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「笛吹男伝説の記事について、実は...」、@hyoroWien さんからのスレッド

笛吹男伝説の記事について、実はテレビ出演のお話が来ていたのですが、準備したものの企画が立ち消えになったので、調べた内容をまとめておきます。オーストリアから少し離れますが、今回は「ハーメルンの子供たちはどこに消えた?」というお話です。

ハーメルンだけじゃない!? 謎の能力を持つ怪しい「笛吹き男」伝説(オーストリア) | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

ハーメルンだけじゃない!? 謎の能力を持つ怪しい「笛吹き男」伝説(オーストリア) | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ) 笛を吹いて子供たちを魅惑し、連れ去ったことで知られる、ハーメルンの笛吹き男伝説。ハーメルンは北ドイツにある街だが、実はオーストリア、ウィーンに近いコルノイブルクという町にも、笛吹き男伝説が残っている。

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まず、前提として、ハーメルンから130人の子供たちが消えたのは、1284年6月26日と記録にあります。裏付けは、1300年頃作られたハーメルンの教会のステンドグラスに絵があるのと、町の年代史に、1384年に「子供たちが去って100年」との記載。

そして記事にもありますが、最初のペストの流行は1347年なので、子供が消えた話とペストの話は、二つの無関係の伝承が合わさったもので、当初は「子供たちが消えた話」のみでした。ネズミ捕りの話が追加されたのは、1559-65年の間とされています。

ちなみに、現在知られているバージョンは、18-19世紀のゲーテや19世紀のグリム兄弟のものです。

それでは、子供たちが消えた理由を検証していきます。現在出ている説は、子供十字軍、死の舞踏(病気)、ダンシングマニア、川で溺死、土砂崩れ、疫病、東方植民などです。

まずは、子供十字軍ですが、これは1212年ですので、1284年のハーメルンの事件とは合致しません。また、「死の舞踏」Totentanzという病気という説もありますが、これは14世紀以降ですので、該当しません。

同じくダンシングマニア(Tanzwut)という、集団で踊りだす一種の集団ヒステリーがはやった時期がありますが、これも14-15世紀です。川での溺死、土砂崩れ、疫病などの説も、特に裏付けが見つかっていません。そのため、現在最も有力で、研究が進んでいるのは、東方植民ということになります。

東方植民の話をする前に、13世紀当時、ドイツ語を話す人たちの住む地域が、現在のドイツよりずいぶん西寄りだったことを頭に入れておく必要があります。

東方植民は、中世中期(11世紀中ごろ~13世紀中ごろ)に、1000年頃からスラブ人やバルト人が居住していた地域に、ドイツ語を話す人たちを「植民」することで、ドイツ語圏を増やしていこうという試みでした。

対象地域は、エルベ川やザーレ川以東、バルト地域(ドイツ騎士団国)、ボヘミア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、モルドヴァと、かなり広範囲です。特にエルベ川やザーレ側以東というと、現在のドイツのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州、→

メクレンブルク・フォアポンメルン州、ブランデンブルク州だけでなく、ザクセン州とザクセン・アンハルト州の半分、つまり国土の右上の1/3ほどの部分に当たります。(少し旧東ドイツとはズレますが、面積的には似た感じです)

オーストリアのニーダーエースタライヒ州、シュタイアーマルク州、ケルンテン州も東方植民の対象とされることもありますが、オーストリアは8世紀までにオーバーエースタライヒ州以西とドナウ南岸はすでに独語になっていて、 →

8-11世紀で現在のニーダーエースタライヒ州やシュタイヤーマルク州のほとんども独語圏になっています。(バーベンベルク家の支配が10世紀~)

ケルンテン州やニーダーエースタライヒ州の森林地方は例外的にスラブ語が強い地域でしたので、実際11世紀以降に独語を話すようになったのは、この辺りの限定的な地域なのではと考えています。

