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「日本語で発信されるアメリカでの...」、@carlostsune さんからのスレッド

日本語で発信されるアメリカでの仕事とか生活の事情って、上手くいってる人の話が多いから底辺に近いエリアの話って全然伝わってないと思うんですよね。

その層で生きている人たちって情報発信しないし。

だから、今日こそはその辺を話したいと思います。

不法滞在や不法就労の状態の人がなし崩し的にグリーンカードが取れたのは昔の話で、2001年の同時多発テロ以降アメリカに合法的に在住するということは非常に難しくなった。だから、2001年以降にアメリカに渡って暮らしている人たちは結構高いハードルを超えた人達と言っていいと思う

就労ビザを取って優良な米国企業で働いている人達っていうのは、その中でも凄く優秀な人達だ。発信力のある彼らの言葉の影響力が強いのは当然なのだけど、同じアメリカ国内にも彼らとは全然違う世界で生きている日本人が沢山いる。そして、底辺に近いところで何とか生きている人も一定数いる、という話

アメリカに渡った日本人の歴史を話しだすと長くなるけど、今日は戦後、特に80年代以降にアメリカに渡り居着いてしまった日本人の話を中心に書きたいと思う。つまり、なし崩し的にグリーンカードが取れた朗らかな時代に渡米した「一世」達だ

「アメリカに来れば何かがある」と思う人は多い。というか世界中からアメリカンドリームを求めて沢山の人がやってくる。80年代であれば日本は豊かになっていたから過去の日系移民達とも他のアジアの国の人達とも違い経済移民ではなかった。モラトリアム移民と言ってもいいかもしれない

「何となくアメリカに来て、何となく居着いてしまった」と表現したら言い過ぎだろうか?でも、実際僕自身もこういう心境だった。偶然グリーンカードに当選した僕は何となくアメリカに来てしまったから彼らの気持ちがとてもよくわかる気がするのだ

僕が渡米したのは2004年。モラトリアムな先輩達から遅れること20年。ビザ要件が厳しくなってからというもの、留学でもなく、就職でもなく、結婚でもなく、なにも決まっていない状態で永住権だけもってフラフラしている若い日本人なんて超レアな存在で、80年代からタイムスリップしてきた若者の様だった

多くの日本人と同様にサンフランシスコ(隣のバークレーだけど)に住み着いた僕は英語が一言も話せなかった。アダルトスクールという無料の学校では移民向けに英語を教えてくれると聞き、2、3回は通ったけど詰まらなくて続かなかった。住んでいれば、いつか英語が話せる様になるだろうと楽観的に考えた

貯金は生活費2ヶ月分だったから、すぐに仕事を探し始めた。ジャズクラブと日本食レストランで有名なYoshi'sのキッチンヘルパーの面接に行ったのだけど、英語がさっぱりわからずに不合格。キッチンで働きながら、あわよくばライブが聞けるかも!と超甘い考えだった。

日本に住んでいた時、バイトの面接で不合格になったことがなかったから結構ショックだった。ただ、若いっていうのは何事もどこか他人事というか、焦りを感じないというか仕事が見つからないことを「怖い」とは全く思っていなかった。漠然と何とかなるだろう、と思いながら過ごしていた、ある日

近所の日本食レストランのシェフと知り合い即採用。英語の確認もされず、料理の経験も聞かれずに「日本人の若者」というポテンシャルのみで仕事を得る事に成功した。時給7.5ドルに加えてチップが一晩10ドルから30ドル。朝9時から夜10時までの通し勤務で、休みは週2回。福利厚生は無しという条件だった

普通カリフォルニアのレストランのキッチンはメキシカンに占められていて、そのお店も例に漏れずだった。フェアなオーナーの方針で僕は序列ではメキシカン達の下になった。彼らは初めて日本人の下っ端を手に入れた!そして英語よりもスペイン語を浴び続けるキッチンでの日々が始まった

飲食店という客商売だし、肉体労働でもあるのでストレスが高い。そういう環境では人々の本性が曝け出されてしまいがちだ。小さなお店でも職種や人種による序列、過去の経歴によるマウンティングなど人間臭いやりとりが沢山あった。僕は仕事の要領が悪く、メキシカンのリーダーからよく怒られた。

何をしても怒られた。スペイン語で色々言われても意味はわからないけど罵倒されてるのはわかるし、バカにされてるのもわかる。正直仕事中に泣いたこともあったと思う。後から入ってきたチベット人の若者には英語を馬鹿にされて、とにかく悔しかったし、その状況を変えられる気もしなかった

それが渡米1年目の日々。日本人の寿司シェフやウェイトレスさん達には良くしてもらった。多分、不器用で何も出来ない若者だと同情されていたと思う(苦笑)その店で20年以上働いている高齢の女性には一度真剣に説教をされたを覚えてる。「この仕事が出来なかったら、どこでも通用しないよ」と

