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「一か月もしないうちに、自分は死...」、@iwao0606 さんからのスレッド

一か月もしないうちに、自分は死ぬ。そう昔の同級生に言われた。やつは、高校時代、やたら豪華な弁当を分けてくれるやつだった。貧乏生活の自分にはその弁当は貴重な食料で、やっぱり金持ちは違うなと思っていた。

家族が作ったものだから、食べたくないんだよという昔の同級生の気持ちなんてものは、自分にはわからなかった。やつからお弁当を分けてもらって、早10年。高校を卒業してから、一切連絡はなかった。とりたてて仲がいいわけでもなかったので、突然の呼び出しに面食らった。

「結婚してほしいんだ」とやつは言ってきた。今まで自分が築き上げてきた財産を、家族に渡したくないらしい。全額どこかに寄付することも考えたが、家族の鼻を明かすには、いまいちだと考えたそうだ。そこで白羽の矢が立ったのが、私だ。相変わらず貧乏だろうと思ったらしい。ご明察だ。

一か月だけの婚姻生活で、大金が手に入る。いい話じゃないかとやつは言ってきた。「なんで私なんだ?」と訊ねると、「誰がいいのかと考えていた時、お前のアホ面が浮かんだ。俺の弁当を食べていたときのお前の」と言う。一飯以上の恩はある。義理堅い私は、結婚をのむことにした。

新婚生活ともなるので、一軒家を買った。やつの金だ。古い物件だったが、縁側が気持ちよかったため、即決した。そこへやつも越してきた。自宅で終わりを迎えたいと言う。新婚なのに別々で暮らすのも変だと思い、やつと暮らした。それなりに大変だったけど、まあ、楽しかった。

あいつ、一か月もしないうちに死ぬとか言ったくせに三か月も生きやがった。やつのほうもそれなりに楽しかったんだろう。それはよかったと思う。私はやつのために静かな葬式をあげた。参列者は、やつの顧問弁護士だけだった。やつの友達でもあったらしい。あいつ、友達いたんだな。

今後一切の手続きは、顧問弁護士がやるらしい。徹底してるなと思った。そこまで家族が嫌いなんて。まあ、私には関係ないことだ。やつが私に見せたくなかった側面だ。最後まで楽しくしたい。やつは口にしなかったけど、それを望んでいた。

やつが私を選んだのは、最後であっけらかんと図太くやれる人間と踏んだからだろう。ま、実際その通りなんだが。結婚生活も葬式も終わったから、これからは存分に寝るぞと思った矢先。家にはやつがいた。ただし今度は足が生えてない状態で。結婚生活は延長となった。

世間体的には未亡人なんだけど、やつが家にいるもんで、あんまりそう言う感じはしない。「とりあえず、ご飯にしょっか」と幽霊になった夫に言う。チャチャっと炒飯を作る。出来上がったものを、やつのために少しお茶碗によそう。すると、やつはおいしそうに食べる。

病気の間食べられなかったものが多かったから、炒飯のような少しジャンクで塩っけのあるものはうれしいらしい。幽霊って食べれるし、味もわかるんだなとぼんやり思った。「じゃあ存分に食べな。あんたが成仏するまで、美味しいもん作ってあげるよ」と言うと、妻の手料理はうれしいなとやつは笑った。

「最後の晩餐じゃなかった…人生終わって、初めての夕飯はなにがいい?」とやつに聞く。「カレーがいい」と言うので、作ってやることにした。味噌でコクを出した豚コマのカレー。出汁も入ってるから、翌日にカレーうどんにしてもおいしい。しかしやつは怪訝そうな顔をしている。

「なんで牛じゃないんだ? こう塊で入ってるもんだろ?」このボンボンが! 我が家は豚コマ一択! 異論は認めません! 育ちにおける経済格差を感じるが、そもそもわかりきっていたことだ。妻が作ってくれた食事を口にしないのも悪いなと思ったのだろう。やつは頬張った。

「これも悪くないな」とやつは笑った。そしてもりもりと食べていく。「明日の朝はカレーうどんだから、楽しみにしてな!」と言うと、「ああ、そうする」とやつは頷く。明日も生きてるかって怯えなくていいのは、なんだか心休まるもんだなと思った。

「そういえば、CoCo壱とか行ったことある?」と訊ねてみると、「ないな」と返された。だろうな。吉野家とかすき家とかないはずだ。さすがボンボン。生きてる次元が違うぜ。あ、もう死んでるんだっけ。

こんなボンボンな夫と私がなぜ同じ高校に通っていたか。疑問に思う人はいるだろうと思うけど、単に偏差値の高い公立高校をお互い選んでいっただけの話だ。私の場合、中学までは勉強はできたのだ。高校に行ってから、全然ダメだったけど。ま、バイトに明け暮れていたと言うのもある。

一方、やつは学費と偏差値が馬鹿みたいに高い中学に通ってたという。エスカレーターで大学まで行けるのに、わざわざ出た変わり種だ。ハイソすぎる雰囲気のせいで近寄りがたく、教室ではボッチ飯をしてた。ま、すぐに私がお弁当をたかることになるから、ほんの短い間の話だったけど。

まさか10年後、結婚してるとは。高校時代と比べだら、やつも老けたよなと幽霊になったやつの顔を見る。生前の頃よりは頬がふっくらしていて、健康そうだ。死んだ方が健康的とは、これはいかに。「今、お前失礼なことを考えただろ」相変わらず鋭いな。お前はわかりやすすぎると返された。

一応は未亡人なので、やつのものを処分することにした。あらかじめ、やつのほうでも、だいぶ荷物を減らしていたとは言え、細々としたものが溜まる。時折本人に確認しながら、捨てていく。全部捨てていいとは言われたけどなんとなく忍びなく、いくらか残すことにした。

