそ圧倒的に支持されたのだった。いまさら不幸な現実など誰も見たくない。三原順子が歌う曲は、一部では受け入れられたがトップを取れる曲とはならなかった。
見方を変えれば、

三原順子もまた、ジャニーズ事務所の犠牲者だといえた。
ただし、トップは無理でも2位は取れた。
TBSの「ザ・ベストテン」のランキングを見ると、三原の「セクシー・ナイト」は11月13日に初登場6位。
1位は田原「ハッとして-Good」2位は松田「風は秋色」である。
すでに芸能界を引退していた山口百恵の

「さよならの向こう側」が8位に残っており、その下に松山千春「人生の空から」と五木ひろし「ふたりの夜明け」がある。発売から2ヶ月たって8位獲得は大変な健闘といえた。同期の河合奈保子も柏原よしえも岩崎良美もランクインしていないのである。同じドラマ「金八」出身の新人歌手としてようやく肩を

並べてソファに座ることが出来た。しかし、この「ザ・ベストテン」のソファの並び順は、別な悩みを三原に負わせた。
熱烈なトシちゃんファンからの抗議のハガキである。
のちのちまで語り継がれたエピソードだが、新聞のテレビ欄の「ザ・ベストテン」の出場歌手紹介に田原俊彦と松田聖子が並ぶだけで

TBSには抗議のハガキや電話が殺到した。さらに出演歌手が待機するソファも二人が近いだけで抗議の電話が鳴り止まず、黒柳徹子は長いソファの両端に二人を座らせるようにしていた。ところが、三原順子がランクインしたこの日、1位の田原俊彦が歌い終わり、番組恒例の写真撮影で、ドラマ共演の三原順子と

田原俊彦の距離が近かったことから、三原の事務所にカミソリの刃が入った封筒が送られて来た。熱烈なトシちゃんファンにとって、松田聖子は事務所公認のコンビとして仕方がないが、三原順子はただのドラマ共演者であり、二人が親しくするのは間違っている、という事らしかった。

もっとも、悩むと言っても深刻な所まで落ち込む事は無かった。所属事務所の東京宝映は歌手を経営の中心にしているわけではなく、三原順子の歌手デビューも最初から女優志望の彼女の芸の幅を拡げる意味で、時代の要請に従ったというところがあり、あくまで三原は女優が本業という立場に立っていたから、

歌番組の結果生じたトラブルはとりあえず流しておく事にした。この時期の三原はテレビドラマ主演で忙しく、歌より演技に重点を置いていた。田原俊彦は最初から眼中になく、週刊誌メディアもむしろドラマでこの時期共演していた宮脇康之との仲を疑っていたのである。三原自身、マスコミの取材に疲れて

「ザ・ベストテン」の中で久米宏から「恋人はいますか?」と訊ねられストレートに「います」と答えている。デビュー曲「セクシー・ナイト」が3位になった11月の生放送での出来事で、事務所はあとから慌てて否定した。なにしろレコードはようやく売れ出して、ドラマの視聴率も上がってきている最中であ

った。三原自身は否定を打ち消し、ドラマ共演者の宮脇康之の名前まで公表、多くの男性ファンを失望させた。

そして81年、
近藤真彦の勝負の年。
ところが前にも呟いたが、この年は石原裕次郎の入院の年だった。
石原プロモーションは一致団結して寺尾聰を応援した。芸能界のパワーゲームの中で、歌謡界なら渡辺プロが隠然たる勢力を誇り、それに対抗すべく日本テレビが作詞家・阿久悠と組んで歌謡界に旋風を

巻き起こした「スター誕生」。渡辺プロ以外ほとんど全ての芸能事務所に公平に新人を選ばせる形式を取る事で後発の事務所にもチャンスを与えた番組から幾人もアイドルがデビューした。そしてそうした一連のブームが消費し尽くされ、飽きられた後に、いわゆるニューミュージックの流行があり、ゴダイゴ、

ツイスト、サザンオールスターズなどが出てきた。そうした歌謡界とは別に、テレビ局には映画産業から流れて来たドラマ制作部門があり、その分野にも大手プロダクション各社の競争があった。しかし、何と言ってもドラマ制作に金をかける会社が強く、時代劇なら東映であり、現代劇なら刑事物をヒットさせ

ていた石原プロモーションが強かった。映画俳優はやはりテレビドラマ専属の俳優よりも業界内での知名度もステイタスも上だとする風潮があり、実際、映画会社は企画段階でいけそうな内容のものをまずはテレビで試してから、というところもあって、試験的な作品に起用されるタレントと映画俳優との間には

やはり差があった。石原プロモーションは、映画俳優が所属する映画制作会社であり、俳優は、石原裕次郎を筆頭に有名どころが集結していた。寺尾聰も、その一人だった。父親は宇野重吉。これも舞台俳優の重鎮だった。その寺尾聰が「ルビーの指輪」をリリース、TBS「ザ・ベストテン」にランクインした。

ジャニーズ事務所が到底かなう相手ではなかった。渡辺プロのクレイジーキャッツでも石原裕次郎を相手に相撲は取れない。各芸能事務所は頭を抱えた。もう、この時点でこの年のレコード大賞は石原プロモーションの寺尾聰で決定したと言ってよく、実際にそうなった。残るのは新人賞だ。ジャニーズ事務所は

なりふり構っていられなくなった。さらにジャニーズ事務所にとって計算外の事が起こった。いわゆるアイドル映画の分野にまで強力な敵が現れたのである。

角川春樹だった。

角川書店の本の販促に映画を利用しようと考えた角川は、「犬神家の一族」をヒットさせ、当人の言うB級映画を続々と制作して

日本映画界に旋風を巻き起こしていたが、その角川春樹が何とアイドル映画の世界にまで参入して来たのである。芸能事務所として個人的に角川春樹事務所を立ち上げ、専属女優第1号として薬師丸ひろ子をスクリーンデビューさせ、話題をさらっていた。ジャニーズ事務所の「青春グラフィティー」シリーズと

同時期に、角川春樹は「ねらわれた学園」に薬師丸ひろ子を起用、前年暮れから相手役を公募して高柳良一が選ばれ主題歌は松任谷由実が作詞作曲して歌った。
「守ってあげたい」である。ジャニーズ事務所はさきの「スニーカーぶる〜す」に引き続き東宝に出資して「ブルージーンズメモリー」の制作を依頼

