「私もかつては「神仏習合は日本だ...」、@Tanba_Kosanji さんからのスレッド
私もかつては「神仏習合は日本だけ」「神仏(異なると宗教の尊格)を同時に信仰する日本の独自性」といった、「日本特殊論」を無邪気に信じていましたが、学生時代にその思い込みを見事に打ち砕く本に出会いました
それは荒俣宏氏の『文明移動説』(集英社)といい、そこに南米グアテマラの「サン・シモン」という異形の神についての書かれていました
帽子にサングラス、そしてタバコをくわえているというなんとも不思議な風貌で、しかもイエス(カトリック)と共に祀られているとのこと
どうやらスペインによってキリスト教が広まるのに対して、現地人は表面上はカトリックの聖人信仰でいて、内実は旧来の土着信仰、民俗信仰という、ある種の「神仏習合」的な形態になったと
そして教会もこういう信仰を、なんだかんだで受け入れているという事実でした
そして中南米、南米の民間信仰ではインカの神々の体系の中にカトリックの聖人信仰も受け入れているという話でした
(面白いのはぺテロやパウロよのような聖人は「良い願い」しか叶えてくれないが、弟子であり裏切り者のユダは「善悪両方叶えてくれる」から人気があるとか)
その後にブードゥー教に関する本を読んだときも、「ゾンビ」とか「邪教」というそれまでの偏見に満ちた考えを改めさせられ、アフリカからの奴隷が故郷の精霊信仰と現地の民族信仰、そして迫害から逃れるためにカトリックとも融合した宗教と知りました
考えみればクリスマスやハロウィーンも、古代ヨーロッパの精霊信仰をキリスト教の行事化させているのですから、世界宗教と民族宗教の融合なんて普遍的現象ですよね
「神仏習合は日本だけの特殊な事例」というのは誤った認識ですが、なぜこのような事がいわれたのでしょうか
ところで、このように語られるとき概ね、次のようなタイプの言葉が続きます
一つは「このように日本人は無節操で、いい加減な国民である」
もう一つは「日本人は平和的で寛容である」と
つまり、あくまでもそれに続く言葉を語りたいがための、「神仏習合は日本だけの特殊な事例」という前ふりに過ぎなかったんじゃないのかと思うこの頃です