なにしろやつは幽霊として、まだここにいるのだ。すべてのものを処分したら、つながりのようなものまで断ち切ってしまうような気がして、少し怖かったのだ。やつはまだ食べるので、お茶碗とお箸は残しておくことにした。スーツや腕時計も残しておくことにした。成仏するときに、一張羅がいるだろうし。

逆に病気で苦しんでいたときに使ったパジャマとかはすべて処分した。闘病のときの痛みを思い出して、やつの成仏が遠のいたら困る。幽霊になったんだから、自由で楽しくいてもらわないと。人間のときのしがらみなんて忘れてさ。そう言うと、やつはくしゃっとした笑顔を、私に見せた。

掃除したらお腹すいたので、やつにご飯にしようと声をかける。なにが食べたいか訊ねると、からあげと返ってきた。カレーの次は、からあげ。すごくわかりやすい。「レモンはいる?」と聞くと、こくりと頷く。特製のネギソースもつけることにする。

文字通り山のように揚げた私に、やつは「この量を食べる気か? 高校生じゃあるまいし」と困惑気味だ。からあげのときは、テンション高めでいかないと! やる気満々の私に釣られて、やつも箸に手を伸ばす。レモンと特製のネギソースを交互につけてはご飯をかき込む。

きゅうりとにんじんの浅漬けで時々口直しをする。止まらない箸に、徐々に体は熱くなっていく。そこへキンキンに冷えた麦茶を流し込む。結果お腹パンパンになるまで食べた私たち。動けなくなって、床にごろりと寝転ぶ。もう動けないとぼやくやつを見て、幽霊でもそうなるんだと、なんだかおかしかった。

ひんやりとした床が火照った身体に気持ちいい。「行儀が悪い。牛になるぞ」とやつは小言を言う。「からあげを食べたから、なるのは鳥ですー!」と返す。「相変わらずの減らず口だな」とやつはくすりと笑う。やつが笑ってくれると、私もうれしくなる。恩を返せたような気がするからだ。

庭木に水をやってると、顧問弁護士が訪ねてきた。書類に判を押してほしいというので、家にあげる。もちろんやつのことは見えていない。だから寂しそうな顔をして、線香をあげて手を合わせていた。「よかったら、仏前に供えさせてください」と顧問弁護士は、和菓子の包みを置く。

「あいつ、虎屋の羊羹は食いすぎたからったから、もういいって…贅沢なやつですよね」と顧問弁護士は笑って、焼きたてのきんつばを仏前に並べる。ほんとボンボンだなとやつを睨む。「ま、僕もそう思ってたんですけどね。もっと違うもの食べたいって思いましたもん」お前もボンボンか! ちくしょー!

顧問弁護士は、幼稚園から大学までやつと一緒だったと言う。唯一高校だけは別だったようだ。「高校時代は、どんな感じでしたか?」と訊ねられるが、本人を目の前にして言いにくい。めちゃくちゃ私を睨んでるし。「死人に口なしって言いますし、この際ぶっちゃけましょうよ!」おーい、後ろ後ろ!

「そうですね…隣の席でぐぅぐぅお腹を鳴らしてる人間に、お弁当を分けてくれる親切な人でしたね。あまりにも美味しくて、翌日から毎日ねだるようになるんですけど…」と答える。すると顧問弁護士は爆笑し出した。「お腹を鳴らしてたのが君か」と聞かれたので、頷く。「あいつの理想とは全然違うな」

「ま、あんたみたいにあっけらかんと笑うやつの方がいいかもな」と顧問弁護士は言った。そして、書類を差し出してきた。目を通すフリをして、隣にいるやつに確認してもらう。ここには私の意思はいらない。やつの望みは、家族に遺産を残さないと言うものだったからだ。

判を押す私に、顧問弁護士は「あんたは欲がないな」と言ってきた。私が首を傾げると、遺産で派手に遊んでると思っていたと告白してきた。でも庭に大根が植えられてるのを見て安心したと言う。ずっと庭を見てるものだから大根を持っていくかと訊ねた。そういうことじゃないとつっこみがきた。解せぬ。

顧問弁護士が帰ったので、やつときんつばを食べることにした。オーブンで温め直してる間に、お茶を淹れる。「ひさしぶりだな」とやつが笑った。老夫婦が営んでいる甘味屋の名物で、よくおまけしてもらったそうだ。また食べに行こうと言うと、やつは驚いた顔をする。でもすぐに「そうだな」と返した。

夕ご飯は遅めにすることにした。せっかくだし、庭の大根を使うことにする。やつと一緒の生活に慣れたころに植え出したものだ。生育も早いし、いつ撒いてもそれなりにできると聞いたからだった。「どうやって大根を食べたい?」とやつに聞く。うーんと頭を悩ませるやつを横目に、大根の土を洗い流した。

「ぶり大根がいい」と言うので、買い物へ行くことに。ぶりのあらをカゴに入れようとすると、やつからストップがかかった。切り身がいいらしい。切り身はパサつく。アラの方が味わい深い。そう主張するも、アラだと食べるところが少ないし、面倒だと文句を言われる。折衷案で両方いれることで合意した。

やつの言うことにも一理あった。切り身だと、食べる部分が多くて、満足感がある。しかも、身をほじる必要がないので、食欲に任せて食べられる。もちろん私の言い分も一理あったらしく、やつは唸ってる。ふふ、あらの出汁が効いてるだろう。飴色に光る大根に、味がしっかり染みておいしかろう。

今度から切り身とあらを使ったものにしようと心に決める。きっと私だけじゃ、こんな味に出会えなかったと思う。誰かと一緒に生活するのも悪くないなと思った。ただひとつ問題があるとすれば、食費。やつとだとエンゲル係数があがる。生活のランクをあげると、後で落とすのが辛いんだよ!

贅沢は体に悪い。一度覚えれば、忘れられなくなって、もっと欲しくなる。だから日頃から節制が大事だ。だがそんなこと、やつにはお構いなしだ。なにせ死んでるからな!「ハンバーグが食べたい。牛100%の」外国産を買うかなんて思ったら、「国産で」と念を押された。黒毛和牛か! gいくらだよ!?