し、撮影も進められたが、近藤真彦は歌手活動が多忙でスケジュールがなかなか取れない。それでも出資した以上、コケるわけには行かない。映画2本の出資は小さなものではなく、事務所を上げて成功させなければならなかった。
ジャニーズにとって幸いなことに、角川春樹は「ねらわれた学園」を東宝の配給

にした。まさに僥倖といって良かった。先の「スニーカーぶる〜す」は田原俊彦の人気で観客が動員できた。今度の「ブルージーンズメモリー」は、薬師丸ひろ子の人気にあやかる事ができるのである。夏休み公開のアイドル映画として、こうなれば角川春樹は強力な後ろ盾といえた。実際に2本立て上映の劇場

では、薬師丸ひろ子ファンが連日押し寄せ、同時上映の「ブルージーンズメモリー」の成績を上げてくれた。ジャニーズ事務所はコケることなく、「青春グラフィティー」シリーズを進めることが出来るようになった。
デビュー曲が大ヒット。
主演映画も好成績。
このふたつの文言は、けっして正確な事実で

は無かったのである。

そして問題のこの年のレコード大賞新人賞だが。

結果的には近藤真彦「スニーカーぶる〜す」の受賞となりはしたが、それはけっして近藤に実力があったわけでは無く、この年デビューした新人歌手たちが劣っていたわけでもなかった。沖田浩之はかなり肉迫していた。堤大二郎は宣伝

不足といえた。残る竹本孝之に関しては、実は真偽不明な業界内の噂があり、検証できないが、或いは事実かも知れない…。
この年、各芸能事務所からは田原俊彦に続けと、若い男性歌手が大量にデビューした。
そのうち、竹本孝之とあと二人の男性歌手は、ルックスがあまりにも近藤真彦と似通っており、

宣材写真なども、パッと見ると区別がつかないほどそっくりだった。とりあえずレコードのリリースはあったが、レコード店のポスターなどに、誰かが悪意のある落書きをした。「マッチのそっくりさん」
なかには、ポスターを破られる被害も発生した。
これらの噂は、メディアは報じなかったが、目撃したと

いう話だけはひろまっていた。
中には、近藤とは似ても似つかない沖田浩之のポスターに落書きする者が出た、という噂話まであった。
こうした被害の噂は、別にジャニーズ事務所とは関係がないのだが、一部では、事務所が関与してやらせたのではないかという怪情報もあった。近藤に似た新人たちは消えて

いった。
こうした怪情報や噂は、近藤真彦の周りにはこのあとかなり長い間、繰り返し囁かれ続けた。歌も踊りもヘタでルックスも並みなのに、事務所のチカラで主演映画を次々と公開させ、テレビ番組にも沢山出演して、コマーシャルの仕事まで…。
2年連続でレコード大賞新人賞をジャニーズ事務所が

受賞した結果、業界内にひそかな怨嗟の空気が漂うようになり、数年後には、噂は事実として語られるようになり、逆にジャニーズ事務所に対する反撥を生むようになって行った。
もしも近藤真彦に実力があったなら、こうした事はなかった筈である。
全ては近藤の身の丈に合わない栄誉が生んだ暗い空気

だったと言える。
ほかの芸能事務所は、近藤真彦とはかぶらないタイプの新人をデビューさせる方向へ進んだ。渡辺プロの吉川晃司、ヤマハ音楽のチェッカーズなどは、それぞれジャニーズ事務所の新人とはかぶらない新人として準備されていた。ジャニーズはすでに次の新人デビューに進んでおり、ドラマ

「2年B組仙八先生」に生徒役で出していた3人、薬丸裕英、布川敏和、本木雅弘のデビュー計画を進めていた。トリオのまとめ売りはかなり上手く行ったので、今度はグループでレコードデビューさせ、3人トリオで売り出す事にした。ただ、ジャニー喜多川氏がこの3人にどれくらい期待をしていたのかは不明。

トリオでデビューの方針のもと、グループ名をファン投票に委ねたのである。これまで、すべてのグループ名はジャニー喜多川氏が決めてきた。公募したのは初めてであり、しかも歌やダンスのレッスンも充分とは言えない状態の見切り発車でのデビューだった。ジャニー氏が関与したのはグループ名の最終決定

時に、シブがきトリオをシブがき隊に変更させたことだけだった。それと、曲調をジャパネスク風にすること。あとは何も注文をつけなかった。普通グループならリーダーを決めるが、それも無し。スタッフは社長の真意を推測するしかなかった。3人トリオのメンバーの選定はドラマ出演まえに済まされており

タイプの違う若者を組ませた事は一目瞭然だった。
シブがき隊は、近藤真彦の新人賞受賞という事態に何となく業界全体が白けてしまった頃に、デビューした。そして、またもや歌も満足に歌えず、振り付けも揃わない、文字通りガキのグループの登場に、周囲はいよいよ鼻白んだ。

この年はのちに「花の82年組」と呼ばれることになる女性アイドルが登場した年である。
男性アイドルは不作といわれた。
その代表が、シブがき隊ということになるが、ただでさえアイドル戦国時代のなか、レコード売り上げをあげたのはバカにできない。
喚く、叫ぶ、阿鼻叫喚の曲ばかりを連発した奇蹟の

アイドル。それがシブがき隊だった。
いま思えば、よく活躍できたものだと感心する。
80年に始まったアイドルブームも3年目、昔から歌謡界のアイドルはだいたい2年が賞味期限。事務所も最初から短期決戦で勝負をかけて、落ち目になったらだいたいエロ路線行きになるのが定番コースとなっていた。

アイドルではなく大人の女性歌手に移行するか、引退するか、結婚するか、女優目指して頑張るか、それができなきゃ脱ぐしかなかった。
過去のアイドルたちはだいたい決まった道を辿っていた。
男性アイドルの場合は、まだ定番といえる路線が確立しておらず、新御三家がそろそろアイドルを脱皮して変身

