「なんていうか人間の無意味な感情...」、@satetu4401 さんからのスレッド
なんていうか人間の無意味な感情に「自分の身内なんだからこれくらいしてくれて当然」というのがある
例えば赤の他人が、働いた給料で自分を養ってくれたり、自分の代わりに家事をしてくれたりしたら、すげーありがたいのに、夫や妻という身内になると感謝の気持ちが無くなってしまうというわけだ
これは、本来とても価値のある特別な組織人だけが持つべき感情だ。例えば非情に安定した経営を数十年続けている経営者が「この企業に務められるなら給料以上の働きをして貰うのは当然」と考えるのは正常だ、30万払えるのと30万を向こう数十年払い続けられるのは同じではない
あるいは昔ならこの感覚は正しい、田畑や水源を持っている家族に加わるということは「その田畑や水源を争って流れた血、失われた命、そういうものを支払わずタダ乗りする」という事なので、古参と新参は対等ではない
しかし現代の感情は違う、それらはマーケティングによって作られた消費者像に過ぎない。家族に尽くす父親も母親も、その方が企業にとって都合がいいからという理由で作られたイメージに過ぎず、なんら合理性は存在しない
人間が親に感謝するのは「別に生みっぱなして死ぬまで放っておいても良いのに育ててくれた」からだ
夫に感謝するのは「養う義務などないのにお金をくれるから」だし妻に感謝するのは「家事をしなくてもいいのにやってくれるから」だ
本来、人間にはそんな義務はない、無いから感謝がある
そして義務など存在しないから、当然やらなくても腹は立たない。夫は家に金を入れなくてもいいし、妻は家事をやらなくてもいいし、親は育児をしなくてもいい
そこをあえてやるから感謝が発生する。感謝が発生するから気持ちが良くなって、やる必要がないけどやる、これが自然かつ健全な人間の在り方
しかし、それじゃあ都合が悪い人間が居る。父親にはもっと死ぬ気で稼いで欲しいし、母親にはやる必要のない家事のために家電や掃除器具を買い揃えて欲しいし、親は子供に教育や玩具を買い与えて欲しい
そこで義務だ。夫の義務、妻の義務、親の義務、最近じゃ一人の人間に夫と妻の義務両方を背負わせて二倍働かせて二倍買い物をさせようとする有様だ
そうして「商業用の義務」に操られた人間は、義務を果たさない夫を憎み、妻を憎み、親を憎み、もっと義務を果たせとせっつくわけだ
これらの義務に従った人間の末路は悲惨なものだ。なぜなら、こうした義務に対する報酬が存在しないからだ。
安定企業が社員を給料以上に働かせた場合、社員は「より安定した企業」を得ることができる。そこで昇進すれば一生安泰だろう
だが、父親の義務や母親の義務あるいは親の義務といったものは果たした所で得るものがない
そりゃそうだ、これらは自然発生した理由ある義務ではなく、商業目的で制作された理由なき義務であるから、そこに報酬などあるはずがない
理由なき義務に汚染され、多くの子供が赤子の自分を育ててくれた事に感謝するより、大学に行かせて貰えない事をなじる腐った人格に変えられた
大人も似たような汚染を受けていて、いつも自分に何かしてくれる人に対して不満を抱き、周りの人間や社会に不満を持ちながら行きている
これは「不満を持つな」という単純な話ではない
これは「人々の不満を利用することで利益を得ている人間が居て、そいつらが商売のために不満を製造している」という話であり
こうした社会の構造に対して抗議しなければ、子供の頃から精神を汚染されて不満を持つ体質にされてしまうという事だ
それに親の義務など無いほうが幸せだった子供は大勢いる。親の義務がなければ「たまたま育てる気が無かっただけ、でも施設の人はまあまあ親切だし、義務教育も受けられたんで、こっから人生楽しむか」くらいで生きられた人間が「私は望まれて生まれてきた命ではない」みたいに思いつめてしまうわけね
俺はそういうのすげーくだらねえなって思うんだよね。育てる親は育てる、捨てる親は捨てる、育てられたら感謝してダメだったら諦める。現実的に子供が出来ることはそれだけだ。他に何もない
他に何もない癖に憎んだり悲しんだり、もう少し愛してくれと要求したり、そういう事に人生を浪費している
いま、多くの人間が自然発生したものではない人工の義務に振り回されて感情や人生を浪費している
そしてそのした浪費から金銭的・精神的な利益を得ている不届きな人間が居る。こうした仕組みから開放されることが健全な人間の幸福には必要なのである