国産牛を頼むと、肉屋のおばちゃんに驚かれた。いつも安い肉でごめん。「旦那が食べたいって言うんですよ」とぼやくと、おばちゃんは怪訝な顔をした。でもすぐに笑顔を取り繕う。「病気であんまり食べれなかったって言ってたもんね。死んだ後くらいはたんと召し上がってほしいわよね」

「そうそう!ほんと幽霊になってから、食欲旺盛で…」って、言えるか!私は笑顔で誤魔化す。オマケしたからとおばちゃんは、包みを私に差し出す。「あんた、大丈夫? 手が震えてるけど…」「武者震いです!」こんな高級なお肉、触るだけで恐れ多いわ! ましてや調理ともなるとすごく怖いんだけど!

おっかなびっくりで、ハンバーグを作る。お肉様、お加減はいかかですか? さ、左様で。もっと揉みますゆえ、どうかよしなに…焼き上がりまで気が抜けなくて、結局ヘトヘトになってしまった。でもそんな疲れもやつが食事する姿を見ると、どこへ吹き飛んでしまう。やつは満足げにもぐもぐと頬張ってる。

その姿に安心した私は、ようやくハンバーグに箸をつけた。牛肉のしっかりとした噛みごたえ。噛み締めるごとに、じゅわじゅわと溢れ出す肉汁がたまらない。禁断の味だ。知ったら、もう戻れない。いや落ち着け。家計へのダメージは考えろ。苦悩する私を目の前にしても、やつは気に留める様子もなかった。

「次にハンバーグをするときは合い挽き、いや鳥か…そうだ、おからハンバーグだ!」とやつに宣言する。「不純物を混ぜるなよ。心ゆくままに、肉だけを食べたいだろ」と呆れられる。このボンボンが!と強く出たいところだが、いかんせん国産和牛100%のハンバーグを食べたところだ。戦意が削がれてる。

「節約を心がけるのはいいけど、あまり我慢するなよ」とやつは言う。でもエンゲル係数が…と私がぼやくと、やつはため息をこぼした。「食べられるうちに、おいしいものを食べろ」胸にずしんとくるひとことだった。生前のやつは食が細くなって、最後はほとんど重湯しか口にできなかったのだ。

「お前も未亡人だから、今後の生活の心配もあるだろう。だから、月に一度だけ贅沢をするのはどうだ?」とやつは提案してきた。「私が未亡人になったのは誰のせいだよ」とへらず口を叩きながら、それに乗る。「じゃあ次の贅沢は一か月後でいい?」と訊ねると「俺が消えてからにしてくれ」と返された。

「約束だからな」とやつは強く言う。その言葉にハッとする。「私たちが約束するなんて、初めてじゃない?」と指摘すると「言われてみればそうだな」とやつは目を瞬かせる。そして「初めての約束が幽霊になってからだなんて…変な話だよな」と笑った。その顔に、私はずるいと思った。

この約束は、一方的すぎる。今まで私たちが交わしたものは、婚姻という名の契約──つまり互いが義務を果たすものだった。私がやつを看取る代わりに、やつは私に遺産を残す。でも、この約束は違う。私だけが守らないといけなかった。

空腹に目が覚めた。軽くつまもうと思い、台所に立った。窓の向こうには、まんまるな月が空に浮かんでいた。月見でもしながら、食べようと決める。やつも食べるだろうかと思い、探す。やつは縁側でぼんやりと月を見上げていた。うっすら透けた背中は、今にも夜に紛れて消えそうに思えた。

「食べる?」と私はおにぎりの載った皿を差し出す。「食べるけど…お前、この時間だと太るぞ」とやつは言う。「共犯よ」と返すと「俺は太らないけど?」と腹の立つことを言われる。「いいから黙って食べろ」と睨むと、やつはおにぎりに手を伸ばした。最初にやつが口にしたのは、とりそぼろだった。

「お昼の残りか?」とやつは聞いてくる。そう、今日のお昼はそぼろ丼だったのだ。食べ過ぎたから、夕飯を軽くそばですませたらこの様だ。「やばい、崩れる…」そぼろおにぎりあるあるだ。苦戦したやつは、口いっぱいに頬張った。おかげで頬がハムスターのようだ。

笑うのを堪えながら、お茶を差し出す。咀嚼し終えたやつは、ひと息つく。「ほかのは、そんなに崩れないと思うよ」と教える。ひとつは、桜エビ・揚げ玉・刻んだ大葉を混ぜ合わせたもの。もうひとつは、枝豆のやつだ。「今度は夕飯の残りか?」「ご名答!」そばに桜エビと枝豆のかき揚げをつけたのだ。

「梅干しは食べ飽きてたから、うれしいな」とやつは笑う。病院では、よくお粥と食べていたらしい。月を眺めながら、おにぎりを頬張った。やわらかな光が縁側に落ちる。「明日はお天気かな?」「さあ?」「もしお天気ならピクニックに行こうか」こんなふうに外の空気を吸いながら食べたいと思ったのだ。

翌日は快晴だった。お弁当を下げて、やつと遠出をする。「まさか、ここは…」とやつは驚く。そう、母校の高校に来たのだ。「と言っても入れないから、裏の公園から眺めることになるけど」隣接する公園へ移動する。ベンチに腰をかけてお弁当を広げると、「お前、気にしないのか?」とやつは訊ねてくる。

幽霊と食事してるところを見られたら、頭のおかしいひとに思われるのではないかと心配してくれたらしい。大丈夫と返す。「実は先日、夫が亡くなりまして…夫とはこの高校で出会って、つい懐かしくなって話しかけてしまって…みたいな感じで泣き落としするから」「嘘じゃない分タチが悪いな」