する年齢に達していた。
かれらの先輩格だった沢田研二は、まだ現役で頑張っていたが、さすがに無理な感はいなめないようになっていた。「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」は前年12月10日「ザ・ベストテン」で2位、17日も2位、24日は8位で年明け1月7日が7位、14日に9位でランクアウト。しかしジュリーは粘り、

「麗人」が2月4日に9位、11日に6位、18日も6位、25日も6位、3月4日7位、11日8位、18日9位、次の「おまえにチェックイン」が5月27日10位、6月3日5位、6月10日5位、6月17日4位、24日4位、7月1日3位、7月8日2位、7月15日2位、22日4位、29日4位。
次の「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」は10月7日と14日3位、ついで

5位、5位、6位、8位、8位、ランクアウト。前年のレコード大賞受賞式の席上で最優秀歌唱賞の感想を聞かれて「トシちゃんや聖子ちゃんと一緒の場に立って、闘いたかった」と、主催の日本作曲家協会に不満をぶつけていた言葉通りに健闘していたが、アイドルとしては流石に苦しい。

それでも郷ひろみや西城秀樹よりは長くランクインを続け、息のながい人気を印象づけていた。
この82年、田原俊彦は3年目。松田聖子も3年目だった。
どちらも、やや失速気味で田原の「グッドラックLOVE」も聖子の「白いパラソル」も苦しい順位の中2年目、レコ大新人賞の近藤は引き続き「ギンギラギン」

で上位をキープ、初めて田原俊彦を抜いた。続けて「情熱☆熱風🌒せれなーで」を一緒にランクインさせて、勢いを見せた。
それまでずっと大声で叫ぶ歌ばかりだったが

この曲は歌い出しから変えていた。
はじめて、恋人に囁きかける感じの曲調で、しかも長く、繰り返しも多く、最後はフェイドアウトする。
マッチらしさがなく、田原俊彦に寄せた印象の歌だった。

初めて田原俊彦を抜いた近藤真彦は、ここで初めてオレサマキャラを発動した。
でかい高級車を新車で購入し、本来なら同期の仲間の筈だった、たのきんトリオの野村義男を助手席に乗せて深夜のドライブ。
野村が「すげえな。このデカいクルマ、お前のモンなんだよな?」と感心してはしゃぐのを笑って眺め

「義男のやつはいつもこんな調子だ」とインタビューの中でかつての同志を子分扱い。
トップアイドル田原俊彦の下では逆らえないジャニーズ事務所の掟だが、後輩に対してなら威張れるから、この年デビューしたシブがき隊は近藤にとっては遠慮なく親分風を吹かせられる相手だった。のちにシブがき隊の

メンバーは、しょっちゅう合宿所を抜け出して遊びに出かけていた、と明かしているが、ひとつの理由として、合宿所の先輩である近藤真彦からのハラスメントから逃れたい思いがあったのかも知れない。

あくまでも個人的な感想だが、シブがき隊のこの年のレコードデビューは時期尚早だったように思われてならない。一応のレッスンもあったのかも知れないが、それにしては、プロ歌手としてレコードを売るにはあまりにもお粗末な歌唱力だと思われる。バックバンドの名前が「シブ楽器隊」というのもなにやら

投げやりな感じだし、やはり見切り発車の感が否めない。本当は、ジャニー喜多川氏は別の新人をデビューさせたいと望んでいたのではあるまいか?
そう思って当時の記憶をたどってみれば、この80年代のもうひとつの大きな流行現象に思い至った。
MNZAIブームと、そこから冗談のようにして次々とレコード

デビューを果たしていった吉本興業の人気漫才コンビたち。ザ・ぼんちやB&Bが歌を歌い、「ザ・ベストテン」にランクインして歌手と並んで歌っていた。彼らのなかで、ある芸人が「わしら、来年レコードデビューしますねん。新人賞のライバルはヨッちゃんになりますなぁ〜」と喋っていたのを思い出した。

ヨッちゃん、といえば野村義男、たのきんトリオの残る一人だ。実は野村義男は12歳のときにジャニー喜多川氏にスカウトされて事務所に出入りするようになった、田原俊彦や近藤真彦よりもジャニー喜多川氏との付き合いが古い人間で、レコードデビューの話もジャニー氏じきじきに何度も勧められていたのを

野村本人が断り続けてきていたという経緯があった。田原や近藤はデビューを希望しそれがかなうと大喜びしたが、野村は頑なにそれを拒んでいたのである。
野村義男の将来の夢はプロのギタリストで、志向する音楽はロック。歌謡曲にもアイドルソングにも関心が薄かった。尊敬するギタリストはcharge。

ジャニー喜多川氏からたのきんトリオの3人を順番にデビューさせてかつての新御三家の再来を世間にみとめさせ、ジャニーズ事務所単独で男性アイドル界のトップを独占する、という将来像を提示されても、野村は全く興味を示さなかった。本来、芸能事務所社長からレコードデビューを勧められて断り続ける

所属タレントなどありえないし、もしそんな事をすれば事務所から追い出されても仕方のない話である。ところが、ジャニー氏は野村に甘く、彼の意見を尊重しつつ説得し続けていた。ついに野村も折れて「バンド形式を取り自分がメインボーカルじゃなく、ツインボーカルという条件でなら」デビューしていい

という条件を提示、ジャニー氏はその条件を飲み、急遽、野村のデビューのためのバンドが作られる事となった。The Good-Byeである。メンバー全員が野村義男より歳上、ステージやスタジオでの楽器演奏経験もある面々だった。

当初このバンドはヨッちゃんバンドと呼ばれていたが野村義男&The Good-byeに変わり、バンド活動を開始。メンバーが曲を作り演奏する本格的なバンドだった。いつでもデビューできるところまで来たときには、しかし既に81年が終わり、82年も終わろうとしていた。
野村義男が忙し過ぎたのである。

田原俊彦、近藤真彦と一緒にやる「たのきん全力投球」はもちろん、映画「青春グラフィティー」シリーズにも出演、82年はNHK大河ドラマ「峠の群像」に出演、主演ドラマもあり主演映画もあった。アイドルとして歌手デビューはしていなかったが、ジャニーズ事務所所属タレントとしての仕事が途切れること

なく次々と舞い込み、バンド活動に集中できず、野村はレコードデビューを先延ばしにしていた。事務所的には、新人歌手のデビューをとぎらせたくなく、レコ大新人賞も連続で確保したい。そこで、シブがき隊のデビューが先になってしまったのではなかったのか?
証拠のない想像だが、この時期の事務所の

動きを考えると案外当たっていそうな気がする。
たのきんトリオは、ジャニーズ事務所にとって、特別な存在だったのではなかったか?