ヒッピーあがりや、遊び人が多かった寿司シェフ達。彼らは80年代にアメリカに渡ってきて生きるために寿司を握った。その店は人気店だったからシェフ達は成功者だった。結構いい車に乗り、皆家も買っていた。皆が寿司シェフになりたがっていた。「ツネも寿司を覚えればちゃんとした暮らしが出来るぞ」

ウェイトレスやウェイターは週末の夜は一晩で100ドルから200ドルのチップももらっていた。それを羨望の眼差しで見ていた僕の月給は1000ドルいかなかった。彼女達は言った「キッチンをやめて良い店のウェイターになった方が良いんじゃない?」

毎日ひたすら野菜と肉を刻み続けていた。店のヒエラルキーの一番下っ端だったから、ウェイトレス達からの扱いも軽かったし雑用は全部回ってきた。こんなことをやるためにアメリカに来たのか?と考え続ける日々だった。こんなはずじゃないと思いながら、どうすれば何が変わるかわからなかった

ある日、日本の友人からダイエットサプリを買って送って欲しいというメールが来た。ヤフオクで転売したいとのことだったのだけど、そこで初めて自分で商売するということを考えた。どうせレストランの仕事を頑張っても浮き上がれるかわからないし、リスクを取ってでも自分でビジネスをした方が良い、と

それからはキッチンの仕事の間も常にメモ帳を持ち歩き、思いついたことを全部メモする様にした。キッカケはヤフオクだったけど、絶対にもっと良い方法があるはずだと確信していた。で、転売で少量を売るよりも、アメリカのサプリの卸業者と組んで日本向けの直販サイトを作って運営すれば良いのでは?と

思いついた。上手いこと卸をやっている日本人社長を見つけ企画書を持って直談判をしに行った。生まれて初めて書いた企画書はポンコツだった筈だけど社長の答えはYesだった。そして、僕はキッチンで働きながら、自分の会社を設立した。個人事業主でも良かったが社長になりたかった。27歳の時だった。

自己資金ゼロで始めたから書類も全部自分で書いたし、サクラメントの役所にも自分で持って行って登記した。契約書も見積書もインボイスも何も知らなかった。ベンダーへの支払いが先で、顧客からの入金が後だということも知らなかったから早々にショートしかけた

親からお金を借りて何とかやり過ごし、レストランの仕事をやめて自分の会社の仕事に専念することにした。実際はキツい下っ端の仕事を一刻も早く辞めたかったからで、自分の会社の展望は何も見えていなかった。ただ手に入れた社長という響きは多少は心の隙間を埋めてくれた

社長をやると社長と知り合うことが多くなるということをこの頃に知る。そして、社長には色んな種類がいることや、癖の強い人が多いということも知った。そして、何より追い込まれ過ぎると人は逃げるというか、飛ぶということを身をもって知った

そう、飛んだのは僕だった。自分の会社を経営するには若すぎたし、甘すぎた。すぐに資金的に行き詰まってしまった僕がお客さんを協業先のベンダーさんに託して会社を畳む。アパートも維持できなくなり、知人の家の一部屋に転がり込んだ。そこにも居られなくなり一発逆転を狙った

「ラスベガスだ!」と思った。深い理由はなく、漠然とベガスに行けば何とかなると思った。住むところも何も決めずに10時間車を走らせて砂漠の中の街に移り住んだ。ストリップの外れの治安が悪い地域の一軒家にハワイから渡ってきたミュージシャン達7人との生活が始まった

Craigslistで見つけたオーディションに行ってベースを弾いて幾つかのバンドに加入し、ミュージシャンユニオンに加入してミュージカルやホテルの仕事の現場に顔を出しながら演奏を機会を探ったが、突然あらわれた怪しいマネージャー取ってくるのは50ドル貰えるかどうかの小さなものばかり。

資金が尽きて徐々に深夜の怪しいビデオ屋の店番のバイトが生活の中心になっていく。早朝のストリップのホテルの建物は煌びやかさが一切なく、補修の後が生々しいただのハリボテだった。「全部偽物じゃん」と思いながら車を走らせて虚しさを抱えて家に帰る日々だった

怪しいビデオ屋を取り巻く日本人達もクセが強かった。元ヤクザだと息巻く某ホテル内の寿司シェフ。某ホテルのカジノのベテランディーラー。元風俗嬢で今でも過激な下ネタしか言わない高齢の女性。お店のDVDや売り上げを盗みまくる店長。北朝鮮から脱北してアメリカに流れてきて店を開けたオーナー