「ま、食べよう」とお弁当箱を開く。「朝からパンを焼いたのは、これのためか」とやつは驚く。昨日おにぎりだったから、芸がないと思い、バンスを焼いたのだ。自家製タルタルソースたっぷりの照り焼きチキンバーガーに、やつはかぶりつく。タレでやつの口もとが汚れた。すかさずナプキンを差し出す。

口元を拭いたやつは、ふと思い出したように言う。「お前、高校時代、ハンバーガー屋でバイトしてたよな」色々バイトを掛け持ちしてたから、忘れてたけど、言われてみれば、確かにそうだった。「いつもお弁当を分けてもらってるお礼だって、お前、俺にそこのタダ券を押し付けたことがあっただろう?」

確かに覚えがある。「一度もそういうところに行ったことがなかったから、困ったんだ」「え!? 行ったことなかったの!?」驚く私に、やつは頷く。「家の方針でそう言った類のものは食べないように言われてたからな」ほんとこのひと、ボンボンだな。「だから、行くのをずいぶん迷ったんだ」

「でもこの高校に通うと決めたのも、そういう親の方針に逆らいたかったからだったし、行くことにしたんだ。注文の仕方はわからないし、味は濃くて塩辛すぎるし、ほんとなんできたんだろうと後悔した」ほんとボンボンだな、このひと。思わず二回も言ってしまったけど。

「でも、自由の味ってそういうものなんだってわかった。おいしいだけじゃない。まずいのにも当たることがある。おいしいところだけを、誰かがより分けてくれるわけじゃないから」やつは懐かしそうに目を細める。「じゃあ、今日のは?」と聞くと、「おいしい」とやつは笑顔で返してくれた。

「たまに勉強しに通ったりもしたけど、お前全然気づかなかったよな」とやつはぼやく。仕事に夢中だったからと、つい言い訳をしてしまう。「働いてるとき、お前、こっちが笑えるくらいに、真剣な顔してたもんな。それに俺が勝手に通ってただけの話だ」やつは少し切なそうな顔をした。

話の通り、やつはよく勉強をしていた。その甲斐あって、日本最高峰のひとつに合格して、京都へ行ったそうだ。私は卒業後、地元の小さな会社に就職。やつがこの高校を選んで、私が隣の席で盛大にお腹を鳴らさなかったら、関わることもなかったのか。そう考えると不思議な話だった。

「大学は京都だったけど、どんな感じだったの?」と私は訊ねた。病気のときは、なんとなく聞けずにいたのだ。いつも私から話す感じで、天気のこととか、買い物にいったときの話とかしかしてなかった。「そうだなあ…」とやつは空を見上げながら、語り出す。

ボロボロのアパートで、顧問弁護士で暮らしたこと。貧乏で、課題とバイトにひぃひぃ言ってたこと。夜通し酒を飲んで、馬鹿みたいな話で盛り上がったこと。酔っ払ったまま、夜中に近くのバッティングセンターで飛距離を競い合ったこと。たまたま開発したソフトが大手に買われて、大金が支払われたこと。

「金の一部は、あいつにあけたんだ」とやつは話す。顧問弁護士は、大学進学とともに勘当されたらしい。医者になるように言われたが、本人は学者になりたかったそうだ。「でも弁護士って…」どうやら資格は持ってるものの、本業は大学の講師らしい。「恩を感じて、一切を取り仕切ってくれてるんだ」

「虎屋の羊羹を食べ飽きたと言ったときは殺意が湧いたけど、いいひとだな」と私が言うと、少しくすぐったそうにやつは笑った。「死ぬことがわかったとき、あいつが一番動揺してたと思う」とやつは振り返る。「付き合いが長いんだから、当たり前だよ」と私は返す。

「それに比べて、お前は平然としてたよな。あんまりにも普通に接してくるから、もうすぐ死ぬなんて忘れそうになったよ」とやつは言う。「そういうふうに振る舞っていたんだよ」と私は誤魔化す。私と顧問弁護士は違う。私は何も知らない。ただ契約を結んだだけなんだ。

やつの癖も、好きなものも、嫌いなものも、趣味も、私はなにも知らない。高校時代お弁当を挟んでくだらない話をしたとか、短い結婚生活のことくらいしか思い出がない。「お前の時間を買えて良かったよ」とやつは微笑む。「私の方こそ感謝してる」と返す。おかげで根づく場所を手に入れることができた。

「家を買ったとき、明日の家賃の心配をしなくて済むとほっとしたんだ」でも、それ以上のことは言わない。私も、やつと同じで家族の話をしたくない。たぶん同情とか憐憫とかそういうものをかけられたくないからだろう。踏み込まれれば、今まで築いてきた自分が瓦解してしまうんじゃないかって怖かった。

私たちはある意味似たもの同士だ。お互い踏み込まれたくないものがある。踏み込まれたくないから、相手の領域にも踏み込まない。それは高校のころから変わらない。「そろそろ帰ろうか」と言うと、やつは頷く。それでも同じ屋根の下で暮らして、同じご飯を食べることはできる。幽霊でもそばにいる限り。

帰ると家の前にひとりの女が立っていた。やつが説明しなくても、その女の正体はわかった。やつの母だ。鬼のような形相でこちらを睨んでいる。「あの子を帰してちょうだい!」と彼女は叫び、私の胸ぐらを掴んだ。死んでいる人間を帰すことできない。彼女が求めてるのは、やつの骨だった。

四十九日の法要がまだだから、家にはやつの骨があるのだ。「帰せません」と私はきっぱり跳ね除ける。「先祖代々の墓に入るのが普通でしょ!」と女は声を荒げる。「彼はそれを望みません」と私は返す。生前やつは無縁墓地に入りたいと希望した。「だから墓参りとか気にしなくていい」と私に言ったのだ。