さて、野村義男のデビューした83年から時間軸を82年に戻す。
「花の82年組」とのちに呼ばれた新人アイドルが続々とデビューしたこの年。ジャニーズ事務所は見切り発車のシブがき隊で新人賞レースに参加していた。シブがき隊は若さと勢いだけは負けてなかった。
実際それしか武器がないため騒がしく歌う

しかなかったが、それが案外ウケた。3人組男性ユニットで、めまぐるしく交代しながら歌う。遊園地のアトラクションのようだった。歌謡界全体から見れば奇をてらった一発屋、企画モノの歌手というカテゴリーに入るグループで、ともかく売れればいい、という娯楽色重視のシャレ、キワモノと見て良かった

が、ジャニーズ的には本道からはずれた脇道を後先考えずに暴走しているようなところがあった。前年までの入念な準備やテレビ局、雑誌メディアに対する注意深い根回しも忘れてしまったかのようなジャニーズの姿に、ほかの事務所は唖然てし、また、チャンスと見た。

新人賞を狙うなら、いましかない。
どの芸能事務所も、売り出す新人タレント候補を抱えている。ジャニーズ事務所が、とんだポンコツをデビューさせ、今年はこれ一組で勝負すると決めている様子であれば、こんな好機はない。82年にたっぷりと経費をかけた新人が固まった訳は、ジャニーズがシブがき隊で

この年の賞レースを降りたように見えた為だとも言えた。
そして、この年、業界ではほとんど実績のない研音という、1979年に研究出版(日本船舶振興会の系列会社)から独立した新興事務所から、1人の少女がデビューした。

のちに昭和の歌姫と呼ばれることになる

中森明菜

である。

中森明菜のデビューについては、これまで何冊も本が出ているし、そもそもこの呟きはジャニーズ事務所関連に絞って呟いているので、中森明菜について呟く義理はないのだが、ジャニーズ帝国、近藤真彦、というワードから考えれば、ここで中森明菜の芸能界デビューについて触れておく必要があるだろう。

中森明菜の芸能界入りのきっかけは、日本テレビの「スター誕生」である。
よく知られている事だが、決勝大会で2回落とされていた。3回目で合格し、あとは事務所が「ウチからデビューさせたい」と社名札を上げれば所属が決まる。それまでに、歌のレッスンを日本テレビの系列会社が引き受けてくれる、

中森明菜は、通っていた女子高を自主退学した。レッスンにひたすら集中し、11月の事務所オーディションにそなえた。研音に決まると、あとは早かった。デビュー曲を決める試験盤作りのために10曲前後録音し、プロのスタッフが3曲に候補をしぼり、最終的に「スローモーション」がシングル曲と決まった。

箔をつける為にロスに飛んで、そこでデビュー曲の作成を行った事にして話題を集めようとしたが、研音自体に注目していた芸能ジャーナリストがいなかった為に、デビュー曲をいきなりロスで!という芝居は無駄に終わった。無駄といえば、不慣れな事務所は明菜に「森アスナ」という芸名を用意していた。

しかし、明菜はそれを拒否して本名でのデビューを望んだ。新人アイドルを育てた経験のないスタッフは明菜の主張にしたがった。
まだ、デビュー前の少女の主張に周囲の大人たちが従ったのは、研音が時代性にうとく、アイドル育成にまだ自信を持ってなかった為で、「スローモーション」をデビュー曲に

決めた理由も、その曲が作詞来生えつこ、作曲来生たかおという、この時に「セーラー服と機関銃」をヒットさせていた二人だったからだった。あとは、さまざまな作詞家作曲家の曲がまざったごった煮状態。それがファーストアルバムになる【プロローグ】だった。

「花の82年組」の中では、中森明菜はもっとも遅いデビューになった。
松本伊代は前年の10月、小泉今日子は82年3月、三田寛子も同じ日。早見優は4月、石川秀美も同じ日。
中森明菜は5月、シブがき隊と一緒だった。

新人のレコードデビューといえば、ジャンルは違ったが、角川春樹事務所の女優・薬師丸ひろ子もまた「セーラー服と機関銃」で映画主題歌を歌いデビューしていた。しかし、彼女を花の82年組に含める者はいない。すでに主演映画を大ヒットさせる実力派女優である薬師丸ひろ子はほかのアイドルとは別の存在

だった。角川春樹は、アイドルを超えるアイドルだと言った。本屋のオヤジは言う事がややこしい。それでも、新人アイドルの賞レースに参加しない意向を明らかにしたためほかの芸能事務所は胸をなでおろした。それは、ジャニーズ事務所も同じだっただろう。
薬師丸ひろ子は、ある意味、松田聖子を超える

人気をもつ存在だった。アイドル歌手ではないために直接張り合う機会はなかったが、例えば薬師丸ひろ子の土俵である映画の成績で較べるとしたら、松田聖子は惨敗するしかない。聖子の主演映画は「野菊の墓」があったが、角川映画のひろ子主演映画とでは比較にならない成績に終わっていた。もしひろ子が

この年の新人賞レースに参加を表明していたとすれば、前年の石原プロモーションの寺尾聰が大賞をかっさらったのと同じ事が起きたかも知れない。薬師丸ひろ子はあくまでも女優であった為に、角川春樹はレコード売り上げなどにこだわらず、レコード大賞にも興味を示さなかったのである。

中森明菜に話を戻せば、「スローモーション」は13万枚売れて、そこそこのヒットを記録したが、まだまだ世間の注目を集めるまでには至らなかった。

中森明菜の「ザ・ベストテン」初ランクインは、セカンドシングルの「少女A」だった。同じ5月デビューのシブがき隊「NAI NAI 16」が5月20日初登場9位で27日4位に上昇していたのと較べると、新人賞レースは序盤から大差をつけられていた事がわかる。