(オーナーは日本人じゃないけど)この人達が理想の自分と現実の自分の境目がわからなくなった状態でマウントを取り合い店はいつも阿鼻叫喚に包まれていた。僕現実逃避をすべくブラジル人コミュニティに入っていきポルトガル語のエクスチェンジに没頭していた。何をしにベガスに行ったのか既に不明

ボロボロの生活で明日の食事をするお金も無いというところまで追い込まれていった。そんな状態でも「堅実に」とか「着実に」とか「コツコツ」などを考えることも無く、どうすれば一発逆転できるのかを考えていた。怖いことに何の疑いもなく、逆転出来ると信じ切っていた。もうすぐ30歳になる2007年の話

このアメリカ生活の最初の3年間に就労ビザを取ってアメリカ企業で働いている様な優秀な日本人には会ったことが無かった。僕の周りにいる日本人達は皆どこかなし崩し的に生きてきてしまった人達ばかりだった様に思えた。程度の差はあれ所謂「成功」からは遠い場所にいる人達だった。(続

11月になった瞬間にラスベガスは真夏から真冬に変わる。お金も尽き、食べるもの無く、風邪をひいてボロボロの部屋で寝込んでいる時に電話がなった

「仕事を手伝って欲しいんだけど空いてる?」

マウンティングと嘘の付き合いでしか自分を保てない人達とばかり接していたベガス時代に、僕が道を踏み外さなかったのは彼との交流があったからだと思っている。人としてのベースを崩さずに済んだ。本当に大恩人だ。

彼もまた夢を追ってアメリカに渡ってきた若者だった。根無草の様な時間を過ごした後に、この国に自分の居場所を少しずつ築き、そしてラスベガスに自分の城を築いた人だった。だから、根無草だった当時の僕のことを気にかけ、暗黒面に落ちない様に手を差し伸べてくれた

「底辺」とはその社会において経済的にも社会的にも最下層に近いところに属しているということなんだと思う。そして、アメリカにおいてはマジョリティの経済圏で暮らせず、マイノリティのコミュニティの小さい経済圏でしか暮らせない人達は限りなく「底辺」に近いところにいると言って良いと思う

小さい経済圏には良い仕事は回ってこない。騙し合い、足の引っ張り合いで小さなパイを奪い合う。マジョリティの世界に比べるとスタンダードがもの凄く低いのだけど、そもそもそんな事を知らないから比べることも出来ない。身近な誰かを妬み嫉む。精神が暗黒面に落ちたら底辺へのカウントダウンが始まる

精神の健康を保っていれば這い上がることが出来る。そして、精神の健康を保つには真っ当な人達との交流が絶対に必要だということをアメリカ生活の長い彼は知っていた。だから、僕の自尊心を傷つけない様に、金を恵むのではなく、仕事をさせてくれて対価という形で僕を助けてくれた

精神の健康の大切さという話でいうとアルコールとドラッグと食事の話は避けられない。ベガス時代の僕の食事はバドワイザーとビーフジャーキー、時々吉野家かバーガーというものだった。ミュージシャンということもあって周囲に薬物使用者の生活破綻者が多かったので、そこには手を出そうと思わなかった

経済的な弱さは逆転出来るかもしれないが、法を犯してしまったり、人の信用を失いまくるという社会的な損失は後から補填出来ない。それは本能的にわかっていたのかもしれない。ベガス時代の最後の頃に、アダルトDVDの違法海賊版を作っている会社の社長から入社を打診されたことがあった

ハードロックホテルの近くにあった海源楼という中華料理屋の8ドルの炒飯すら注文することが出来ないくらいに貧しかった僕に月2,000ドル(!)というオファーは立ちくらみがするくらいに魅力的だった。いや本当に。最後の最後までオファーを受けるか悩んだ。そのくらいにいつも空腹で肌荒れも酷かった

その会社には何人かの日本人がいた。皆やさしくて普通の人たちだった。年代は40代くらいだった。ただ、良い人だとしても仕事は絶対にメインストリームにはなれない違法な事。一回そこに手を染めたらカタギの仕事に戻るのは困難。それでも食うために、それを選んだ彼らのことを未だに否定出来ない

そのオファーとほぼ同時にサンフランシスコからも一本のメールが届く。以前仲良くしてもらっていた大学教授が自身のスタートアップを設立するからPersonal Assistantとして働く気はないか?というものだった。そして僕はサンフランシスコに戻りアカデミックな世界に入っていく事になる。まさに蜘蛛の糸

(続きを書く前に)「英語が出来ないと言っていたのに、どうやってアカデミックな仕事をするのだ?」と思われた方がいると思うので、その辺の経緯をまとめた連ツイを貼っておきますー。

そうそう、ラスベガスに引っ越す数ヶ月間に死ぬ気で英語の勉強をして、ある程度のレベルまで英語力を上げたんですよね。TOEIC750点くらいだったと思います。それでも全然きつかったけどレストラン時代よりはコミュニケーションはマシになっていました。