「3か月しか結婚してなかったあなたに、なにがわかるの!? 私はあの子の母よ! あなたよりずっとわかってるわ!」と女は主張する。「私もあなたも、たいして変わらないですよ。彼のことなんて、なにひとつわかっちゃいない」やつのことを知ろうとしなかったと言う意味では同罪なのだ。

やつの母は、きっと正しく生きるように、躾けたのだろう。やつに目隠しをし、清いものだけを口にするようにしたのだろう。だから、やつはお弁当を嫌い、ファーストフードも食べたことがなかった。だからやつは逃げるように、公立の高校や京都の大学を選んだのだろう。

なあ、母よ。正しいものを与えれば、望むままに育つと思ったか? それで、やつのことを知ってるなんてぬかすとか、おかしいにもほどがある。やつと向き合おうとしたのか? やつのことを知ろうともしなかったんじゃないか? でも、それは私も同じだ。私はやつのことを知るのが、ずっと怖かった。

やつを明るく見送りたかった。なぜなら、それが大金の意味するものだと思っていたからだ。やつのことを知れば、辛くなる。深く立ち入った分、笑顔が保てなくなる。だから、私は線を引いて、やつのそばにいた。あっけらかんと振る舞っていた。そんな私の姿に、やつが救われたらいいと願っていた。

でも、そんなのは思い上がりだった。幽霊になったやつを見て、自分の愚かさを思い知った。やつに成仏できないほどの未練を残させてしまった。安らかに逝かせてあげられなかった。なんのために、私はそばにいたんだ。なんのために、私は笑ってたんだ。──おいしいものを作るなんて、ただの罪滅ぼしだ。

「お帰りください」私は毅然と対応する。せめてやつの望むようにするのが、私の役目だ。そのための妻だ。長い間、睨み合ってたと思う。根負けしたのは、やつの母の方だった。「出るところに出ますから!」と捨て台詞を吐いて、帰っていく。「大したことないな。もっと必死になれよ」と私はぼやいた。

「嫌な思いをさせたな」とやつは謝る。「これくらい平気だよ」と私は返す。すると、やつは「強いな」と笑った。顧問弁護士に連絡したほうがいいと言われたので、電話する。慌てた様子ですぐにこちらに向かうと顧問弁護士は告げた。「待ってる間、夕ご飯でも作ろうか」と言うと、やつは私を呼び止めた。

「さっき、お前は自分と母と変わらないと言ったよな」とやつは確認してくる。なにが言いたいのだろう。「母は自分のことしか考えられない。でも、お前は他者のことを考えられる。だから同じだなんて言うなよ…」とやつは懇願にも似た声で言う。理由は何であれ、知ろうとしなかったのは同じだ。

「他人のことを考えられる私から質問です! 今晩はなにが食べたいですか?」と私はマイクを向けるようにして話す。あからさまに話を逸らしたけど、やつは何も言わない。「パスタとかかな」とリクエストしてきたので、支度にかかる。顧問弁護士もわざわざ来るので、彼の分も作ることにする。

ミートソースを煮込んでいる途中で、顧問弁護士はやってきた。慌ててきたらしく、汗だくだ。「すまない」と開口一番、頭を下げてきた。やつの家族と私が接触しないように取り仕切る予定だったのだろう。顧問弁護士は、飾り祭壇にあるやつの骨壷にも手を合わせて、謝罪をする。

「お前の望みは叶えたかったのにな…」と顧問弁護士は悔しそうだ。「それは恩を受けたからですか?」と訊ねた。「あいつから聞いてたのか」と顧問弁護士は私の方を振り返る。「それもあるけど…なんて言えばいいのかな…あいつと人生のほとんどの時間を分かち合ったんだ。家族みたいに大事なんだよ」

「本当の家族とは決裂してるけどな」と顧問弁護士はからから笑う。「別に金のことなんて、どうにでもできた。奨学金を借りればよかっただけだし。金のことは助かった。けど、それに恩義に感じてるかと言えば、そうじゃないんだ」と顧問弁護士が言う。「ま、あいつはそれがわからないままだったけどな」

「あいつは本当に色々と鈍い」と顧問弁護士は思い出し笑いをする。「折に触れては君の話をするのに…」やつがすごーく睨んでいるので、私は話題を変えることにする。「夕ご飯食べていかれませんか? ミートスパゲッティなんですけど」と私は提案する。「いいんですか?」と顧問弁護士は笑う。

「なんで3つ皿が出てるんですか?」と顧問弁護士に言われてハッとする。「せっかくなので、お供えしようと思いまして…」と言い訳をする。見えない以上、実は横にいるんですよとは言えない。しかも、いらないことを言うなよと睨んでるとは、口が裂けても言えない。

顧問弁護士がすべて平らげてしまったため、やつの分がなくなってしまった。「ミンチがもうないから、ナポリタンでも作るよ」と私は再び台所に立つ。まさか食い尽くされるとは思わなかったと言うと、「あいつはラグビーをしてたからな」と返される。どこか不機嫌そうな声音に、私は首を傾げる。

「やっぱりミートスパゲッティがよかった? なら、明日またミンチでも買うよ」と言うと、そうじゃないと返される。じゃあ、どう言うことだと訊ねると、やつは言葉を濁す。「とりあえずナポリタンでいいんだね?」と念を押す。「もうそれでいい…」とやつは頭を抱えた。

「今日のお昼は手抜きだ!」その言葉に、やつは驚いたような顔をする。「別にお前に手の込んだ料理を要求してるわけじゃないんだけど…」と口籠るやつに、「こっちの気持ちの問題だ!」と返す。やつが成仏できるようにおいしいものを出すと言った手前、あまり手抜きはしたくないのだ。

「でも珍しいな。なにか用事でもあるのか?」とやつは訊ねてくる。ピーマンとトマトの苗木を植えるつもりだと私は返す。「大根だけじゃ飽き足らなかったか…」とやつは苦笑する。うまくいったらオクラやなす、ゴーヤなども植えるつもりだと告げると、やつは庭木の花まで引っこ抜くなよと言ってくる。