先輩アイドルの松田聖子は「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」「野ばらのエチュード」の4曲ともヒットして、「ザ・ベストテン」常連の座にあり、これを河合奈保子と柏原よしえが追いかけつつも追いつけない展開、といった感じ。女性アイドル界隈は相変わらず聖子の一人勝ち

状態だった。
不動のトップアイドル松田聖子。
3年目もその座をおびやかす者はあわられなかった。
ライバルのいない世界で松田聖子は歌い続け、俗にいわれていた「アイドルは2〜3年」説を覆して走り続けていた。
多忙な中で毎日歌い続けていたせいで透き通った高音が出にくくなり、歌声に変化が見え

翌年以降、曲調を変えることになるのだが、ジャニーズ事務所とは関係ないので深くは追及しない。

さて、近藤真彦が本格的に(前年のレコ大新人賞とってから)活躍期に入る82年83年。社会が大きな変化をむかえた。
カラオケ産業の登場と、もうひとつは(出版メディアの中でのゲリラとしての)写真週刊誌の登場だ。
芸能界は、このふたつの登場でそれまでとは違う状況に立ち向かわねばならなくなる。

飲み屋(スナック)や旅館・宴会場でのカラオケ機器は、懐メロ、演歌が主流で、アイドルの新曲は当初その中には入ってなかったが、83年あたりを境に徐々に沢田研二、新御三家の曲も入るようになり、飲み屋のカラオケにも若い歌手の曲がチラホラしはじめた。

ジャニーズの田原俊彦、近藤真彦の曲もカラオケのテープの新しい物の中に含まれるようになり、会社の宴会で新入社員がマイクを持ってトシちゃん、マッチの曲を上司の前で歌わせられる姿が見られるようになった。

別にアイドル好きでもないが、会社の行事だから歌うしかない、そんな男性社員らが、仕方なくアイドルのレコードを買う。カラオケを練習する。そうした現象が生まれ、若い女性に限らず、ジャニーズのレコードを購入する一般社会人が出てきた。また、カラオケは歌うことが好きなひとびとに、歌謡曲をより

身近なものにし、素人でもプロ並みに上手に歌う技術を獲得する、便利な道具として生活の中に定着するようになっていった。
80年代後半、流行歌は、カラオケで歌いやすい曲、歌って気持ちいい曲へと徐々に移行しはじめた。
アイドルソングも、売れる曲はカラオケで人気の曲に変わって行ったのである。

これが、田原俊彦の曲と、近藤真彦の曲との間に、大きな影響を及ぼした。83年、84年と、両者の曲の売れ方が次第に変化し始め、近藤真彦の曲は男性からの支持を集めるようになり、鉄板アイドル調の田原俊彦の曲は男性がカラオケであまり選曲しない、やや恥ずかしい曲という具合になった。この時期、

確かに、一時的に、近藤真彦はその人気で田原俊彦を抜いた。
カッコよく歌える。歌っていて気持ちがいい。
自己陶酔しやすい曲。
それがこの時期の近藤真彦の曲だった。
文字通り、彼の持ち歌はカラオケ時代にマッチしたのである。

ジャニーズ事務所だけに限らなかった。歌謡界のすべてのジャンルの曲が、カラオケの社会進出でそれまでと状況を一変させた。
プロにしか上手く歌えない曲よりも、誰でも歌え、歌って気持ちよくなれる曲に人気が集まった。
女性アイドルの曲も同じく、男性ファンがアイドルを応援すべくレコードを買う

のではなく、カラオケで仲間うちで拍手されやすい、共感を呼ぶ曲が売れる曲に変わった。
同性ファンを獲得した者がトップの座につく、そうした変化が見られるようになった。
中森明菜は、カラオケの普及と同時に売り上げを伸ばしていったアイドルだった。

明菜の「少女A」が10位となった82年11月25日の次の週、12月2日、サードシングル「セカンド・ラブ」が初登場6位で「ザ・ベストテン」にランクイン。翌週には2位に上昇し、12月16日についに1位となった。中森明菜が小学6年生の時に放送開始したTBS「ザ・ベストテン」。
明菜にとって、この日は歌手になっ

て以来、最高の記念日となった。そして、「セカンド・ラブ」は、そのまま1位を独走して、年をまたいで83年2月3日まで8週連続という記録を打ち立てた。
その記録をストップさせたのが、近藤真彦の「ミッドナイト・ステーション」だった。
カラオケの普及が、売れる曲、支持される曲を変えたまぎれもない

証拠である。
華やかな虚構、夢の世界の存在という、従来のアイドル像だけでは、売れない時代が始まった。

あとひとつの写真週刊誌について言えば、この83年、テレビドラマ「積み木崩し」に主演していた、高部知子の「ベッドでタバコを手にして笑っている写真」が掲載され、それまで萩本欽一ファミリーとしてお茶の間の人気者だったアイドルユニット「わらべ」で清純派キャラだった高部は世間のバッシングを

浴びて活動を自粛する騒ぎがあった。レコードデビューも果たし「ザ・ベストテン」にも出演していた高部知子は「積み木崩し」の主人公のイメージそのままに、マスコミの攻撃を受けてその芸能人生を狂わせてしまった。この写真事件は「わらべ」のデビュー曲「めだかの兄妹」の歌詞をもじって「にゃんにゃ

ん事件」と呼ばれた。ベッドで「ニャンニャンする」という慣用句まで生まれ、世間一般の高校生女子に対するイメージの中にそれが加わった。写真週刊誌「Focus」の一枚の写真がさまざまな余波を派生させた。アイドルを抱えた芸能事務所は、どこも戦々恐々となった。
この当時、未成年者の喫煙は暗黙の

了解で、どの事務所もそれが法律に違反する事を知りながら、放置していた。
20歳まえの若者の喫煙は別に当たり前だというのが社会の本音だったが、ひとたびメディアに取り上げられれば大問題に発展する。建前上、アイドルは飲酒も喫煙もしない事になっており、20歳になったら、「今日からOK」解禁です

となるのが、白々しいと言うほかないが現実だった。アイドルは、ベッドでタバコなど吸わない、「本音」はあえて聞く側も追及しない、それがこの当時の常識だった。
ところが、「タバコくらいなら、吸ったことあります」と答えるアイドルがあらわれる。