東のスラブ人やバルト人を下し、徐々にドイツ語を話す人たちが住むことで領地を増やすというのが、東方植民ですが、実際に実行した人たちや組織、タイミングは様々でした。

例えば当時、バルト海沿岸で「ドイツ騎士団国」が作られましたが、これはエルサレムへの十字軍に後れを取ったドイツ騎士団が、目的地を変えて東に進み、この土地を「キリスト教化」した「東方十字軍」の一端でした。そうすることで、ドイツ語を話すキリスト教徒が東方へと影響力を広げていったのです。

このような時代背景の中、東方植民はローカルレベルでも組織されました。スラブ人やバルト人の住む地域が征服されると、その土地の有力者は、植民事業の請負者Lokatorに対し、西方で移住希望者を募集し、彼らを率いて東方の植民村落の建設を行うよう、依頼しました。

植民していく人たちには、土地や自由市民になれるなどの特権も約束されていました。このLokatorは口も立ち、豪華な服を着て、多くの若者を集めて東での新しい生活と旅立たせました。

ハーメルンの「子供たち」が消えたというのは、町の「若者」を「子供達」と表現したのであって、実際に子供が連れて行かれたのではないという説も有力です。また、笛吹き男が「豪華な服を着て」と表現されることが多いのも、笛の代わりに弁が立ったのも、類似点です。

ハーメルン「子供達」の植民先は、エルベ川以東、ルーマニア、メーレン(チェコ)、ポーランド北西、ドイツ騎士団国(バルト湾沿い)だと考えられていましたが、地名学の学者が1997年に別の説を提唱し、PrignitzとUckermarkという二つの村が、植民先として有力になりました。

どちらもブランデンブルク州にあり、Prignitzはベルリンの北西、Uckermarkはベルリンの北東の、ポーランドの国境から近い場所で、意外にも現在では同じドイツ国内です。距離で言うと、HamelnからPrignitzは車で4時間、Uckermarkは車で5時間東です。

中世の東方植民では、元住んでいた地名を新しい土地に付ける習慣があり、ブランデンブルク州には、ハーメルン所縁の地名があります。またこの地方には、ハーメルンに多い苗字も見られるそうです。

歴史的に言うと、1227年デーン人を下したBornhövedの戦いの後、バルト海南岸のスラブ人の住んでいた地域が、東方植民の対象となりました。ポメラニアやブランデンブルク(Uckermark、Prignitzを含む)の有力者は、Lokatorを雇い、

ニーダーザクセン州(ハーメルンを含む)やウェストファリア州から若者を送り込みました。つまり、ハーメルンがあるニーダーザクセン州から、UckermarkやPrignitzのあるブランデンブルク州への植民は、1284年ということで、タイミング的にも合致します。

また、ポーランドのポメラニア地方にも、ハーメルンを思わせるHamel, Hamler, Hamelnikowなどの人名が多いことから、ハーメルン出身者が多いと考えられています。

以上が、ハーメルンの子供たちがどこへ行ったのか?という疑問に対する謎解きでした。オーストリアのクロスターノイブルクの方の笛吹き男伝説は、子供たちが消えたくだりは後付けの創作とされていますので、→

史実との整合性はないとは思いますが、ドナウ川を下ってコンスタンチノープルで人買いに売り飛ばされ、その金を笛吹き男は、ネズミ退治の報酬とした、という物語になっていて、行き先がローカライズされていますね。

というわけで、色々歴史を紐解いていきましたが、こうやって一つの時代の一つの事件を追ってみると、欧州の歴史を横断的に見ることができ、玉突きのように物事が影響し合って動いていることがわかって、面白いですね。

ウィーン在住10年以上/オーストリアの歴史&文化&社会・ミュージカル・古城・バイリンガル育児・国際情勢/フォトライター/ wienmusicalworld.com /長男9歳、次男6歳、長女2歳/子供たちと過ごすのと、ウィーンの歴史散策が至福の時間♪「読むウィーン🇦🇹」→@Wien2Read

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  3. 2021/06/16 07:02:58 公開
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