畝に苗を植えていく。照りつける日差しに、汗が噴き出す。やつは縁側で座ってるだけのくせに、やれ帽子を被れだの、やれ水分を補給しろだのうるさい。「お前が倒れても、今の俺ではなにもできないからな」とやつは言う。「そこはポルスターガイスト的なあれでなんとかならないの?」「ならない」

縁側からこちらをずっと見てたけど飽きないだろうか? とりあえず作業も終わったので、声をかける。「収穫したら、冷製パスタにでもして食べよっか」と言うと、やつは微笑んだ。「お腹空いたでしょ。すぐに支度するから」私は手の泥を洗い流して、台所に立つ。ご飯はあらかじめ炊いて冷ましてある。

丼にご飯をよそい、その上にサーモンの漬けを並べる。最後に黄身を載せて、食卓に出した。サーモン丼をやつは口いっぱい頬張る。とろっとした黄身が絡まったサーモン。それをごはんでかきこんでいく。いい食べっぷりだ。幽霊になったやつとこんなふうに暮らしていくのも悪くないなと思うようになった。

縁側でうとうとしていると、チャイムが鳴った。庭先から回ってきた顧問弁護士が「ちょっといいか?」と声をかけてくる。どうぞと縁側に席をすすめると、手土産を渡してきた。本日は豆大福だそうだ。やつの骨壷にも供えておく。お茶を出すやいなや、顧問弁護士は納骨のことを切り出してきた。

普通は四十九日に納める。だが顧問弁護士はそれより早くしないかと提案してきた。「あいつの骨をどうこうしていいのは、あんただけだ」それは遺言で、私が祭祀承継者に指定されてるからだ。過去の判例から、やつの母は一切の権利を有してない。「だからこそ厄介なんだ」と顧問弁護士は言う。

人を使って無理やり骨を奪いにくるかもしれない。だから早々に納骨して、その旨を母親に伝えたほうがいいと顧問弁護士は言う。「あんたに何かあったら、あいつに申し訳が立たない」私に判断がつきかねたので、やつに指示を仰いだ。すると、やつは「もう時間なんだな」と悲しそうに目を伏せた。

「納骨が終わるまで、こっちにいさせてもらう話になってたんだ」とやつは語る。「なら、なんで…」と言いかけて、やめる。顧問弁護士の前だ。「でも早まったのなら、仕方がない。納めてくれたらいい」とやつは言う。私は顧問弁護士に告げた。「四十九日まで納めたくありません」やつの願いに逆らった。

「脅かされるからって決断したら、私は自分を許せません」こんな状態でやつを逝かせるわけには行かなかった。本当に満足した状態で終わってほしい。そのために私がいるのだ。顧問弁護士は大きくため息をつく。「わかりました。何かあったら連絡してください。くれぐれも気をつけてくださいね」

顧問弁護士が帰ると、やつは「俺は納めろと言った!」と声を荒げた。「不本意な形で終わらせて、また化けてこられたら困るからな。四十九日までが期限なら、それまであんたのそばにいる」危険な目にあっても平気だ。相手の狙いはわかってる。四十九日まで逃げ切れば、私たちの勝ちだ。

「お前は馬鹿なのか? なんでそこまでするんだ?」やつは頭を抱える。金に恩を感じていても、そこまでしなくていい。やつはそう思ってるに違いない。私たちは契約を結んだ。「最後まで見届けるって誓っただろう? それだけで理由は十分だろう?」そのための私だ。そのための妻だ。

「ちゃんと最後まで夫婦をしよう。ほら、せっかくの新婚なんだしさ」結婚して、まだ4か月ほどだ。四十九日まで一緒に過ごしても、半年もいかない。「新婚旅行にも行こう」そう言うと、やつは泣き出しそうな顔をする。逝くなら、心残りがないように過ごそう。

夜寝る時、骨壷を枕元においた。すると、やつは骨壷の横に腰を下ろした。「幽霊が枕元に立ってる! まさか体験できるとは思わなかった!」と言うと、やつはげんなりした顔をする。「いや、俺は座ってるだろ」「じゃあ、立って」「断る。さっさと寝ろ」だが、やつの存在が気になって眠れない。

寝付けない私を見て、やつはため息をつく。「寝れないなら、どこかいこうか?」「うーん…じゃあ、なんか話をして」「おもしろい話をしてやるよ」「お、なになに! 面白そう!」「昔々、尾も白い犬がいたって話」「え! なにそれ!? ただのダジャレだ!」憤慨する私を見た、やつは笑う。

私が眠りに落ちるまで、やつは色んな話をしてくれた。ただ眠かったので、途中から話は覚えてない。でも耳には、やつの低くて優しい声がいつまでも残っていた。

翌日から私は骨壷とともに生活した。自分の傍らが決して離さず、買い物に行くときでも鞄に入れて持ち歩いた。職務質問を受けたら一発だと思ったが、不安だったのだ。数日もしないうちに、留守の間家が荒らされた。顧問弁護士が話したように、きっとやつの母の差し金なんだろう。

警察と顧問弁護士に連絡する。警察には色々と事情を聞かれたが、やつの母親のことは言わなかった。確証がない。それに本当に泥棒が入ったのかもしれない。顧問弁護士はこのままだと危ないと再三注意してくる。「じゃあ、骨壷と一緒に旅行に行ってきます!」その一言にやつと顧問弁護士は驚いた。

四十九日まで、あと二週間ちょっと。「それまで一緒に見たいものを見てきます。ほら、新婚旅行とかできてなかったですし」そういうと顧問弁護士は、連絡は欠かさないようにという。また四十九日の前日には、顔を出してきてほしいと言った。私は約束し、骨壷とやつとともに新幹線に飛び乗った。