小泉今日子である。

中森明菜と同様、自らのアイドルキャラを作り上げることにこだわったアイドルで、そのセルフプロデュース能力が世間一般の若い男女から評価された。
中森明菜も小泉今日子も「本音」で勝負したアイドルだった。そこが、80年代初期のアイドルの代名詞となっていた松田聖子との違い

を打ち出して新鮮だった。
松田聖子は虚構のアイドルを実演する天才だったが、彼女の本音は誰にも想像がつかなかった。芸名・松田聖子を名乗る、蒲池法子は決して本当の本音を明かさない。発言はアイドル聖子のパッケージに収まりキレイにラッピングされていた。

もちろん、中森明菜も小泉今日子も、あくまでもメディアに向けてセルフプロデュースしたうえで「本音」を発信するアイドルだったが、ほかの、たとえば松本伊代や早見優とは違う、より実物に近い(と思わせる)発信をすることで、斬新さを見せていた。

そう、アイドルとしてのパフォーマンスは見せるもので、勝手に見られるものではなかった。
写真週刊誌は、その、盗撮を取材と称して記事にする媒体だった。
アイドルの本当の姿を世間に晒すのが使命であるかのようにして、彼らは連日、アイドルを追いかけていた。

ジャニーズ事務所に話を戻せば、所属タレントは全員狙われていた。
まだ芸能事務所は、出版業界に圧力をかけられるほどチカラがなく、この時期の唯一の例外は、出版業界から芸能事務所を興した角川の所属タレントたちくらいのものだった。

84年。
TBSのレコード大賞新人賞はThe-Goodbyeが獲得した。ジャニーズ事務所の4連覇達成だが、ジャニーズファン以外、これに歓喜する者はいなかった。
The-Goodbyeはランキング形式の歌番組で一度もランクインしておらず、かろうじて20位以内に入った週に番組内の「今週のスポットライト」コーナーに

招待されて出演しただけだった。通常、このコーナーに呼ばれた歌手は、その後、リクエストが増えて10位以内に上がり、そこからランクアップして人気歌手の仲間入りを果たすのが決まり事のようになっていたが、The-Goodbyeだけはそうならなかった。
ただし、別の局のランキング番組では一応ランクインし

ラジオ番組でもリクエストされていた。
このチグハグ感のままにレコード大賞新人賞が授与され、前年のシブがき隊同様、ジャニーズ事務所が新人賞を独占している、との批判を生んだ。

それでも、おそらくジャニー喜多川氏はこれで一段落と、ホッとしただろう。
たのきんトリオは、これで全員新人賞をとれたのである。
ジャニーズ事務所本来の夢に立ち返る、いい時期だと思ったのではないだろうか?

この頃すでにジャニーズ事務所にはデビューを待ちわびるJr集団が常時20〜30人待機していた。
それら少年たちの中から、日本発の、世界に通用するミュージカルショーを成功させるスターメンバーを厳選すれば、ジャニー喜多川氏の積年の夢がかなうのである。

ジャニー喜多川氏は1931年生まれで84年は53歳。
芸能プロモーターとして、既に名声も手にし、社長を務める事務所も成功している。夢の実現に本格的に着手する時が来たと考えていたに違いない。そして、Jrのなかの数人に目星をつけた。最初に選んだのが、錦織一清だった。

さて、ここから少年隊の話を呟く訳だが、実を言えば、ジャニーズ事務所と少年隊は、あまりにも強く結びついている為に、この呟きの全体の主旨に繋がるあらゆる部分と不可分になってしまう可能性があるのである。どういう事かと言えば、ジャニー喜多川氏の芸能プロモーターとしての後半生に常に形影と

なって寄り添い続けたグループは、こののちに出てくる光GENJI、男闘呼組、NINJA、SMAP、V6、KinKi Kids、嵐などのグループではなく、少年隊ただひとグループだけだったのだと、個人的には考えているのである。←あくまでも個人の感想です。

そこで、少年隊について呟けば、プロデュースしたジャニー喜多川氏の事を呟くのと同じ事になるし、北公次氏の暴露本と、そのあとのメディアが触れなかった一般社会の動きの変化、ジャニーズ事務所に対する偏見、または、同性愛者に対する差別意識、芸能ジャーナリズムによる忖度とテレビ局の対応など、

いろいろ、複雑な問題にまで話が進んでしまう。少年隊は、ジャニー喜多川氏とほとんど一心同体になって35年を過ごすグループなのである。

←し、って何😱?
びっくりした。
スマホがフリーズした。

気を取り直して、続けたい。
筆者は、実は、梶原一騎ファン。「愛と誠」が大好きで、ブルース・リーの大ファンでもある。
ジャニーズに無関係かと思うなかれ。
錦織一清は、筆者と全く嗜好が同じなのである。だからこそ、呟きにくい。
これまでのように、つまり、たのきんトリオやシブがき隊のように

突き離して呟くのが、その嗜好傾向がわかるだけに難しい。おまけに、つかこうへいのファンでもあり、大変に、具合が悪い。
そこで、やや、軽めに呟くことにしたい。
逃げてる訳ではありませんので念の為。

さて、前回の呟きからまる一日たって、その間にこの長い呟きの柱に目を止めて下さった方々の中に、何人も錦織一清のファンを公表されている方がおられるのに気がついた。大変、恐縮している。筆者(筆使ってませんが)は、アイドルに詳しくない唯のジジィに過ぎず、この呟きも、先週たまたま「週刊誌」

の記事を読んで、
「これは違うだろう?」
と思った事がキッカケで、もののはずみから呟き始めただけであり、だからかなりの思い込みに満ちた内容になってしまっている。
少年隊を長年応援なさって来られた方々に対して失礼な事を綴ってしまうかも知れない。それで、逡巡してしまっていたのである。

まあ、このツイート全体がジャニーズ事務所に対してかなり失礼な内容なのは、確かなのだが、ジャニーズ事務所は田舎のジジィの呟きなど気にする筈もないので、そっちはどうでもいい。
さて、少年隊について。

彼らが「仮面舞踏会」をリリースしてレコードデビューする前、あるラジオ番組に宣伝もかねてゲスト出演した事があった。当時、たまたまそれを聴いていて、このグループは面白そうだ、と思った。
錦織一清が、
「僕らは、フォーリーブスからつながっています」
と発言していたのだ。
たのきんトリオから