とは言っても、その英語力でアカデミックな仕事をするのには抵抗がありました。入社を決める前にボスである教授に「英語については学校で学んでいないのでライティングに問題があるかもしれない」とメールで伝えたところ「私が関心があるのは君の仕事内容であってライティングではない」という返信が

今でもこの言葉の思い出すたびに、人生のターニングポイントだったな、と思う。恐れずに目の前にあるチャンスをまずは掴むこと。それからの事はオファーレターにサインしてから考えれば良い。そして、切ない思い出の詰まったラスベガスをあとにしてサンフランシスコに戻った。2008年1月のことだった

渡米後、レストランの下働き、自分で起業したウェブやシステム構築の会社、ラスベガスでの演奏活動、ビデオ屋の店番などの仕事をしてきた訳だけど、新たに入社したその会社で同僚が全員Ph.Dホルダーになった。周囲にマウントを取ってくる人も、嘘つきもいなくなった。そして初めて健康保険を手に入れた

立ち上がったばかりの会社はオフィスもなく、週に一度大学の研究室で仕事をする以外は教授の家が職場だった。ありとあらゆるオーダーが飛んできては、それを全て打ち返す事に達成感を覚えていた。例えば3日前にニューヨークの〇〇地区で販売されたNYTの3ページ目に掲載の写真を入手しろ、とか

山の様に積まれた8ミリフィルムを1週間後までに全部デジタルデータにしろ、とか。実験のために○○の属性の女性を50人集めてこい、とか。無理難題が結構多かったけどベガスの日々に比べたら充実度が半端なかったし、必要とされる嬉しさで何でも調べて、何でもやっていた

大学の研究室からのスピンアウトだったのでクライアントは政府系や大企業が多くて刺激的だった。更に大ボスがモデルのテレビドラマの全米放送が始まり、僕が編集した画像の素材がドラマで使われるなど、結構テンションの高い日々を送っていたのだけど。。。

好事魔多し

えーと、ここからガンガン落ちていきます。。。仕事も楽しくて、刺激的で充実していた頃、僕はどんどん慢心をしていきました。ベガスでの苦労も忘れ、今の職場のありがたみよりも上司や同僚への不満を口にすることが多くなり、仕事もどんどん雑になっていきました。

そして

ある日、同僚の女性研究員と仕事のことで口論となり。。。いや正確にはしばらく前から軽い口論はよくしていたのですが、その日はお互い限界が来ていたのだと思います。退勤間際の口論でした。彼女の言い分を聞き終わるや否やSo what?と吐き捨てて職場を立ち去った僕にその晩ボスからメールが届きます

「明日から出社しなくて良い。連絡があるまで自宅待機で。その間も給料は払う」とだけ書かれてました。本来ならすぐにボスに謝りに行かなきゃいけない状況です。

でも、苦労せずに人脈と幸運で掴んだ仕事だったので、若かった自分はその価値を正確に理解できていませんでした。そして1週間後に連絡が

出社するとボスと弁護士がいて、淡々と解雇の事実を告げられます。書類にサインする様に言われ、退職パッケージとして2週間分の給与が支払われ、そして僕は失業しました。今ならその状況でのパッケージはボスの温情だとわかるんですが、当時は若いし馬鹿だから何もわからず逆恨みしてました。。。

完全に自業自得なんですが、甘えた人生を送っていたの当時の自分にはそれすらわからなかったんですね。そして、アメリカで失業した場合の手続きも、次の仕事を探す努力も、自分の人生なのに他人事のように感じてしまって何も動き出せない日々を過ごしていました

アメリカ社会にようやく参加出来たと思っていたし、ここから這い上がれるかもしれない、まともな生活を送れるかもしれないという希望は水の泡に消えた。またベガス時代の様に「食い扶持」を探すことになった。前職の経験を活かして職探しをするのが当然なのだが、そんなことすら出来なかった。

なんとか見つけた仕事は近所の刃物屋さんの店番兼刃物研ぎだった。錆びついた剪定鋏や枝切り鋏、刃の欠けた包丁などをひたすら毎日研いでいた。完全にレストラン時代に逆戻りの、ストレスとマウンティングの日々が始まった。そして、そこである人と出会う

続きますけど一旦休憩します

サンフランシスコ在住の移民一世のベーシスト兼経営者。抽選永住権に当たって2004年渡米。ホームレス直前まで落ちたけど何とか這い上がってます。COO of Fujisoft America, Inc 取材記事:cutt.ly/Mhe1a6ecutt.ly/Lhe1zihcutt.ly/QbRpUOH

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  2. Tsunehisa Nakajima / AAPI
  3. 2021/05/04 17:19:10 公開
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