車内販売のおねえさんから、カチカチのカップアイスを買う。お昼は行き先についてから食べる予定だ。「幽霊って無賃乗車になるのかな?」アイスを頬張りながら訊ねる。「ならないだろ」呆れながら、やつは私のアイスを横からつつく。「どこへいくつもりだ?」行き先は京都。やつが大学を過ごした街だ。

体が冷えたので、車内販売のおねえさんにホットコーヒーを頼む。「幽霊って暖が取れないから不便だよなあ。ねえ、火とか出せないの? ほら、よく幽霊って炎を漂わせてるだろ」と私は言うと、「無茶言うな。あれ、通常搭載の代物じゃないからな」とやつは返してくる。「オプションか」「そうじゃない」

聳え立つ京都タワーに驚く。京都のイメージと違うなあとぼんやり見上げてると、やつはくすりと笑う。「もしかして京都は初めてか?」「うん。高校のとき修学旅行で来れる機会があったんだけど、積み立て金が厳しくて…」「そういえば、お前の姿がなかったなあ」そう言うことかとひとりごちる。

とりあえず京都駅の近くで宿を取ることにする。オフシーズンのせいか、そこそこ安い値段で借りることができた。荷物を下ろし、観光に出ることにする。受付でもらった地図を見ながら、やつと相談する。「あ、ここ行こう! 冥土通いの井戸!」地図を指差しながら言う。

六道珍皇寺まで歩く私に、「普通はもっとメジャーなところに行くのでは?」と言ってくる。「あとで回るけど、今日は近いところでいいだろ。お昼も適当に近くで食べたいし」歩きながら、やつはこんな街で暮らしていたのかとぼんやり思う。地元の人が通う庶民的な食堂があったので、入る。

愛想のいいおばあちゃんが注文を聞いてくれる。たぬきうどんをやつがすすめてくるので、それを注文する。するとおばあちゃんは、大丈夫かと何回か確認してくる。そのわけがわかったのは注文が来たときだ。「ああ、なるほど!」短冊切りの油揚げに、あんがとろりとかかってる。天かすじゃないのか。

生姜の味が効いているから、身体中がほかほかした。「俺も最初頼んだときはびっくりしたんだ」とやつは言う。京都は自分の住んでいた街と全く違って、毎日が新しい発見ばかりだったとやつは話す。知らない街で人生をやり直したんだなと私は思った。私はお会計をし、お店を出て行った。

迷いつつもなんとか六道珍皇寺にたどり着く。お目当ての冥土通いの井戸は、看板が立っているものの、なんの変哲もない井戸に見えた。「これであの世に通ったのか、小野篁も」帰りは黄泉がえりの井戸と呼ばれてるところから戻ったらしい。昼は帝に、夜は閻魔大王に仕えるなんて、働きすぎだろうと思う。

諸説あるので、正しいかは知らない。ただ私は小野篁が哀れだと思った。死んだ愛おしい異母兄妹を求めて、夜な夜な黄泉へ通う。「そこまでして会いたかったんだなあ」と呟く。するとやつは「…そうだな」と静かに同意した。黄泉がえりの井戸の方も行きたかったけど、疲れたので宿に戻ることにした。

翌日、大学の方へバスで向かった。うららかな日差しにうとうとしながらも、三十分ほど揺られる。平日だからキャンパスには若い子が多い。「ここに通ってたんだなあ」哲学の道とか歩いたりしてなんで考えると不思議だ。「そうだ!」バッティングセンターとか見たいと言うと、今は潰れてないらしい。

昔住んでいたところも訪ねてみる。さすがに寮は選ばなかったそうだ。月三千円に不安を感じたらしい。大学から歩いて二十分ほど。古い町家の一角に、うらびれた住宅があった。今では別の人が住んでいるらしく、表札が代わってるとやつが言った。かつては顧問弁護士とふたりで暮らしてたらしい。

「夏は死ぬほど暑くて、いつも扇風機を強風にしてたな。窓も全開だったし。冬は底冷えがひどいから、いつもこたつにもぐりこんでた。だらだらくだらない話をして、そのまま寝てた。講義に出るのは億劫だったな」懐かしそうにやつは語る。この街でやつは自分の人生を取り戻したんだと私は思った。

「なんでこの街を出たんだ?」私はやつに訊ねる。ここで人生を終えてもよかったはずだ。元いた場所にわざわざ戻ってくる必要なんてあったのだろうか。「…会いたかったから」やつは少し照れ臭そうに言う。「誰に?」私が聞き返すと、「お前にだよ」とやつが答えた。意味がわからない。

「死ぬってわかったとき、真っ先にお前の顔が浮かんだんだ。強烈に会いたいって思った。でも俺は、お前からしたら高校のころに少し交流のあった同級生だ。いきなり会いたいって言われたら困るだろうなって思ったんだけど…気持ちが収まらなかった」まるで私のことが好きみたいな言い草じゃないか。

「最後に会えてよかった」やつはこころの底からうれしそうな笑みを浮かべた。私はその笑みをこそばゆく感じてしまい、なんだか目が合わせられなくなった。「まだまだ見て回りたいところがあるから!」私は足早に歩き出した。後ろからやつのくすくす笑う声が聞こえた気がしたが、気にしないことにする。

京都に来てから一週間ほど。ある晩、顧問弁護士が連絡をよこしてきた。「一向に音沙汰がないってどう言うことです?」と嫌味を言われたが、どうやら本気で心配してたらしい。悪いことをした。本命は骨壺の件についてだった。顧問弁護士は、やつの母親に、京都のほうで納骨を済ませたと伝えたそうだ。

そろそろ頃合いかと思った。「うちに帰ろうか」そう考えてたのは、私だけじゃなかったらしい。「ああ」やつは短く頷いた。

残り一週間。やつといつもの日常を過ごした。起きて、朝ご飯を作って、一緒にいただきますして、歯を磨いて、洗濯機を回して、洗濯ものを干して、畑仕事をして、お昼の支度をして、やつがおかわりして、お昼寝して、やつがお買い物についてきて、献立を相談して、晩ごはんを作って─。