ではない。
すでに7年前に解散していた過去のジャニーズ事務所の所属グループの名前をあげて、少年隊は、その系譜を継いでいると明言したのだ。
もちろん、デビュー前の宣伝だから、事務所の営業戦略にそった言葉には違いなく、錦織個人の意見ではなかっただろうが、先にデビューしていたたのきんも

シブがき隊もあえてすっ飛ばし、フォーリーブスと言ったのが印象的だった。
ジャニーズのファンに向けた、事務所がわからのメッセージとも受け取れた。
もしそうなら、ちょっと面白い。

どんな曲でデビューするのだろう。当時、近藤真彦の曲ばかり主にチェックしていたから、興味を持った。
因みに、テレビの歌番組はあまり観ていなかったので、実際にテレビで「仮面舞踏会」を観たのは、デビューからだいぶ経っていた。
凄い、と思った。

曲の間じゅう、激しいダンスパフォーマンスを続け、それでいながら歌は途切れない。現在、ダンスパフォーマンスと歌でファンを増やすグループは沢山あるが、それらはダンスパフォーマンスするメンバーと歌のメンバーを分けている。
そうしなければ、どちらかがクオリティーを下げる為だろうが、昭和の

この時代に、ほとんど全力疾走に近い激しい運動量とアクロバティックなダンスを融合させた三位一体の振り付けに、それに負けない声量の力強い歌、3人の各ソロパートも音程ははずさず(シブがき隊は、常にハズレていた)、きっちりと歌い上げていたのである。
しかも、歌い終わっても息があがってない。

生身の人間が簡単にできる事ではない、と思った。
それと同時に、これはほかの事務所のタレントとジャニーズ事務所との差別化を図ったな、と思った。ここまでのクオリティーのダンスパフォーマンスを平然とやってのけるタレントをジャニーズは抱えている、と世に知らしめる、そうした思惑も伺えた。

すでにこの時期、路上パフォーマンスで注目された一世風靡セピアが人気で、柳葉敏郎、哀川翔の2人はバラエティー番組にも起用され、男性ばかりのグループとして大きくなりつつあった。かつて、横浜銀蝿の事務所が次々とタレントを輩出して、歌番組を席巻した事があったが、一世風靡もその路線を進む

気配を見せていた。ジャニーズ事務所にとっては、明確な敵になりうる。
しかし、ジャニーズ事務所のダンスレッスンは、プロの中のプロが担当している。路上ダンスパフォーマーたちとの違いは、見る者が見れば歴然としている。そこの差をはっきりさせるべく、少年隊の曲のダンスは難易度の高い、それだ

けに、見る者を魅了する力を持っていた。
こう来たか、と思った。
これぞジャニーズである。
バク転は挨拶がわり。
バク宙、側転、片手バク転、連続バク転、さながらサーカスの軽業師ででもあるかのように跳ね回り、そして歌う。これが舞台劇なら、大変なショーになるだろう。
まさしく、ジャニーズ。

少年隊の活躍に感化されてジャニーズ事務所に入りたがる少年たちの間には、ある都市伝説があった。ジャニーズ事務所の面接には、バク転のテストが存在する。というものだが、これは事実ではなかった。
近藤真彦は、バク転ができない←と、されていたが、真偽は不明。ただ、少年隊がマッチにバク転の

特訓指導を施した、という話もある。ジャニーズの看板タレントがバク転できないのは恥ずかしい為、ジャニー喜多川氏が命じた、との噂があったのだが、これも本当かどうか。但し、ハリウッド映画「フラッシュダンス」のヒットと、グラミー賞各部門をマイケル・ジャクソンが独占し、「スリラー」のMVが

空前のセールスを記録、MV制作販売が、家庭用ビデオの普及とともに伸び始めたミュージック界で、優れたダンスパフォーマンスを演じる事ができるアーティストこそ、今後の芸能界を牽引してゆく新しいスターとなるだろう事ははっきりしていた。

このツイートの主旨に戻れば、この時期の近藤真彦は、ある種の懐古的な世界をその曲に持ち込んで支持されていた。それは、60年代の男のドラマを基調とした、日活無国籍映画の中の世界だった。
元々、デビュー曲「スニーカーぶる〜す」B面「本牧ラット」から60年代の不良少年を想起させる曲で、その路線

の延長線上に、大人になったワルが息づく、80年代に存在しない外国の空気をはらんだ男のドラマを曲にしていた。明らかな時代遅れだが、それが狙いだったようだ。マッチもまた、ほかのタレントとの差別化を図っていたのである。

これはしかし、ジャニーズ事務所、ジャニー喜多川の世界とは異質なものと言えた。さらに、近藤はこの時期から、カーレーサーに挑戦を開始。これも、事務所の本道から逸脱した世界だった。日産自動車のMARCHのCM起用から近藤はプロドライバー志向を明らかにし始め、芸能人の道楽と見做された本物のカー

レース参加を表明。「参加する以上、優勝を目指します」とコメントした。
結果は、レース途中のリタイヤ。失格に終わった。
プロのレーシングドライバーにはなかなかなれない。
それでも近藤は意地になってレーザーの道を目指した。収入の大半をレース関係に回すようになり、アイドル歌手としての道か

ら逸れ続けていた。
ジャニーズ事務所に貢献する所属タレントとしての評価を下せば、これは低い評価しか下しようがない。レースでかりに好成績をあげても、ジャニーズ事務所には「マッチがレースで善戦!」程度の宣伝効果しか期待できない。それは事務所の収益に結びつかない。
さらには、近藤真彦には

この頃、芸能界での女性歌手との密かな交際の噂が囁かれはじめていた。
これも、女性ファンの維持に大きなマイナスになりかねない話だった。
しかも、噂の相手は女性アイドル歌手の中でも群を抜く人気を持つ有名な存在だった。
中森明菜である。

令和2年の現在、近藤真彦と中森明菜の交際について呟くのはあまりにも残酷かつ時代錯誤な事だ。だれも得をする者のない話題であり、できれば触れないほうがいい。しかし、この呟き全体の主旨に沿うならば、これは避けて通るわけには行かない。この出来事のあと、ジャニーズ事務所は明らかに好感度を