ごちそうさまと手を合わせて、皿を洗って、お風呂に入って、乾いた洗濯を畳んで、お布団を敷いて、布団に潜って、またやつがおもしろい話をして、くだらないって私がやじを飛ばして、私が寝落ちるまでやつが話をして──。

とうとうお別れの日がやってきた。

起きてすぐご飯を炊いた。炊き上がるまでの時間、錦糸卵を焼く。絹さやも塩茹でして、水にさらす。そのあと、まぐろ、サーモン、たこ、いか、きゅうり、えびと具材を刻んだ。普段は使わないような豪華な食材だけど、今日は旅立ちだ。奮発した。ご飯が炊き上がると桶に入れ、すし酢をかけた。

右手にはしゃもじ、左手にはうちわ。両手を駆使して懸命に粗熱を取る私を、やつは目を細めて見てる。「お前の力で冷ますことできない?」「なんでまたそんなことを急に」「ほら、幽霊が近くと、気温が下がるって言うし」「どう言う理屈だ」軽口を叩いてるうちに、いい塩梅に仕上がる。

酢飯を大皿によそって、具材を載せていく。それを見ていたやつは驚く。「いくらが入ってるなんて、豪勢だな」「今日は特別だから」載せ終わると、私は食卓に並べた。三つ葉のお吸い物を添えれば、完成だ。「ちらし寿司か」やつはうれしそうに、箸を持つ。私は取り皿にたっぷりよそい、手渡した。

──いただきます。私たちは手を合わせて、食べ始めた。あまりにも具沢山だから、ちらし寿司と言うよりは、なんだが握り寿司を食べてるようだった。噛むたびに色んな具材の味が口に広がる。たまにぷちぷちと弾けるいくらの感覚が楽しかった。口にあったのか、やつは何度もおかわりをしてくれた。

「お腹いっぱいになった?」空になった皿を見ながら訊ねる。「ああ、もういっぱいだ」「じゃあ、もう心残りはない?」今度はやつの目を見ながら訊ねる。「ひとつだけある」やつは苦しそうに笑った。ああ、やっぱり私ではだめだったか。「そんな顔をしないでくれ」その懇願に、私は笑みを作る。

「今度こそ、心残りがないように逝かせてあげたかった…私は妻失格だな」看取るって約束したのに、やつに未練を残させてしまった。これって、看取るという約束を守ってないことだろう? 私の吐露に、やつは目を瞬かせる。「そんなことを気に病んでたのか。馬鹿だなあ」とやつは笑った。

「馬鹿なのは俺のほうか。ただひとことを言いたくて、戻ってきたんだ」──想いを告げれない臆病者なくせに、相手の未来を欲しがって。自分がそこにいた証を刻みつけたいから、金で相手の時間と戸籍を買って。傷つけることになっても、死を見届けさせて。「ずっと言えなかったけど、好きだったんだ」

唖然とする。そのひとことのために戻ってくるなんて…やつに同じ気持ちを返せたら、よかった。だけど、どうしようもなく時間が足りなかった。今の私に言えるのは、こんな言葉だけだった。「生きてる間に言えよ、馬鹿」もっと時間があれば、もっと違う言葉を返せただろうに。

「お前の言う通りだよ」とやつは笑う。「短い間だけど、夫婦をしてくれてありがとう」これが、私たち夫婦がたどり着いた結末だった。もっと早く再会できていたら。色々な「もっと」が脳裏によぎる。が、どれも意味がない。私たちはこんなふうにしか、夫婦になることができなかったのだ。

高校のころ、私がお腹を鳴らさなかったら、やつのお弁当を分けてくれなかった。やつが病気にならなかったら、私は結婚しなかった。やつが幽霊にならなかったら、私は好きって言ってもらえなかった。そんな積み重ねがあったからこそ、今の私たちがあるんだ。「ご飯、おいしかったよ。ごちそうさま」

「それはよかった」私が言うと、やつは食卓を立った。そして、どこかへ歩き出した。

納骨も終わり、家に戻った私は、あらためてひとりになったんだなあと思った。今日の朝までは、やつの気配があったのに。喪服を脱ぎ気にもなれず、食卓の椅子に座る。しばらくぼうっとしてると、ふとお腹が減ったことに気づいた。台所に立ち、残りものでなにか作れないか思案する。

冷凍のご飯を温め直した後、一度水にさらしておく。サーモンの残りがあったので、それも焼く。薬味は、使いきれなかった三つ葉と針生姜だ。お椀いっぱいにご飯をよそって、具材を載せる。そして上から淹れたお茶を注いだ。お茶漬けにしては豪華だなと思いながら、手を合わせた。──いただきます。

ー完ー

ご協力いただいた方
・突然書き出したのを、最後まで見守ってくださった皆さま

作業bgm
・大橋トリオ/月の裏の鏡
・大橋トリオ/そんなことがすてきです
・ハンバート/同じ話
・きのこ帝国/ひとひら
・ヨルシカ/風を食む
・星野源/くせのうた
・mol-74/瞼

作中登場した食事⑴
炒飯、豚こまのカレー、鳥のからあげ、きんつば、ぶり大根、国産和牛のハンバーグ、おにぎり(とりそぼろ、桜エビ、枝豆)、自家製タルタルソースの照り焼きチキンバーガー、ミートスパゲッティ、ナポリタン、サーモンユッケ丼、豆大福

作中登場した食事⑵
新幹線のアイス、ホットコーヒー、きつねうどん、ちらし寿司、三つ葉のお吸い物、お茶漬け

返事がない。ただの社畜のようだ。
ゲームシナリオのお仕事をメインに、たまに小説のお仕事(名義:遠原嘉乃)などをしております。

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  2. 厳@あっぷぷー
  3. 2021/01/13 23:10:50 公開
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