下げてしまったからである。
一人の所属タレントを護る為に事務所が払った代償はかなり大きなものだった。

1989年12月31日午後10時、芸能マスコミはNHK紅白歌合戦の生放送の真っ只中に催されたジャニーズ事務所主催の緊急記者会見に集められた。
主催者は会見場に金屏風を立て、慶祝ムードを演出。
この会見は、この残酷な演出効果のために、のちに金屏風会見と呼ばれることになった。

この会見の最高瞬間視聴率は19.7%。
裏番組の紅白の平均視聴率が史上はじめて50%を割り47%となった回だった。
テレビ視聴者は、ジャニーズ事務所が仕掛けたグロテスクなショーに一定の興味を示したのである。
ショーの中身については、できれば触れたくない。
新聞各紙が休みに入るこの日に設定した

ジャニーズ事務所の敏腕副社長・メリー喜多川さんの思惑が透けて見えるこの金屏風会見の構成の悍しさに関しても、すでにこれまでさんざん書かれてきており、それを繰り返す気はない。はっきり言えるのは、近藤真彦は、この会見以降、ジャニーズ事務所から易易と独立できなくなったという事だけだ。

事務所を離れれば、世間の風をまともに受ける事になる。芸能人として生活する為には、この先ずっとジャニーズ事務所に所属し続けるしかないと、このとき決意を固めるしかなかったはずである。
タレントとして無傷で済む話ではなかった。それだけはハッキリしていた。

因みに、このときの紅白歌合戦、白組司会は武田鉄矢、「3年B組金八先生」であり、この回、歌手としてドラマの主題歌「声援」を歌った。
ジャニーズ事務所からの出場歌手は、3組。
少年隊、光GENJI、男闘呼組だった。
田原俊彦は、紅白出場を断っていた。
また、紅組の中に松田聖子もいなかった。

どうしても金屏風会見について考えていると、気持ちが沈む。
おもいきって、風呂敷を広げます。
日本の芸能界の、悪いクセについて。
ジャニーズ事務所、ジャニー喜多川氏に無関係じゃないので、やや牽強付会気味ながら。
有名人同士の交際と結婚について。ひとつの成功パターンとされた山口百恵さんと

三浦友和さんとの場合をザッと書きます。

ふたりの最初の共演はグリコのプリッツのCMで、制作監督は大林宣彦。
その後、映画「伊豆の踊子」になりますが、映画化発表時、相手役は公募とされてました。1万5千人の応募があったそうですが、公募すると決まるまえまでは郷ひろみが候補になっていたそうです。結局スケジュールの都合で郷ひろみは

無理だとなりましたが、後年、郷は「歌番組で一緒になった時、彼女に電話番号のメモを渡そうとしたら断られたんです」と明かし、相手にされてなかった事を公表しています。ですから、もし仮に「伊豆の踊子」で共演していたとしても、2人の交際は無かった筈です。
公募の結果、東大2年の男子が残りまし

たが、この映画の監督・西河克己が駄目出しして振り出しに戻ります。
…ですます調に飽きたので、断定調に変える事にする。
監督の西河は、グリコのCMで共演している三浦友和に目をとめて面接して相手役に決めた。これが2人のはじめての映画共演となる。続いてTBSドラマ「赤い疑惑」でドラマ初共演。

この大映ドラマシリーズは、第一作が「赤い迷路」で、宇津井健を父親役として共演、第二作が「赤い疑惑」。次が「赤い運命」、第4作目の「赤い衝撃」でまた三浦友和と共演、最後の「赤い絆」では国広富之と共演した。
映画「伊豆の踊子」はいきなり大ヒットした。東宝とホリプロは「野菊の墓」を提案

したが、東宝が駄目出しした。「相手役は三浦友和じゃないと作らない」という。この時、東宝には三浦宛のファンレターが殺到して社員たちを驚かせていた。百恵宛のファンレターも届いていたが、三浦のよりかなり少なかったため、東宝は、「伊豆の踊子」のヒットを三浦の人気によるものだと誤解していた

のだ。実は百恵宛のファンレターはホリプロに届いていた。東宝はホリプロのアイドルより三浦が当たったと信じて、「野菊の墓」だと年齢的に合わないから駄目だと言ったのである。そこで三島由紀夫の「潮騒」になった。監督は引き続き西河克己が務めた。

なぜ、山口百恵・三浦友和の話を書いているかといえば、このレアケースを芸能界もマスコミも定番の人気コースに見立てて、以後、若い芸能人のカップルが出来るたびに、このケースを意識的になぞらせようとし始めたからだ。
全く創意工夫の無い、儲け主義に占領された考え方だった。
山口百恵は、引退

コンサートも成功したし、最後の歌番組出演も高い視聴率をテレビ局に齎した。結婚前に書いた本は200万部のベストセラーになり、引退後もCDは売れ続けている。このパターンを後続のタレントたちに踏襲して欲しがった。
そのために、幾多の悲喜劇が巻き起こったのである。

最大の悲喜劇は、郷ひろみと松田聖子のケースだった。
かつての男性トップアイドルと現役女性トップアイドルが結婚を前提に真剣に交際している。
80年代なかば、芸能界は誰もがそう信じていた。
言い出しっぺは、芸能リポーターだったが、松田聖子が否定せず、黙秘を貫いた事から、信憑性が増した。

当時、1984年、郷ひろみはランキング番組からの撤退を表明し、かつてのトップアイドルの誇りを守ろうとしていた。めまぐるしく移り変わるランキングに、疲れ果ててしまっていた。後輩アイドルたちと競い合うよりも独自の路線を追及するほうが、カッコよく映るという計算もあっただろう。その立場に立ち

女性トップの聖子と結婚する。郷ひろみはそうなるものと信じていた。
山口百恵からはフラレたが、松田聖子なら、デビュー前から自分のファンだと公言しているのだから、きっとうまく行く。百恵と結婚した三浦友和は好感度の高い俳優になっている。自分もそうなるに違いない。

これは郷ひろみ一人が考えていた訳ではなかった。
80年代のアイドルの世界は、70年代と較べてその浮き沈みが激しく、先が見えにくい状態だった。アイドルとしてある程度の稼ぎを得たら、安定した道を選んだほうが得をする。百恵さんのようになれば大成功だ。